2008/11/16

新国バレエ デヴィッド・ピントレーのアラジン 山本隆之 & 本島美和 初日 11/15 A  演奏会

【主要三役について】

この作品の主要三役といえば、アラディン、プリンセス、ランプの精(ジーン)であろう。三人三様、良さを出していたな・・・というのが、私の印象だ。

山本隆之のアラディンは、非常に線の細い前半戦から、少しずつ身が入っていくようになっている。冒頭の場面では、私はあまり目がよくないこともあって、ほとんど女性(少女)的ともとれる動きにみえ、かなり線が細い。もちろん、それは演技場のことだ。山本はコミカルな演技も得意とするようで、アラディンの不甲斐ない面も、上手に踊っていた。山本のファンにとっては、彼らしい毅然とした踊りが少なかったことに不満があるかもしれない。ただ、トレウバエフの踊った魔術師役が典型的であるように、ビントレーの場合は、踊りとそうでないものの差がきわめて小さい。山本も、そうした表現をしっかり身につけたということだろう。

シルエットになってしまうが、第3幕で空飛ぶ絨毯に乗る場面で、大空を征服したような山本の動きは、誇らしげなデイヴィスの音楽に乗って、オトコのロマンを誘う。

プリンセスの本島美和も、レヴェルが高い。プリンセスはこの振付のなかでは、もっともバレエ的な動きが豊富なソリストである。その動きの精確で、しなやかなフォルムは、今回のプリマのなかでもとりわけ目を惹くものになるだろう。もっとも素晴らしいと思ったのは、第3幕の最初で、魔術師の宮殿で踊った2つの踊り。最初の踊りはカタチこそ美しいが、気持ちが入っていなくて退屈だ。魔術師も、それを感じ取っている。ところが、アラディンと再会したあとの踊りは、サロメの「7つのヴェールの踊り」(脱がないけれど)を思わせるほど、芝居っ気に満ちみちている。魔術師もそれに興奮し、みすみす薬を口にすることに・・・。

最後のグラン・パ・ド・ドゥ(というのですか?)でみせた優雅なフォルム、第3幕冒頭のままごとでみせたナチュラルな優しさ、そして、第2幕の湯浴みの場面で、赤い球をアラディンに投げ返すときの夢見るような表情、最初の幕の最後に見せたプリンセスの気品・・・。本島のプリンセスは、どちらかというと、面倒見が良い感じにみえる。一方で、ものすごく無防備で、信心ぶかい。疑うことを知らないだけで、アラディンと比べると、まだ子どもの部分が残るわりによく出来ている。一途で、裏表がない。最後、ジーンが去っていくときに、姫だけは彼に声をかけていた。それを聞いて、ジーンは嬉しそうに下がっていく。どんなことを、伝えたかったのだろう。多分、アラディンに出会わせてくれて、ありがとう・・・そういうことだと思うが!

ジーン役の吉本泰久は、ビントレーのインタビューにも度々名前が見えており、注目を集めた。私はバレエは数えるほどしか見ないので、いろいろなページを参考にせざるを得ないが、彼の評判はすこぶる芳しい。ビントレーが言うように、機動力が高く、スピード感に満ちたランプの精であった。登場もファンタジックで、振付家のアイディアが惜しげもなく注ぎ込まれたことは、自明である。洞窟のシーンの最後、岩のふたを開けて颯爽と登場する場面。アラディンの家に登場する際は、スモークに包まれながら、ワイヤーで釣られて宙に浮いていた。サルタンの前に登場するときは、「どこから出たの?」という感じだったし、第3幕、アラディンたちの絨毯を浮かび上がらせる場面では、セットを抜いていくときに、ジーンがクルクルと走りまわることで勢いをつけていた。

ランプの精=ジーンは題名役よりも作品を象徴する存在だけに、この役をどんな風にアピールするかで、作品の印象も変わってくるだろう。吉本の敏捷な動きは、ずんぐりした大男であるはずの、ジーンのイメージを180度回転させたものだが、それにもかかわらず、ランプの精の力に実感が伴い、悪くはなかった。しかし、動きの洗練という点から見ると、やや粗いという印象は拭いがたいのではないか。

魔術師の手からランプが取り戻されたあと、ジーンが2人に謝るような振付があったのだが、あれは何なのだろう。ランプの精に「意志」はないようだが、そんなジーンであっても、やはり2人に惹かれるところがあったのであろうか?

