2008/11/24

ゼッダ マホメット2世 ROF日本公演 11/23  演奏会

やはり、オペラはこうでなくては!

ロッシーニ・オペラ・フェスティバル(ROF)は、イタリアの小都市、ペーザロでおこなわれる著名な音楽祭だ。街は小さいが、アルベルト・ゼッダをディレクターに、ロッシーニ・ルネッサンスの震源地のひとつとなった音楽祭は、スポレート実験歌劇場をモデルにしたようなアカデミーも充実させ、よく鍛えられたベルカント歌手を輩出する音楽祭として、声望を高めつつある。ナントの「ラ・フォル・ジュルネ」とともに、是非とも日本に来てほしいと思っていたフェスティバルだが、今年、その夢が叶った。

今回の来日に際しては2プログラムが持ち込まれたが、この日の演目は、音楽祭のディレクターでもあるロッシーニ演奏の第一人者、ゼッダ指揮による「マホメット2世(マオメット2世)」だ。オスマン帝国の「征服王」メフメト2世のネグロポンテ征服が素材になっているが、この作品では、ヴェネツィア勢が最後に立て籠もった砦が落ちず、オスマン軍が敗れることになっている。ハッピー・エンドのヴァージョンもあるそうだが、今回は、ヒロインのアンナが自決するナポリ初演版に基づく上演ということである。

それで、「オペラはこうでなくては!」と興奮気味に書いてみたのは、まずロッシーニの音楽の求心力がとても強く、そこにぐっと凝縮していくプロダクションの意図が、シンプル、かつ、強靭に表現されていたせいだ。その点で、どこの記事でも書いていることだが、やはりゼッダの指揮の素晴らしさは、この上演の鍵となっている。リブレットは筋が強引、かつ、支離滅裂で、演出も悪くはないが、大したことはやっていない(それでも、昨日のマクロプロスと比べれば、十分に細やかな動きがついているが)。ボルツァーノ・トレント・ハイドン管は、日本のオケでも代わりが効きそうなぐらいだ。そんな素材であっても、ゼッダは魔法のように魅力的なものに変えてしまう。その秘密を、私の筆が少しでも解き明かすことになれば、幸いだ。

【マホメット2世の革新性】

今回、上演した「マホメット2世」は、ロッシーニのオペラ作品としては、中期から後期に移るころの作品で、その後の作品としては、セリアの代表作品とされる「セミラーミデ」や、近年、人気演目となっているブッファの佳品「ランスへの旅」などがつづく。

まず、この作品は、序曲をもたない。ほんの短い序奏のあと、すぐに幕が開き、ネグロポンテ陣でのやりとりが始まる。これに代表されるように、「マホメット2世」では、アリアや重唱などが他の部分と連結し、場ごとにほとんど切れ目なく、作品は進行していく。ダ・カーポ・アリアは残っているものの、「これがアリアです〜! 拍手!」という感じの部分は少なく、その雰囲気をすぐに引き継いで、次の場面が動き出す。例えば、最後の幕でアンナの母の墓前で歌われる、アンナ、カルボ、パパ・エリッソ(以下、単にエリッソ)による三重唱はとても感動的なのだが、すぐにカルボとエリッソは逃走し、見送ったアンナが一人で残る場面となる。向こうから、女たちの祈りの声が聴こえてくる・・・という具合である。

これが当時のオペラ様式のなかで、どの程度、新しいスタイルであると言えるのかはよくわからないが、後輩のヴェルディなどと比べても、(古い部分を残しながらも)この作品の構成からは「新しさ」を感じさせるだろう。

コロラの使い方もそうである。この作品の実質的な主役、アンナ・エリッソには、明らかにドラマティックな声と表現力が求められている。しかし、それにもかかわらず、我々の耳に残るのは、あの美しいコロラの部分であろう(それをまた、この日のプリマが見事に歌ったせいでもあるが!)。これは例えば、先年、日本でも上演されたヴィヴァルディの歌劇「バヤゼット」で、見るも見事なコロラで装飾されたダ・カーポ・アリアが見事に織り込まれていたのとは、すこし訳がちがうようだ。なぜなら、この作品における声の装飾は、それを歌うキャラクターの内面にある不安さ、恐怖、迷い、揺れなどと、密接に結びつけて使われているからだ。

アンナは最初の陣営の場面を除き、ほとんど出ずっぱりの役だが、最初から最後まで、悩み、驚き、畏れ、心配し、迷い、揺れながら、時を過ごしている。だから、その分、アジリタが豊富に求められている。ロッシーニの作品の醍醐味は、難しいアジリタをいかに巧く歌いこなして、表現の高みに達するかということがある。だが、この作品では、技巧的なものはある種の必然性に基づいて導入されている。難しい部分には、必ずと言っていいほど、感情の重要な極点が当てられていて、そこにぐっと想いが載っていくので、歌手としての集中力の頂点が、歌っているキャラクターの感情の頂点に、自然と重なりあうように構成されている。

