2008/11/9

水戸室内管 with ショルンスハイム & シュトゥッツマン ヴィヴァルディとバッハ 11/9  演奏会

水戸室内管(MCO)の今回の定期は、指揮者なし(最後のスターバト・マーテルのみはシュトゥッツマンの歌い振りがついた)でのコンサートである。ソリスト、通奏低音以外は、弦楽アンサンブルのみという、シンプルなスタイルでの演奏を楽しんだ。また、ヴィヴァルディの「スターバト・マーテル」を中心に、ヴィヴァルディとバッハに焦点を絞り、しかも、その協奏曲、もしくは、協奏的な性格をもった作品のみを取り上げるという、手の込んだ構成になっている。

また、ソリストを含む出演者たちも、目に見えない糸で繋がっている人たちばかりで、見どころが多かった。

演奏会はまず、クリスティーネ・ショルンスハイムをチェンバロ独奏に迎え、バッハのチェンバロ協奏曲第1番(BWV1052)で始まった。世界を代表するチェンバロ奏者のひとりである彼女は、昨年のヴィンシャーマン指揮による「ゴルトベルク変奏曲」の演奏で、チェンバロ独奏を見事に務め上げたのも記憶に新しい。今回の曲目は、よりヴィルトゥオージティのはっきりした作品で、ピアノとちがい、残響に頼ることのできないチェンバロを弾くときのタイトさが、ショルンスハイムの精緻な打鍵から明らかとなる。

オーケストラは響きの艶を失わないように細心の注意を払いながらも、かなり控えめなバックをつくる。チェンバロ自体、響きの華やかさこそあるが、大きな音の出ない楽器なので、音量という点からいえば、ホールを埋め尽くすような重みはない。ただ、そこを弱点と感じさせることはなく、むしろ、僅かな響きを拾い集めることに聴き手の関心を完全に引き寄せ、焚き火に当たりながら、聖書の群読をするような雰囲気を感じさせたことは面白い。

若いアンサンブルでは、なかなかこうはいかない。大人の演奏だ。

第2楽章のアダージョでは、さうがにバッハを知り尽くしたショルンスハイムのリードで、シンプル、かつ、素朴な音の連なりが、かえって劇的な要素を引き出す不思議を浮かび上がらせ、ぐっと来るものがあった。豊嶋、安芸、店村、原田によるクァルテットと、独奏が重ねられる部分の美しさは無類だった。。

なお、この後の曲目でも、ショルンスハイムは通奏低音として加わった。

つづく、ヴィヴァルディのファゴット協奏曲(RV849)は、MCOのメンバーにも名を連ねるダーグ・イェンセンがソリスト。最近、さかんに活躍するヴェネツィアの古楽アンサンブルなどによる、快刀乱麻のヴィヴァルディのイメージよりも、ヘッセン=ダルムシュタット辺境伯に仕えたこともある「紅毛の司祭」の、バッハとの共通点を感じさせるような演奏である。イェンセンの上品で、紳士的な演奏も手伝って、ドイツ的な、落ち着いた音楽づくりが特徴となる。ヴィヴァルディ解釈としては、古いタイプのようであるが、それはそれで据わりが良い。ただ、あまりにも真摯な演奏であるため、ヴィヴァルディならば、もうすこし響きにユーモアがあっても・・・と感じさせるところがあるが、それは不満というよりは、もうすこし柔らかいものである。

対照的なのが、次の工藤重典の演奏である。曲目は、同じくヴィヴァルディのフルート協奏曲集より、第6番(op.10-6/RV437)。冒頭の1分強だけで、この曲で工藤の表現したいものを感じ取ることができた。一口に言えば、それは音色である。冒頭から工藤の奏でるのは、フレンチ・フルートの優雅で、色彩感に満ちた音色。そこにすっと割り込んでくる、祝祭的な部分は日本の祭りばやしをイメージして吹いているはずだ。バックは、イェンセンのときよりも、かなりシャープなものを要求しているが、それが都会的な洗練とならないように、細心の注意が払われている。そこにはイタリーの、熱い風が吹いているのだ。

フランスの音色、和のこころで奏でる、イタリーの風・・・。工藤は、個性を大事にするフルーティストだが、その信念をありありと感じさせる、オリジナリティに満ちた表現だ。この日は過剰な湿り気もない天候で、彼のフルートも絶好調とみえ、前半の大きな盛り上がりを築いた。