【洞窟の饗宴では・・・】

ダンサーたちの品評会ともなる、洞窟のなかでの宝石たちの踊り。ここで人気が高いのは、どうやらルビーの厚木三杏&陳秀介組と、エメラルドの寺島姉妹&中村誠ということになるようだ。ルビーは激しい動きで、華やかな舞いだけに、人気が出るのはわかる。エメラルドは対照的に、大人の踊りである。

私の気を惹いたのは、ゴールド&シルバーの川村真樹。そして、ダイヤモンドの西山裕子だ。特に、川村の線の美しさというのは、なかなか真似ができないのではないか。ロシア風の音楽に乗り、彼女のつくるしっかりした身体のラインは、(舞台は洞窟内とはいえ)雪の中にもしっかり栄えるゴールドの輝きを、芯から表現している。左右の身体面をきれいに使い分け、衣裳のまぶしさも限界まで生かしきっている。

西山は小柄だが、身体を大きく使い、無駄のない表現をしている。コール・ド・バレエの中に入っても、しっかり存在感があり、群舞のなかをさりげなく抜けてフロントに出てくる場面は、静かながら、迫力のあるシーンだったと思う。彼女も動きの優美さが際立っており、透明で、派手さはないものの、優しくて素直ないい踊りをする。

もちろん、ここで名前を出さなかった人たちも、それぞれの役柄のなかで、よく考えた踊りを披露してくれた。主要役はもちろんだが、こうした脇のダンサーたちも、この作品への共感が高く、自分たちもこの作品を作り上げる大事な駒(今回の衣裳は、チェスの駒をイメージしたものだそうだ)であると考え、各々、ベストを尽くしている様子が舞台からヒシヒシと伝わる。

【オーケストラについて】

管弦楽は、初日にしてはかなり完成度が高い。金管など、いくつか目立つミスはあるが、雰囲気をぶちこわすような質のものはない。東フィルはしばらく聴いていなくて、ピットでしかお目にかからないが、だんだんアンサンブルの一体感が増し、良くなっているようだ。

指揮のポール・マーフィーは、ビントレーの根城でも活躍する音楽面のパートナーであり、この公演でも、舞台との一体感がきわめて近しい伴奏に仕上げていた。バレエを知り尽くしているだけでなく、ビントレーのことをよくわかっている。音楽的には多少無理がありそうな場面もあったが、たとえそうであっても、鞭を入れねばならない場面があれば、マーフィーは躊躇わない。ベースは整然としており、響きにムラがない。アーティキュレーションも美しい。バレエ指揮者は大成しないと言われるが、彼の場合、ピットから上がっても十分に魅力を示すことができるはずだ。

新国バレエ登場の指揮者では、プロコフィエフの「シンデレラ」を見事な音色で織り上げた、エマニュエル・プラッソンが印象に残っているが(ヨーロッパの劇場で相変わらず活躍中)、このマーフィーも優れた指揮者だろう。特に、今回のようなリリカルで、すこし懐古的な感じのする音楽(英国音楽はそういうのが多いからだろう)は、得意とするところではないかと思う。

【ちょっとだけよ・・・】

振付に戻るが、デヴィッド・ビントレーは、一気に見せるということを好まない。バレエ全体のコンセプトを詰め込んだ第1幕冒頭は例外的だが、自分たちの都合で、だらだらと手のうちを見せてしまうのではなく、前兆をうまく差し挟んだり、ちょっとだけ見せておいて、気をもたせるのがうまい。