この「マホメット2世」において、音楽の求心力が並外れて強いのは、(ゼッダの手綱さばきを別にすれば、)そのような構成の妙から、至極当然とも言えるぐらいなのである。

音楽の発展がワン・パターンでなく、予想がつかないことも、この作品の「新しさ」を示すことになろう。これは既に述べた、切れ目なく引き継がれていくドラマの構成にもよっているのだが、作品を知らない人だったら、絶対に流れが読めない。普通のダ・カーポ・アリア満載の作品ならば、大体、ここでこう来るんだろうという予測がつきやすいものだ。ところが、この作品では、思わぬ契機で音楽が発展し、意外な方向に抜けていく。そのパターンが、ひとつの作品のなかで、かくも多彩であることは驚くべきだ。

例えば、第1幕第3場、乙女たちの不安な気持ちが、アンナという中心を得ることで、聖歌のような清らかな歌の旋律に溶けだし、救いとなっていく場面。何気ない心情の吐露が、最終的にロッシーニのもうひとつの得意分野であった宗教曲のエレメントと結びつき、まことに見事な場面である。ハンペも、背の高い十字架のモニュメントをうまく使い、その音楽的な魅力を補足している。すこし進み、娘を置いて砦に向かおうとするエリッソをカルボが押し止め、決意を翻してはどうかと迫る場面は、カルボの歌いだしからアリアのように始まり、やがて、エリッソ、アンナ、マホメットが加わり、4声のコンチェルタートに発展する。終幕で、母の墓前でアンナとカルボが結婚する場面では、ダ・カーポの構造を上手に使い、まずカルボの独唱、つづいてアンナが入って二重唱、最後にエリッソが入って三重唱となる。入り方にも工夫がみられ、息を呑む名場面に仕上がっている。そのほかのアリア的な部分にも、工夫がみられる。例えば、アンナの死の直前のモノローグでは、静かなカバティーナのみで、驚くほどの効果を上げている。

これは歌だけについていえることではなく、管弦楽についても同じなのであるが、それについての言及は割愛する。だが、1つの作品のなかで、これだけ多様なやり口で音楽の流れを構築し、組み合わせていく例は、なかなか見られない。

【ロッシーニの音楽だからこそ到達できる深さ】

作品自体は、きわめて重い内容をもっている。追い詰められたキリスト教徒が(多分、神のご加護により、)砦の防衛戦で逆転するという、ストーリーの都合よさは指摘できる。だが、喜び勇んで、解放を喜ぶネグロポンテ陣の描写などはない。作品のほとんどは、苦悩、敗戦の恐怖、不安、別離、実らぬ恋、後悔、屈辱、敗北、八つ当たり、絶望、死など、暗い要素ばかりで仕立てられている。

真実の愛でさえ、この作品では救いとならない。例えば、エリッソとカルボを拷問しようとするマホメットの前に、アンナが赦しを乞いに現れる。そこで、アンナはかつては別の名前を名乗っていた恋人と再会するのだが、アンナが男の顔をみたとき、音楽は一瞬、アンナの心臓を一突きするように、劇的なパウゼを挟む。そして、すべてがわかった瞬間に、陰鬱な旋律に閉ざされてしまう。恋人との再会、それは、かつて愛しあった人が、仇敵・マホメットその人だったことを知る瞬間だったからだ。

このように、歌劇「マホメット2世」は、常にやりきれない世界のなかを行き来する。あまりにも豪華な、2500円というプログラムの値段に尻込みして、なにも筋を知らずに観劇した(もちろん、この作品は初めて)私は、救いが遠ざかり、どうしようもなく人間関係がもつれていくごとに、このオペラは本当におわるのだろうか、と心配したほどだ。どんどん闇へ闇へと下っていき、際限がない。こういう作品としては、ヴェルディの「運命の力」や「マクベス」などを思い出させるが、この作品はもっと実感のある痛さが伴い、それは先程のアンナとマホメットの関係からみても、よくわかるように思われる。

この作品では、どこにも逃げ場がないのだ。マホメットはアンナに優しいが、この状況では、父やカルボに不名誉を着せるしかなく、自らも汚名を被ることとなるし、第一、信じる神さまさえもちがう。かといって、マホメットへの想いが消えることはない。断ちがたい親子の情、カルボとの友情、神の前での倫理、人間としての節度、そういうものが、本来、これらのものを一挙に乗り越えてしまいそうな(だが、実際にはそうもいかない)愛情の強さと、厳しく突きあわされる。

