2008/10/29

ニケ 水上の音楽 / 王宮の花火 ル・コンセール・スピリテュエル 10/28  演奏会

私が今秋のメイン・ディッシュと位置づけたのは、このル・コンセール・スピリテュエルの公演だった。平日公演しかないので大変だったが、なにしろ数年越しの待望の来日。ウィーン・フィルが日本にいるのは珍しくもないが、彼らが東京オペラシティに来ているなんて、奇跡としか言いようがないだろう。最近の人気では、ミンコフスキ&ルーヴル宮音楽隊、ルセ&レ・タラン・リリク、クリスティ&レザール・フロリッサン、カーティス&イル・コンプレッソ・バロッコなどに遅れをとっている感もあるが、この日の特別な反応をみると、私と同じように、首を長くして来日を待っていた古楽器ファンが多数、詰めかけたようで、まだまだ彼らの出番は終わっていない。かの鈴木雅明氏も休憩中、楽屋を表敬訪問いていたようだ。

当たり前のように、第1・第2ヴァイオリンが正対して向かいあう「対向配置」がとられていた。管楽器が舞台奥にずらり、起立して演奏する。金管が両脇。ホルンはマーラーがやったように、片手を添え高く掲げて吹き、トランペットは片手で操り、もう片方の手を腰に当ててカッコをつける。

まず、開幕の舞台を飾ったのは、この日のメインとなるヘンデルの同時代人であり、ルイ14世および15世の時代にフランスで活躍し、クラヴサンの作曲家としてクープランの後継者と目されたという、ダンドリューの作品「戦争の描写」。血なまぐさい面は薄められているが、騎馬の駆けまわる戦場を、激しいギャロップで描いた無窮動の作品。太鼓や金管の響きを中心に、リアリティのある映像的な表現がなされている。単純だが、響きの重ね合わせが丁寧にデザインされ、彫金師のような細かい仕事である。完全にシンメトリカルに配置されたオーケストラの、ステレオ効果も凄い。

かすれる弦の響きが人馬の擦れあう雰囲気を感じさせるが、一方、輝きのあるカラフルな表現をする部分もあり、その交代が面白い楽曲だった。リズムやフレーズの処理、アーティキュレーション、アクセント、ボウイングに至るまで、よく練り上げられた演奏。なにより、このオケの素晴らしさを一挙に印象づける10分弱の小品であった。

前半はこのあと、ヘンデルの「水上の音楽」の第1/第2組曲が演奏された。この2曲は、ほとんど9本のホルンとオーケストラによる協奏曲という感じ。ときどき、弦・管の瀟酒なアンサンブルを挟みつつ、概ね無窮動に使われるナチュラル・ホルンの響きを、全体で支える構造が見て取れる。特に、第1組曲のほうが音楽的にも豊富であるため、聴いていて面白かった。例えば、ゴージャスな序曲のあと、アダージョを結ぶオーボエの響きのたおやかさ。勇壮なホルンの響きに挟まれたアンダンテの、弦と管楽器によるアンサンブルの淑やかなこと。フランス気質の滲み出たメヌエットの、優美な舞踊の雰囲気。そして、エアにまとめられた信仰心。

一方、第2組曲は楽曲の性質を印象づけるもので、この時代だからこその、豪奢な響きを楽しめた。ここまでニケの指揮は、雄大なスケール感に満ちており、ちまちました表現を避けてハッキリした表現意図を、堂々と歌いあげている。ホルンの響きも、まったく遠慮がないのだが、そのマスクがあるからこそ、その後ろで鳴っているはずの、弦・管の瀟洒な響きを一生懸命に拾い集めるようになる。

休憩後は、弦楽アンサンブルが中心に変わる。ここの弦はすべてガット弦を張っているものと思われるが、意外にもたっぷりして、ふくよかな色彩感に満ちた、艶やかで、健康な音色であった。コンマスのアリス・ピエロなど鬼のように巧く、ソロや室内楽部分でのゾクッとするほど美しい音色には、何度も溜め息をついた。この人のヴァイオリンを聴けただけでも、この日の演奏は十分にお釣りが来るだろう。

後半の最初の曲は、同じくヘンデルの「合奏協奏曲 op.3」の第4番のアンダンテ・アレグロ・レンタメンテ・アンダンテ・アレグロを演奏したあと、つづけて、第5番のアレグロを演奏する試み。最後の2つのアレグロは当然、雰囲気が異なるものの、こうして連続して演奏すると、はじめからそうあったような据わりの良さがある。いかにもといった雰囲気をもつアレグロ・フィナーレを受け継いで、もういちど組み立てられるもうひとつのアレグロは、第4番のものよりもすこし骨ばった構造であり、第4番の曲想を拾い集めつつ、少しずつイメージを引き伸ばしていくような印象を与え、面白かった。

