2008/11/15

新国バレエ デヴィッド・ピントレーのアラジン 山本隆之 & 本島美和 初日 11/15  演奏会

新国立劇場バレエの公演、世界初演となる「アラジン(アラディン)」を拝見したが、目の覚めるような舞台だ。ミュージカル、テレビ、映画などでも活躍するというカール・デイヴィスの音楽は、もともと2000年のエディンバラ・フェスティバルのために書かれたものだが、ビントレーによる振付は、これがプレミエとなる。ビントレーが大事にアイディアを温めてきたという新作、「アラディン」の初演の地として、日本の新国が選ばれたことは、東西を繋ぐこの作品の背景にも関係しているのかもしれない。

舞台装置はディック・バード、衣裳はスー・ブレイン、照明はマーク・ジョナサン。管弦楽は、ポール・マーフィーの指揮による、東京フィル(コンマス:平澤仁)。

【C.デイヴィスの音楽について】

まず、デイヴィスの音楽について触れよう。「アラディン」の音楽は、NAXOSからもリリースされていて、私はその視聴を体験することで、作品への興味をもった。彼のほかの作品については知らないが、この作品については、クラシカルな音楽をしっかり研究し、オーソドックスなバレエ音楽として、じっくり練り上げられている。聴いたこともないような新しさこそないものの、クラシック・バレエのファンとしても耳に馴染む音楽で、聴きごたえがある。

すこし無理なパッセージが見られたり、盛り上げ方がワン・パターンという感じもあるにはあるが、転換が早く、キビキビとして流れが早いところはバレエ向きであるし、なにより、非常に繊細な表情を織り込んでいて、この音に寄り添った振付がつけられれば、もはや、プロダクションの構成に悩むことはない。70歳を越えるベテランでもあり、その経験は随所に生き、オーケストレーションも巧み。「アラディン」では、基本的にはクラシカルなものが目指されているが、適度にミュージカル風のテイストも混ぜられ、デイヴィスのキャリアが詰め込まれた佳品に仕上がっている。

いろいろ言葉を弄したが、要するに魅力的な作品だということ。例えば、プリンセスが登場するときの、中国風の音楽は気に入った。金管を中心にしたゴージャスな響きでコートされているが、内側にはノスタルジックで、温かく優しい音楽が含まれており、こころの琴線に触れるものがあった。宝石たちの踊りでは、それぞれに性質を表す多様な音楽が書かれているが、私が特に気に入ったのは、ゴールド&シルバーのところで使われるロシア的な旋律だ。ラヴ・シーンで使われる中性的で、繊細な音楽は、振付家の腕の見せどころ。アラディンと姫が絨毯に乗って帰るときの、ファンタジックなメロディ。獅子舞やドラゴン・ダンスで使われる太鼓の響きなどもいい。魔術師の性格を飾る、尖がった音楽のアクセントも印象的だ。

【ビントレーの解釈・・・複雑さから単純さへ】

ビントレーの解釈には、共感することが大きい。まず、「昔むかしのアラビアの市場」を描く第1幕第1場が重要で、ここで既に、彼のやりたいことがほとんどが出揃っている。ここは複雑性のるつぼで、美しいものも醜いものも、清らかなものも汚いものも、人間性のすべてが複雑に絡みあう様が、活き活きと描かれている。無邪気だが、盗みもするアラディンたち少年。物売り。足萎え(これは差別語?)や物乞い、衛兵たち(アラディンたちと揉める)、着飾った成金の商人たち(帽子を取られると禿頭!)、踊り子たち・・・。欲望や愛憎、不正や犯罪、権力、金銭、虚飾、嘘つき、ありとあらゆるものが、めくるめく動きのなかに溶け込んでいるのを見て、私はいきなり感動に打ちひしがれた。