だが、結局のところ、アンナは愛に生き、愛に斃れた。ロッシーニは、このような苦難のときでも、最後に大きく輝くものは、愛であると宣言したのだ。重要な場面が、2つある。1つは、第1幕の最後で、アンナへの愛情を示すために、マホメットは軍陣の大原則を翻し、エリッソとカルボを解放する。もう1つは、言うまでもなく、大詰めのアンナ自決の場面である。どんな困難を乗り越えても、アンナはマホメットとの愛だけは捨てることができなかった。だから、マホメットの後宮には入れないとしても、アンナは死ぬことで、彼との関係を全うしたいと望んだ。

しかし、既に述べたように、その愛にも困難がつきまとっていた。観客のアンナに対する無条件の同情は、彼女の寄る辺なさに起因している。ヴェルディやプッチーニでさえ、そのような深みに突っ込んでいくことは、なかなかできなかった。例えば、「バタフライ」の最後が、これに匹敵するかもしれない。そこにも、プッチーニを象徴する甘美で、透明な音楽が寄り添っているが、この作品でも、いつも明るさを伴うロッシーニの人間的な音楽がなければ、観客は目をそむけてしまったはずだ。否、明るさのほかに、ロッシーニには武器があった。それは、信仰心だ。それは例えば、先に述べた女たちの不安な気持ちを鎮める祈りのシーンに端的に表れており、父と夫が逃走したあと、残されたアンナに女たちの祈りが聞こえてくる場面も同様である。

この2つがセットで、アンナや、そのほかの登場人物たちに寄り添っていなければ、この作品はもっと殺伐として、見ていられないようなものになったはずだ。というよりも先に、ここまで人間のこころの奥底に潜っていくような作品は、書けなかったはずだ。私たちにとって、ロッシーニというと、どうしても「理髪師」のイメージが強すぎるのだが、なるほどブッファはロッシーニにとって最良の領域であったとしても、このような奥深い心理劇においても、ロッシーニの音楽だからこそ、潜っていけるような領域というのがあったのだ。「マホメット2世」の上演は、そのようなことに気づかせてくれる素晴らしい機会だったと思う。

【誰もが気づくアンナ役の凄さ】

藤原歌劇団の「どろぼうかさぎ」のときにも感じたが、ロッシーニなくして、ヴェルディもプッチーニもない。例えば、ヴェルディの傑作「トラヴィアータ」の女主人公は、このアンナがモデルであるといっても過言ではあるまい。実際、このアンナ・エリッソの役は、この作品が有名だったら、誰もが歌いたいと願うような大役だろう。彼女のなかには、ヴィオレッタのような女の気高さ、聖人のごとき人間性の清らかさ、トスカのようなプライドと脆さ、リューのもつ一途さ、トゥーランドット姫の恐ろしさ、ミミの可愛らしさなどが、果てしもなく詰め込まれているからだ。

当然、声やその表現力にも、多彩なものが求められてくる。アクートが効き、アジリタを自在に使えればいいというものではない。それを前提として、戦術のように、そこにぐっと乗っていく想いを自然に表現し、ときにはドラマティコのような強い声に見せかけるところまで、やらなければならない。その点、今回のマリーナ・レベカは、声の強さも含めて、見事に歌いきったといえるだろう。彼女はスカラ座デビューも決まったそうだが、程なくスターになるはずの歌手である。

・・・Aにつづく。
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2008/11/23

広上淳一 チャイコフスキー 交響曲第5番 コロンバス響  CDs

広上淳一が、任期途中にしてコロンバス交響楽団の音楽監督のポストを辞任した。2006年7月、米・オハイオ州の州都、コロンバスのオケに招かれてから2年となるが、あと1年、務め上げられなかったのは、コロンバス響を襲った財政問題と、それに伴う労働争議に巻き込まれたせいだ。

米国経済をぶっこわした住宅ローンに端を発する金融恐慌は、大都市、クリーヴランドとシンシナティの中間にある、中規模のオハイオの街にも打撃を与えた。米国の多くのオケは、民間を中心とするコミュニティの支援によって成り立っている。その地盤からの資金供給が厳しくなったものか、コロンバス響の理事会は、50名ちかくの団員を30名程度に削減、活動の縮小などを決定した。これに対し、団員らは反対を表明し、集団で理事会との争議に入った。広上は現実的な判断をもっていたが、「一緒に美しい音楽を奏でていこうと約束した彼らに、背を向けることはできなかった」と振り返るように、団員側について理事会と対立した。