例えば、ランプの精は、第1幕第2場のおわりに登場するが、そこはシルエットだけ。シルエットだけだが、すこぶる神秘的である。次の場では舞台奥の紗幕を破って、煙とともに登場しワイヤーに釣られている。前場の雰囲気を損なわず、予想を上回るファンタジーを伴って出現する。だが、ここでもまだ踊らない。ようやく最初の踊りが来るのは、第2幕第2場に入ってである。

姫の登場シーン(ここでは、魔術師のみせる幻影としての登場ではなく、第5場における実体の出現を指す)も、かなり思わせぶりだ。通常の発想であれば、プリンセスの魅力を示すような華麗な踊りを披露して、アラディンが一目惚れするようにデザインする。だが、ビントレーは姫を輿から降ろしはするが、すこし顔見せをしただけで下がってしまう。この場面は、次の場における本当の出会いの前触れとして使われ、そこに赤い球のやりとりが含まれている。

第2幕の最後、魔術師はアラディンがランプの精の力を使っていることを知り、サルタンの王座を前に、なにやら企む。ここで、印象的な魔術師のテーマが表れる。これを前触れとして、次の幕の誘拐騒ぎが起こる。いざことを起こしたときに流れるのは、先程のテーマだ。このあたりは、まず音楽に仕掛けられたトリックであるが、前の2つの例と同じような意味あいになっていることは、言うまでもない。

空飛ぶ絨毯の場面も、誘拐後のシーンに前触れがある。正確には、まずプリンセス誘拐のシーンで、魔法で浮かび上がったジーンと手をつなぎ、魔術師とプリンセスも宙に浮かび上がるシーンが始まりだ。次のディヴェルティメント的な音楽をバックに、3人の人形が空を飛ぶ場面が来る(これは陳腐だが、英国でおこなわれるアラディンのパントマイムを意識しているのだろう)。これと同じ構図ながら、アラディンと姫は人形ではなく、本当に絨毯で空を飛ぶ。浮かび上がる様子は、助走となるジーンの動きのあと、ライティング、そして、ワイヤーで実際に吊り上げることで表現されている。おもちゃ的な仕掛けだが、デイヴィス得意のファンタジックな音楽に乗って、夢のあるシーンとして受け取られるだろう。

このように、ビントレーは大事なエピソードほど、2つ以上の場面を組み合わせることで、その効果を高める工夫を見せている。基本としては、スピーディーな場面転換がビントレーの特徴であるが、ときには、待つことも大事だと教えているのである。

【まとめ】

非常にいい舞台で、このまま喋っていくと、舞台の全部を語ることになりそうなので、大概にしておこうか。こういうのをネタバレというそうだが、ネタが割れても、まったく色褪せない面白さであるから、私はまったく悪びれる必要がない。インタビューで、新国での初プリマを体験する小野絢子が言うように、細かいエピソードが多く、1つ1つの動きに意味のある振付なので、瞬きしないで見たいような舞台である。

各所に載ったインタビューによれば、ビントレーはこうと決めた振付を押しつけていくのではなく、ダンサーとのコミュニケーションを大事にして、その人にあった振付を考えていくスタイルと言うことだ。キャストの変わる別の日にも鑑賞してみたいし、それに耐えるようなプロダクションである。
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2008/11/16

下野竜也 わが祖国 読響 芸劇マチネー 11/16  演奏会

今月の読売日本交響楽団の芸劇マチネーは、下野竜也の指揮で、スメタナの大曲、連作交響詩「わが祖国」の演奏である。この曲は1月に、J.コウト指揮プラハ響の演奏で聴いたのが、まだ記憶に残っている。また、下野の指揮する「わが祖国」ということになると、4年前、新日本フィルでの演奏に接したことがある。そのときの印象は、下野ファンの私としては珍しいくらいに地味なものだった。もちろん、オケの良さもあるが、そのころと比べると、随分と解釈が進んでいたのは確かだろう。