つづいて、「水上の音楽」の残りの部分(第3組曲)、サラバンド、リゴードン、メヌエット、ジーグが演奏される。この部分は金管を抜いて、しっかりと音楽をつくっているヘンデルである。特に、リゴードンの生彩たるリズムときらびやかな音色の融合は、聴き手に興奮を与えた。メヌエットは、第1組曲のそれとはちがい、より大きな輪を描くような、難しいステップが印象的。ジーグの荘重な感じは、やはり最後は神さまの捧げものとなる、西洋人のこころのありかを示しているだろう。この4曲は訓練が行き届いており、音色、構造、リズム、アーティシュレーションなど、どのエレメントを取り出してみても申し分ない。演奏が終わると、フロアからはどよめきが起こった。

こうなると、ほとんどアンコールのような「王宮の花火の音楽」である。ドラムロールが印象的な、祝祭的な音楽だが、その太鼓(ティンパニー、および、スナネア・シンバル)の響きが、なんと勇ましく、かつ、華やかなことだろう。ここに響いたのは、例えばBBCプロムスで聴くような、本物のイギリス音楽だった。しかし、一方で、宝石のような輝きに満ちた弦の響き。思い思いにからだを揺らしながら、芯のつよい個性的な響きを集めていく木管の響き。精度以上に、一本一本の楽器の「つよさ」が刻みつけられていく金管の響き。これらのフランス的なアンサンブルの特徴も、しっかりと滲み出しているのだ。

ヘンデルはドイツに生まれ、ハンブルク、イタリアを経て、ハノーファーの宮廷で楽長となるが、すぐにロンドンで成功を掴んでいる。ヘンデルの足跡を追うようにして、やがて、彼の雇い主だったハノーファー選帝侯の息子が英国の王冠を頂くこととなり、これがいまに至るハノーファー朝の起源となる。ドイツと英国をつないだ、ジョージ1世の即位。ヘンデルはもともと、ハノーファーでの仕事に熱心でなかったことから、ハノーファー家と折り合いが悪かったが、徐々に和解し、「水上の音楽」で信頼を取り戻す。やがてヘンデルは、英国に帰化する。ジョージ2世のためには、「王宮の花火の音楽」を書いた。

大胆なアクションに惚れ惚れしながら、完全に陶酔に入った「花火の音楽」を聴きながら、この人たちが隠していたテーマにも、ちゃんと思い当たった。この壮大な試みは、2002年の結成15周年に向けて、レコーディングされている。その前年となる2001年は、9・11同時多発テロの衝撃が世界を捉えた年だった。その後のアフガン戦争、イラク戦争を予想していたかどうかはわからないが、この歴史的背景からみて、「水上の音楽」「王宮の花火の音楽」に注目したのは、大いに示唆的である。

ドイツから英国へ渡った王さまが、ブリテン島の国民と和解するために開いた舟遊びのための音楽。その息子が、ハプスブルク継承戦争の終息を祝って企画した、大花火大会のための音楽。どちらも、和解がテーマとなっている。「花火」では、「平和・・・シシリアーナ」「歓喜・・・アレグロ」という楽章がある。「水上の音楽」はさらに、ヘンデルとハノーファー家との確執の和解を象徴する。この和解により、ヘンデルの名声はいよいよ不滅のものとなった。ドイツ生まれのヘンデルなのに、英国でより強く支持された。そして、いまではドイツ人としてよりも、英国を代表する作曲家として認識されている。

そういえば、最初に演奏されたのは「戦争の描写」だった。そして、自由な発想で組み立てられた「合奏協奏曲」は、なんだろうか。当時の演奏会では、ひとつの楽曲の全体が通しで演奏されることは少なく、いろいろと趣向を凝らし、工夫した構成で演奏がおこなわれていたことを、ニケは指摘している。固定した考えを捨て自由に考えようと、ニケは呼びかけている。音楽的な、メッセージである。しかし、同時に、こうも考えられる。考えのちがいを乗り越えて、自由な発想で物事を考えることは、戦争を起こさないことに繋がる。この発想が、演奏会の全体から読み取れるのである。もちろん、彼らは純粋に音楽家であり、この演奏会について、わざわざ表向きにならない「テーマ」を殊更に言い立てるつもりはない(既に多くを書いてはきたが)。

そんなことは抜きにしても、とにかく、極上の響きが楽しめた演奏会だったことは、いくら強調してもしすぎるということはない。日本にも質の高い古楽の演奏グループがあるが、やはり、こうして本物中の本物と接すると、足がすくんでしまうというものだ。

この日、最高のひとときは、「水上の音楽」第1組曲のアダージョのおわり、エロイーズ・ガイヤールのオーボエが1本、伸びやかに残った瞬間!