これは異例なことで、どんなにアーティスティックな演奏力があっても、しょせんはブルー・カラーと見做される楽団員に対し、管理者としての指揮者が公然と味方につくのは、珍しい事例である。例えば、舞台関係者がストに入った公演で、大野和士がピアノ編曲までして指揮を振り、成功させた例は、いわば「スト破り」でもある(批判すべきことではないが)。また、あのムーティでさえ、スカラ座の内紛では、子飼いの団員たちから経営側に色分けされて、批判されている。

結局、労働協約は成立したものの、それは基本的に理事会側の意向に沿ったものであり、結果的に争議のリーダー格となった、広上の辞職が合意の条件となった。もともと、オハイオは共和党の強い地盤(マケインは落としたが)であることからもわかるように、保守的な地域であり、就任時から広上の登用に難色を示す理事もいたという(人種の問題であろう)。そんななかで、この騒ぎに乗じて広上下ろしを企む人がいたとしても、何ら不思議ではない。

米・コロンバス響と、京都市響のトロイカ体制で、人事交流なども行い、大きな枠組みのなかで、活動の発展を狙っていた広上だが、その構想は実現しなかった。広上の代になり、観客動員なども増加していたということで、残念な結果になった。

さて、前置きが長くなったが、DENONの製作によるこの録音は、本年3月に収録されたものである。3日間のライヴから音源が採られるはずだったが、2日目に大雪が降って公演が中止され、残りの2日間で収録したという。昨今、省コストのライヴ盤CDは珍しくないが、この録音は広上と、楽団員・聴衆の結束を示すナマの資料として、そうであることの意義があるだろう。残念ながら、その絆は強制的に切られてしまったが、この一枚はせめてもの思い出になるかもしれない。

演奏は広上らしくオーソドックスで、細かい部分を練り上げたもので、特に独特のリズムの揺れと、アーティキュレーションの繊細なコントラストが魅力的だ。就任直後、ストリーミングでベートーベンを配信していたのを聴いたが、それと比べると、オケに長足の進歩があったことを窺わせる。さすが広上、というところだろう。コロンバス響は歴史こそあるものの、いまは若い団員が多いのではなかろうか。広上のタクトに素直に反応して、真っすぐな音楽を聴かせているのが清々しい。

前半もいいのだが、後半2楽章に、いかにも広上らしい音楽の明るさが溢れている。折しも、この演奏会の直前、広上の父親が亡くなり、終演後は黒いリボンをかけたワインが、マエストロに贈られたというが、そういう暗さは微塵もない。否、第1楽章の冒頭には、葬儀に帰ることなく、指揮を全うしたマエストロへの感謝が、不思議な緊張感となって音に詰まっている。だが、そうした硬さは2日目に降った大雪が太陽に溶かされていくように、徐々に解消し、そこに力強い一輪の花を咲かせる。第4楽章は、あの広上スマイルが目に浮かぶような、活き活きとした演奏だ。金管が元気よくテーマを奏でだすと、いかにもアメオケらしい響きになるのだが、弦や木管もその瞬間ごとに、自分をぶつけるようにモチーフを拾っていくのがわかり、感動的な演奏となる。

コーダの誇らしい旋律は、どうだ、見てくれ・・・という瑞々しいオケの主張を聴くようで、胸が躍る。痛快な広上のタクトにつけて、コロンバス響の団員たちの自信に満ちた音楽の運びが聴かれるだろう。広上は、以前にも寒いところで仕事をしていたが、大雪が降ったというコロンバスも、きっと冬は寒いのだろう。そんな寒さに、ぱっと火を灯すような温かい演奏となっている。終演後のオヴェーションは、温められた聴衆たちの、こころからの興奮を端的に示す。

楽団員から熱烈な指示を受け、こうして聴衆からも歓迎されたマエストロの辞任は、腑に落ちない。辞任といっても、それは実質的に一方的な解任であり、クビでは広上のキャリアを傷つけるからということで、辞表を出させたのだろう。このCD録音は、明らかに、広上とコロンバス響の明るい未来を描き出しているのに、実際の世の中では、それとは反対のことが起こったのだ。

日本の指揮者は運が悪いというべきか、佐渡のコンセール・ラムルー響、阪のアイゼナッハ歌劇場など、音楽外の問題で、楽団(劇場)が傾いてしまうところに遭遇し、本当に残念だ。広上はコロンバス響の活動をベースに、京都市響の活動などを構築していたので、今後、どういう影響が出るのかには不安要素もある。再び就職活動をしなければならないとなると、広上の活動も逆に制限されてくるだろう。広上は言う。「音楽を愛する心は決してお金に代えられるものではない」。だが、音楽をするにはカネがかかる。皮肉である。
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