【ダイナミック・レンジと運動性】

オペラの序曲を聴くような「ヴィシェフラト」の見事な演奏に始まり、休憩なしで、全曲を一気に弾き上げた。コウトの演奏と比べると、どちらがチェコ人かわからないぐらい、激しい思い入れに包まれた演奏で、もっとスンナリした演奏を想像していた読響も、この日は熱演に徹した。起伏の激しいスラヴ人の気質を表現したと思われる、下野のコントロールはかなり思いきったものだ。基本的には、いつものオーソドックスな音楽づくりのスタイルを壊していないが、ダイナミック・レンジを広くとり、その運動性が高くなるように工夫している。

例えば、「ヴィシェフラト」のハープの序奏に続く金管の演奏を見てみよう。ここでは、最初の拍をスタッカート気味にして、跳ねるようなリズムをつくり、後ろをぐっと展開する。はじめは何をやっているのかと思ったが、木管や弦が入ってくると、徐々にそれがはまってくる。それだけではなく、あとで金管の強奏で同じテーマを吹くときにも効果的で、それが先程の運動性の問題に絡んでくるのだ。このテーマは作品全体のなかでも、とりわけ重要なパーツになっているが、それだけではなく、こうした素材の扱い方自体が、楽曲のなかに見つかるあらゆるフレーズの処理に適用される。大きな響きを立ち上げるときには、音量を上げるというよりは、どこかに運動をつくり、それをエネルギーに変換することで、自然に響きを育んでいるのがわかる。

【素直で、隙のない表現意図】

全体を通して、演奏はきわめて細かいものになっている。有名な曲であっても、細部をしっかり演奏することで、「ちがい」を出せるというのが下野の持論だ。だが、そのときに、針小棒大に「ちがい」を振りかざすのではなく、楽曲の流れに素直に従いながら、銀ラメのように、きらっときらっと「ちがい」を示していくのが彼の音楽の特徴である。

例えば、単独で有名な「ヴルダヴァ」の冒頭について、見てみよう。ここでは、木管の序奏部分を少しだけしっかりと演奏し、拍を際立たせるのが特徴だ。これで何が良くなるかと言えば、有名な主題に引き継ぐ役割をしたあと、さらに主題の裏で細かい伴奏を刻み続けるヴィオラの、あの響きが大変に美しく聴こえるのだ。このあたり、ヴィオラの音に愛着のある私は、ほとんどその音色だけに聴き入っていた。これをやるだけで、聴き手の注意力はより細かい部分に及んでいくが、それが、このあと急流を抜けたあとの、静かな部分で生きてくる。ここでは、妙な言い方になるが、木管のフラジオレットで金管の音色が(倍音のように)聴こえ、それを支えるように、弦の薄膜が張られたような印象を受ける。非常に面白い描写だ。

再び荒れ狂う部分から転調するまでの部分は、ワーグナー的ともいえる、非常に重い演奏に仕上げている。だが、転調してからは快速で、これも楽譜どおりなのであろう。

【シャールカ、ボヘミアの牧場と森から】

シャールカは、状景が浮かびやすい演奏である。饗宴からオトコたちが寝入ってしまい、そこを女戦士たちが襲うまでの場面は、説明不要なぐらい、その場面を音だけでよく写し取っている。シャールカたちの襲撃のシーンは、読響の驚くべき合奏力を示す部分で、恐ろしく速いが、整然としたアンサンブルが楽しめたものの、思わず背筋が寒くなる怖さのある演奏。最後の休符で、首が飛ぶのが見えた気がする。