なお、この日はエルヴェ・ニケのバースデーだったらしく、終演後、サプライズでお祝いがあったのも微笑ましい光景だった。

【プログラム】 2008年10月28日

1、ダンドリュー 戦争の描写
2、ヘンデル 組曲「水上の音楽」第1組曲
3、ヘンデル 組曲「水上の音楽」第2組曲
4、ヘンデル 合奏変奏曲 op.3-4
        →同 op.3-5 よりアレグロ
5、ヘンデル 組曲「王宮の花火の音楽」

 コンサートマスター:アリス・ピエロ

 於:東京オペラシティ コンサートホール
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2008/10/26

レ・ボレアード 騎士オルランド 北とぴあ国際音楽祭 10/25 A  演奏会

さて、最初のエントリーで総論的なことを一通り示したので、細かいことに掘り下げていこう。

【ハイドンのスピード感を表現した演出】

まず、この公演の殊勲賞ともいえるのが、演出の粟国淳だろう。このシリーズは、歌手にウェイトを賭けているのが明確で、装置は控えめにならざるを得ないが、そこを演出家の工夫で突破していくというのが常道になっている。昨年は、野村四郎がアドヴァイザーとなり(共同演出となっていたが)、日本と西洋の伝統があらゆる面で一体化した舞台が楽しめた。今年は、装置の代わりに映像を多用したヨーロッパで流行中のスタイルで、粟国氏、よく勉強している。

そのこと自体は珍しくないし、特筆すべきことでもない。彼がやったことでもっとも高く評価できるのは、ダイヤ型の舞台を組み、その前方と後方を中間の幕で区切ったことだ。幕には等間隔でワイヤーを張り、幕の一部をスカートの襞をめくり上げるように持ち上げたり、下ろしたりすることができる。これが、便利だった。もともとダ・カーポ・アリアの主体となるハイドンのオペラでは、広い舞台スペースで演技をつける必要もない。広い空間のなかで、歌手たちは持て余してしまうだろう。そのスペースを犠牲にして、彼が選んだのは、短いナンバーだと数十秒もない音楽で一場面がつくられる、転換の激しさを補うための工夫だったと思われる。

例えば、第3幕で、更生したオルランドとロドモンテがバーバリアンたちと格闘する場面は、ほんの数十秒しかない無窮動の音楽が選ばれている。多分、当時は殺陣を表現するような短いバレエ、もしくは、それに類するダンスが踊られていたのではないかと思う。さて、粟国はこの味も素っ気もない場面を、どのように料理したか。2人にはちゃんと出てもらい、バーバリアンは白い張りぼてで表現し、これを黒子に持たせ、敢えて動きをつくらずに、2つの静止画をつくった。乱戦のなか、襲いかかる相手と刃を交える2人の姿と、包囲され背中あわせに剣を構える姿である。これは多分、歌舞伎の発想を利用したものであるが、ライティングなどにこだわり、グラフィックな場面にも仕上がった。こんなアイディアをみせられては、思わずニンマリとさせられる。

この場面の賛否はともかく、舞台の前方と後方をときには連結させながら、基本的には別々のものとして扱うことで、ほとんど展開に揺るぎがなく、ハイドンが作品に仕込んだスピード感をしっかりと表現して、無理がない。また、次々に出てくる類型的なキャラクターの対比がスムーズに進み、二重三重に効果的なのだ。

【この作品をブッファとして考える】

演技は歌手のほうに優れた人材が多いこともあり、粟国だけの手柄とするにはどうかと思うが、例えば、パスクワーレとエウリッラの絡みが、あれほど面白くなったのは、このような場面が、前のエントリーでも言ったように、ドルチェにふりかけたシナモンのようなものではなく、作品にとって本質的なものとして扱えるという、粟国の考え方を反映しているのではないか(これは私の考えだが、粟国もきっとそう思っている!)。そこに感じられるように、粟国は、この作品をまずは喜劇=ブッファとして考えている。

【歌手について】

歌手としては、まず、パスクワーレ役のテノール、ルカ・ドルドーロが素晴らしかったのは、誰も異存がないはずだ。キャラクター・テノールとして、これほどの素材はそうはいない。レチタティーヴォ、アリアともにユーモラスで、歌いくちは工夫に満ちている。もちろん、基本がしっかりしているので、どんな風にでも自由に歌うことができる。声がきれいで宗教曲もいけそうだが、声量も十二分にあり、おまけに演技力まで高い。もともと、パパゲーノと同じく人気者になれる役柄だが、その役をさらに引き立てたのは彼である。