こうした場面はオペラにもたくさんあるが、それらのほとんどはただの場景描写でしかない。例えば、たおやかな朝の歌に彩られた「カヴァレリア・ルスティカーナ」の最初の場面で、どれだけのことを詰め込むにしても限界がある。歌われていることが、我々の視野を限定してしまうからだ。しかし、ことバレエともなれば、歌や音楽に還元されない1つ1つの動きが、多焦点で舞台上にわっと広がっているこの場面で、観客が気づく限りのいろいろなものを一気に詰め込むことができる。デイヴィスの音楽も、それに耐える厚みをもっているが、本来、彼が想定したものよりも、ビントレーは効果的に最初の場面を使っている。

結局、この複雑性が徐々に解けていき、最終的に、すべてが愛という単純さに還元されていくというのが、ビントレーの今回の振付における、素朴で、力強いコンセプトとなっている。予め言っておくが、ここでは「愛のどこが単純なの?」とは問わないでほしい。みなさん周知のように、そして、ヴェルディ「トラヴィアータ」やプッチーニ「マダム・バタフライ」のような作品も教えるように、愛というものは複雑で、それこそはこの世に残る数少ない謎であろう。だが、少なくとも「アラディン」の世界では、アラディンやプリンセスの愛は、とても素朴なものとして描かれているように思う。

この舞台を観た人ならば、宝石の踊りによるいくつかのディヴェルティスマンを別にすれば、最初の場がもっとも活気があり、面白かったというにちがいない。然り。最初の場のような複雑性は、場面を追うごとに失われていき、徐々に焦点が絞り込まれていく。音楽も、少しずつ素朴で、穏やかなものに変わり、2つの動物の舞(ライオンとドラゴン)では、原始的、野性的なものにまで還元される。この構成が面白い。普通であれば、少しずつ厚みを増していき、最後にガーンと盛り上げたところで、指揮棒を下ろす。だが、この「アラディン」は複雑なものから、尾がとれ、ヒレがとれして、最終的に単純で、シンプルなものへと帰っていくのだ。

【アラディンの成長】

さて、最初の場面。盗みがばれて、アラディンは衛兵に捕まる。そこを魔術師が助け、愛欲と金銭欲の両方から誘惑して、彼を子分にするわけだ。まずは、魔術師の悪意がアラディンという1ピースを、欲望のなかに切り取ってしまう。最初の段階において、アラディンは母親想いというほかに、あまり長所はみられない。幕が開いて、暗闇のなかでランプに手の届かないアラディンのシルエットがすこしだけ見えるが、正にああいう状態だ。

魔術師に唆されるのも、良い人生経験であったかもしれない。実際、どうだったかはわからないが、めくるめく宝石の精たちとの出会いのなかで、アラディンが最初の階段を上るのは間違いない。なぜなら、すべての精たちが踊ったあと、全員の踊りとなったあとの場面で、アラディンの手がついに、ランプに届く場面があるからだ。

この宝石の精たちによるディヴェルティスマンは、作品の大きな見どころである。オニキス&パール、ゴールド&シルバー、サファイヤ、ルビー、エメラルド、ダイヤモンドのグループは各々、パ・ド・ドゥやコール・ド・バレエなどを伴って、種類のちがう様々な表現を、次々に披露していくからだ。それぞれのトップには見どころのある振りが用意され、ここに惜しげもなく、ソリストが投入されているので、主役組のファン以外にも楽しみがある。そして、これらの踊りに接していくうちに、アラディンのこころが豊かになって、ランプに手が届くというのは素敵だ。本来、金銀財宝に誘惑される場面であるが、それをビントレーは引っくり返して使ったのだ。そして、最後にランプの精との邂逅!

さて、第2の成長は、プリンセスとの出会いによってもたらされる。本当の出会いは、第2幕の湯浴みのシーンで訪れるが、ビントレーは必ず、重要なエピソードには前兆を示している。プリンセスとの出会いにおいては、第1幕の最後で、彼女に見とれたアラディンが姫に向かって、赤い球を優しく投げわたすシーンがある。この球は湯浴みのシーンにも登場し、姿を現したアラディンに向かって、姫さまが例の球を恭しくとってあったのを投げ返す、感動的な場面がある。あの一瞬こそ、アラディンの想いが姫さまに通じていたことを示すので、見逃してはならない。かっと胸の熱くなる1シーン!