ここまで、この日のメンバーが思い描くヴィヴァルディ像は、最近のイメージよりもずっと穏やかで、信仰心に満ちた「紅毛の司祭」の素顔に迫るもののように感じられる。

後半は、バッハのブランデンブルク協奏曲第3番から。2本ずつの第1/第2ヴァオイリンとヴィオラ、3本のチェロ、そして、チェンバロ。パートが細かく分けられ、1本1本が独特の役割をもった曲想を捉え、チェロと鍵盤以外は立奏した。前半は弦のアンサンブルが噛み合なかったが、再びチェンバロの活躍するアダージョから急速に持ちなおし、アレグロではかなりなれてきた感じだ。準備不足は明らかだが、アジャストの早さはさすがである。

最後は、コントラルトのナタリー・シュトゥッツマンを迎えて、ヴィヴァルディの「スターバト・マーテル」を演奏した。今回は指揮者なしだが、既に述べたように、シュトゥッツマンが歌いながら随所に指示を送り、珍しい「歌い振り」が実現した。

指揮者がアンサンブルを整えるために、スーッと息を吸い上げたり(あるいは、吐き出したり)、軽く歌ってみたりすることがあるが、シュトゥッツマンもそれをやる。だが、さすがに世界を代表するコントラルト歌手だけあって、それさえも歌ごころに満ちているのは面白かった。冒頭、向こうをむいてオケをすこし指揮したあと、そうしてスーッと吸い上げた息が、歌いだしのためのブレスだったと気づいたときには遅い。素早く向きなおって、’Stabat Mater dolosa...’ と始まると、鳥肌が立った。

いまさら、改めて書くまでもないが、シュトゥッツマンの透き通って、どこにも力の入っていない、だが、どこまでも届きそうな、そこはかとなく重い、だが、実は軽いコントラルトの歌声は、誰にも代わりのきかない独特なものである。とはいえ、正直なところ、「悲しみの聖母」と「指揮」という行為は、私のなかで、相容れないように感じていた。我が子を喪ったマリアが、誰に向かって、何のために、指揮をしたりするだろうか。しかし、今回のパフォーマンスを聴くかぎり、その問いは不要のものだったのかもしれない。2つのことはシュトゥッツマンのなかで明確に分けられ、かつ、一体化していたからだ。

例えば、槍が降り注ぐような弦の鋭いボウイングにのせて、歌われる「さあ、御母よ、愛の泉よ・・・」で、「悲しみの聖母」の堪えきれない想いを歌いながら、その合間にふっと滲み出たシュトゥッツマンの笑顔(と言っていいのかわからない)が、私としては忘れられない。立ち尽くす「悲しみの聖母」のなかに完全に入り込んでしまいながら、同時に、歌い手としてそこに立っている自分の喜びを、シュトゥッツマンは隠さない。そして、指揮という行為は、そうした喜びの延長にあるものでしかないのだ。悲壮な曲調から、最後にガラリと光射すような和音で解決される「アーメン」の部分には、そのようなシュトゥッツマンの姿勢が、楽曲の表現からみても、正に適切であることを示しているのではないか。

オーケストラもまた、そのような歌い手の想いに完全にシンクロし、ダンスとも、指揮振りともとれる、シュトゥッツマンの身体と手振りに敏感に反応していた。今回は編成も少ないことから、歌い手とバックの楽器たちとの室内楽・・・という雰囲気も多分に感じられたが、そこから滲み出るアンサンブルの無駄のなさなどは、メイン以外のすべての曲に共通しており、このグループの最大の魅力として訴えかけるものがあった。そして、そうした薄味の中でこそ、シュトゥッツマンの透明な歌声が、真の輝きを発するのである。

1つ1つの演目が素晴らしかったと同時に、そこで各々に表現される協奏のカタチの多様さというのが、彼らの積み上げてきたものを象徴する。その表現の柔らかさは、それぞれの曲目で独奏を務めた人たちにどれだけの自由を与えたか、計り知れないのである。どこをどう押し出すかによって、彼らはまるで別のアンサンブルのように豹変するが、芯の部分では、絶対に変わらないものがある。彼らには、目に見えない絆があるからだ。

こころ温かくなる、コンサートであった。


【プログラム】2008年11月9日

1、バッハ チェンバロ協奏曲第1番 BWV1052
 (cemb:クリスティーネ・ショルンスハイム)
2、ヴィヴァルディ ファゴット協奏曲 RV489
 (fg:ダーグ・イェンセン)
3、ヴィヴァルディ フルート協奏曲 op.10-6/RV437
 (fl:工藤 重典)
4、バッハ ブランデンブルク協奏曲第3番
5、ヴィヴァルディ モテット「スターバト・マーテル」
 (cond. & コントラルト:ナタリー・シュトゥッツマン)

 於:水戸芸術館 コンサートホールATM
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