次に、メドーロの櫻田亮。イタリア在住の彼は、日本では宗教曲のイメージぐらいしかないが、意外と、オペラでも表現力が高かった。声の美しさ、フォルムの堅固さは、このメンバーに入っても随一だった。アンジェリカの臼木あいも、もとの天才ぶりに磨きがかかってきたようだ。コロから表現に重みを持たせていくのは常道(最近は、その伝統も破られつつあるとはいえ)だが、その途中で間違った道に迷い込み、声の輝きが翳ってしまう人(幸田浩子もその傾向があり心配)が多いなかでも、いまのところ、臼木はうまくいっている。「狂乱の場」では、一気に雰囲気が変わって驚かされた。結果的にみて、降板した森より良かったのではなかろうか。

アルチーナは、波多野睦美。彼女にとって歌いやすい役とはいえないように思うが(本来はアルトの役かも)、レチタティーヴォの細やかな演技力など、さすがというべきだろう。エウリッラの高橋薫子は最初の場面だけセーブしていたようだったが、ドルドーロとの絡みなど、互いに演技上手なのも相俟って、これならば恋に落ちるのも当たり前と思えた。前にもいったが、アラウンド40とはいえ、こういう役を歌ったら可愛らしさで右に出る者なし。なお、アルチーナと色ちがいで似たような髪型にみえたが、これはすこし方向性はちがっても、互いに恋に生きる女という対比がなされているのかもしれないと思った。

青戸知(ロドモンテ)の成長は、ここのところ目につく。予てからリート歌いとして相応しいと評してきたつもりだが、バロックならば、身の丈にあった伴奏がついて魅力的だ。青戸らしい真っすぐな演技と歌が、この役の単純さにあっているし、ドイツ的なカッチリした唱法がふさわしいことも、彼に教えてもらったようなもの。

題名役のフィリップ・シェフィールドは、舞台栄えのする肉体美をもっているが、歌はやや朴訥で、色気がない。だが、第3幕はわりとよく、忘却の川での歌については、しっかりした支えをもったソット・ヴォーチェの「強さ」を、十分にアピールしてくれたと思う。もともと、この役は独唱もあるがスイートではなく、うまくいっても、そんなに上手に聴こえない役だろう。それにしても、調子のいいときは、どんな歌をうたうのだろう、という興味は湧くぐらいのパフォーマンスではあった。

【管弦楽について】

寺神戸亮という人は、いま、もっとも流行する尖鋭なバロック・スタイルよりも、長閑で、牧歌的なドイツの田舎風の演奏をつくる。今回も、幕開けの序曲で、そのような傾向が顕著だった。やや安全運転という感じもしたが、全体的には、ハイドンが繊細につけていった感情変化をうまく捉えており、温かみのある響きも魅力的だった。音楽用語をふんだんに交えたパスクワーレのアリアでは、トリル、アルペッジオ・・・と、この歌劇でも多用された技法をなぞっていくので、ここで、オケの巧さを実感した観客も多いことだろう。作品がニコラウス・エステルハージーの命名祝日のために献呈されていることを考えると、彼にもこれまでの当主同様、よく音楽に親しんでもらいたいという音楽家、ハイドンの優しく、また切実な想いが、この場面に込められているのではないかと思う。

どのパートも隙の少ないアンサンブルだが、三宮正満の吹くオーボエは特に素晴らしいものだった。チェロとフォルテピアノで構成される通奏低音は、レチタティーボなどにおいてマイクで増幅されたように聴こえたのだが、これがすこしうるさく感じたのが惜しい。実際、スピーカーを使ったかどうかは不明だが、単に、私の座った席の音響が良くなかったせいかもしれない。通奏低音というのは風が吹くように抜けていくものだが、ときどき妙に重たい響きがしたのだ。

【まとめ】

ウィーン国立歌劇場のムーティ指揮、豪華キャストによる「コジ・ファン・トゥッテ」と重なったこの日だったが、満足度の点でいえば、こちらを選んだ聴衆も決して負けていないだろう。特に、ハイドンがこれほど優れたブッファを書く人だったとは思っていなかった。オペラのユーモアというのは、その後、出現するロッシーニを頂点にして、オペレッタが僅かな期間だけ芽吹きを見せるのを除き、ほとんど姿を消してしまう。そうした歴史のなかに、ハイドンという大きな山があったことが、この舞台で明らかになった。彼は、チマローザやパイジェッロの出現にさほど遅れることなく、モーツァルトやロッシーニへの橋渡しを、しっかりと務めたようだ。そのことがわかっただけでも、「コジ」を向こうでやっているときに、こちらでも負けず痛快な出来事が起こったといえるのかもしれない。

なお来年は、グルックのオペラ・コミーク「思いがけないめぐり会い、または、メッカの巡礼」の上演が予定されている。まったく知られていない作品だが、正にタイトルどおりのことを、観衆の身にも起こしてやろうという意気込みなのであろうか。寺神戸らの手腕に期待!
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