すったもんだのあと、姫の姿をみてしまったアラディンは罪を許され、プリンセスと結ばれることになる。あらすじでは、ランプの精(ジーン)の魔法によって、財宝や奴隷たちが捧げられ、身なりをなおしたアラディンのことが、サルタンに認められたとされている。だが、ビントレーの振付では、アラディンの母親(灘波美保)が助命を願い出る場面が強調されていて、姫も必死に彼への愛情を説いていたことから、既に、その時点で、サルタンはアラディンを許そうとしていたものと見られる。そのため、この場でのジーンの活躍も、プログラムに書かれた「大混乱を起こす」というあらすじよりも、ずっと穏やかなものになっている。

こうして、人々に助けられながら、姫と結ばれたことが、アラディンの成長に寄与していることは言うまでもない。次の場のチェスの場面で、仲間たちが狩りの誘いに来たとき、寂しがる姫のために思い止まろうとする場面があり、アラディンが他人への思いやりを身につけたことが、ここで描写されている。

魔術師と対決し、プリンセスを助けるまでには、アラディンもすっかり頼もしくなった。フィナーレの場では、アラディンが自らランプをジーンに返す描写があり、一人立ちした青年の姿が、逞しく描かれていた。

【ビントレーの表現の特徴】

このように、ビントレーの解釈はアラディンの人間性の成長ということに焦点を絞っており、大人として突っ込みたくなる点、つまりは、政治的、社会的なことに結びつけていくような論調にも配慮しつつ、それを慎重に後景に止めていることは、正しい態度だと思う。大人の常識や趣向、風潮などに押し流されず、それはそれとして見つめつつも、作品世界をそれで強引に染め上げない点は、作品に対する観客の共感を高めることになるだろう。

いま、オペラ界では「読み替え」が流行っているし、私も嫌いではない。しかし、作品世界を大きく歪めてまで、現代との接点を無理やり作り上げるような発想にはついていけない。アラディンにはアラディンの発想があり、それは当然、我々のものとはちがう。ときには、現代から見れば、まったくナンセンスなことに悩んでいたり、賞味期限が切れたような要素がないとは言えない。だが、原則をいえば、それもまた作品のもつ固有の表情なのだ。

ビントレーの振付の優れた点は、ただ美しいからではない。私はむしろ、美しくないもの、すこし引っ掛かるものの多用というところに、彼の才能を感じるのである。例えば、曲がった腕、腰などの動き、無駄な動き、力強くない動き、格好のわるい動き・・・。これらをふんだんに使って、ビントレーは、それでも最終的に観客を満足させる動きを組み上げている。アラディンの母親は、腰が曲がっている。コール・ド・バレエから抜擢の灘波美保は、多分、生まれてはじめて、もとは美しくないものに、美しさを生み出す要素があることを知った。彼女はそのことを楽しみ、活き活きとして演じていた。

また、魔術師のマイレン・トレウバエフも、特殊な役を演じた。この役は重みのあるロールであるが、面白いことに、これはいかにもというバレエ的な表現は少ない。第3幕の姫との踊りで、それらしい動きがあるが、最終的に姫を邪険に扱うために動きを壊さなければならない。一方で、邪悪なことをやりながら、すこしは可愛らしさを出さなければならないような、パントマイムの動きがふんだんに求められている。マイレンは、こうした特殊な役柄をしっかり理解して、灘波同様、活き活きと演じていた。この2人には、隠れた功労者として拍手を贈りたい。

筆がすこし逸れたが、ビントレーの表現にみられる特殊性として、是非とも書いておきたかった。

・・・次回につづく。
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