つづく「ボヘミアの牧場と森から」は、私がこの曲のなかで、もっとも愛する部分だ。また、楽曲全体の構成を見たときに、「第2部」の始まりともとれる。なぜなら、それまでの3曲は、風景描写や昔ばなしであるのに対して、ここから先は、「現在」にスポットが当たっていくように感じられるからだ。この曲の最初の不穏な和音を、下野は力強く提示する。

その後、パウゼのあと、対位法の響きで土壌をつくり、そこにすっと風が吹くように管楽器の響きが混ざり、
ぬっと、ボヘミアの草原に生える大木が幹を伸ばす光景が浮かび上がるのは印象的だ。後半の短いエピソードが少しずつ提示される部分は、先程の運動性を生み出すキーとして、有効に使われている。合間に出る木管のエピソードと、その後に表れるギャロップの関係も、その類である。この曲の後半部分は、こうした対比に使える部分が多く、下野の手法がきわめて効果的に作用する部分でもあった。

【ターボルとブラニーク】

ターボルとブラニークは、正に「わが祖国」といった誇らしい演奏に仕上がった。力強い革命歌と、管楽器による優しげなエピソードが、ここでもうまく対比されている。もともと革命歌などが挿入されていることもあって、この2曲は少し芝居がかった感じにもなりがちなのだが、下野の演奏では、そういったこそばがゆいところがない。この2曲では、とりわけストレートに響きを追っていくようなところが強調されており、なんて爽やかな演奏なのだろうか、という印象が強かった。

ターボルの最後も、やはり、音符の動きの運動性を利用して、跳ね上がるような響きだった。コントラバスのパート・ソロは、「第九」を思わせる。休符や楽器の交代を利用しながら、運動エネルギーが貯まっていく締めの部分は、すごい響きだった。ほとんど続けて演奏されることもある2曲だが、敢えて、下野は間をとった。だが、エネルギーは保存されており、この冒頭部分は、明らかに前楽章のイメージと、そこで生み出されたエネルギーを引き継いでいる。再び対位法のアンサンブルでベースが描かれるが、その響きは、微妙に革命歌に似通っている。不明ながら、これは、いままで気づいていなかったこと。

ブラニークの終わりの部分は、3つの旋律の対比が面白い。革命歌「汝らは神の戦士たれ」は厳しく、引き締まった表情、新しい賛美歌「汝らの側の神とともに終末において勝利を収めん」はゆったりと伸びやかに、そして、「ヴィシェフラト」から引き継がれたテーマは誇り高く、愉しみに満ちて・・・という具合に、表情を変えていくのである。そして、この「ちがい」がまた運動のエネルギーを引き出し、圧巻のフィナーレを築くときに利用された。

【まとめ】

非常に、よい演奏だった。弦管がよく押しあい、音量が上がっても、充実した内声のおかげで、響きにきつさがない。チェコ人がもつ独特の自然感覚、また、舞踊のイメージはやや薄いが、構造をしっかり組み上げて、それを響きのなかに強烈に溶かし込んでいく演奏スタイルが、きわめて効果的であった。ノーランを中心とする弦のキレのいいボウイングも目立ったし、金管も好調。特に第2曲までに活躍したフルートの一戸など、功労者は数知れない。

演奏がおわったとき、私は思わず目をつぶった。そして、すぐに賞賛の声に変わったものの、会場も一瞬、静まりこんだ。あの心地よい、ほんの1、2秒のときが、この演奏のすごさを物語るにちがいない。確かに、下野は「ちがい」を示し得たのだ。

なお、この曲でも随所に活躍したチューバだが、八尾氏の引退以来、正団員がいない状況だったものの、この11月1日に契約を済ませ、元日本フィルの次田心平がメンバーに加わった。プログラムの表記が間に合っていないが、既にHPでは名前が刻まれている。今後の活躍に期待したい。


【プログラム】 2008年11月16日

1、連作交響詩「わが祖国」(全曲)

 コンサートマスター:デヴィッド・ノーラン

 於:東京芸術劇場(大ホール)
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