2008/9/15

二期会 エフゲニー・オネーギン コンヴィチュニー演出 9/14 A  演奏会

前回の記事の続き。

【伊達と酔狂】

まだまだ続く、演出の問題についてである。今回の演出には、「伊達と酔狂」というキーワードがよく似合う。「伊達」とはカッコつけと見栄の、両方の意味がある。これらについては、先のエントリーで既に言及してある。そこで、まだあまり書いていない、酔狂のほうに焦点を絞りたい。ただし、ここでいう「酔狂」とは、正しくそのとおりの意味に加えて、我らがターニャの得意とする、空想的なものも含まれるであろう。

【酒に酔っているオネーギン】

まず、オネーギンである。ただのギミックともとられがちだが、コンヴィチュニーは開演直前と、後半の幕開き前に、酔漢が大声をあげて倒れるという演技をさせている。この演出自体は陳腐だが、少なくともナンセンスではない。この酔漢はきっと、オネーギンのなれの果ての姿にちがいないからだ。コンヴィチュニー演出によるオネーギンは、ほとんどの場合、酔っている。自分に酔っているのではなく、酒に酔っているのだ。タチアーナを諭しにいく場面も、「乙女たちの合唱」に混じっているオネーギンは、早くも千鳥足だ。そのまま、タチアーナのもとを訪れ、残酷で「優しい」告白をする。歌い方も普通ではなく、酔っ払って呂律がまわらない感じに仕立てている。

また、レンスキーとの決闘に際しても、彼は酔っている。原作では、オネーギンは眠りこけていて、目覚めるとはや決闘の刻限を過ぎていたので、大急ぎでやってくるという筋になっているので、この演出はやや過剰だ。しかし、そう「原作」「原作」と口やかましくならくてもいい。別に、立会人のギヨーとともに酔っていても、まあ筋が通らない話ではないのだから。とにかく、オネーギンは酔っている。酒に酔っている。これは我らのプーシキンが、半ば酔ったような、酒に酔ったような文体で書いていることと無関係ではあるまい。しかし、それには、もうひとつの意味がある。

【空想-夢に酔うタチアーナ】

というのは、タチアーナも酔っているからだ。もちろん、彼女は酒に酔っているのではない。だが、夢によっている。今風にいえば、小説ばかり読んでいるオタクの、空想家であるところのターニャもまた、酔っているのである。オルガの批判は的外れのようだが、実際、正鵠を射ている面もあろう。あまり目立たないが、姉妹がやりあう第1幕の場面で、のちにターニャの手紙となる大きな包み紙を、オルガが踏みつけてしまう場面がある。オルガはぎょっとして、後退りする。それに象徴されるように、ターニャの酔いは、酒の酔いにも勝るほど深みがあるだけに、扱いにくい。コンヴィチュニーは、そこをファニーに描き出すことで、表面上、健全な乙女の惑いのように擬装しているのだが、実際はそうではない。

【酔いと酔いのぶつかりあい】

あるいは、この演出の肝はオネーギンの酒酔いと、タチアーナの夢酔いの激しいぶつかり合いにあるのかもしれないと思う。そして、どちらが強いかといえば、それはタチアーナのほうである。ひとつ根拠をあげれば、先のエントリーでも述べた幕の問題がある。誰もが気づくように、この上演で幕が果たす役割は大きい。効率的な舞台転換であり、金がかからず効果的な舞台装置であり、ターニャにとって親密な、心理描写の重要な鍵にもなっている。余談だが、プログラムの表紙も真紅の幕が飾っているだろう。さて、これを唯一、操作し得た登場人物はといえば、他ならぬタチアーナだけなのである。

舞台の前半は、あたかもオネーギンが鍵を握るかのように描かれているようでもある。伏目がちのタチアーナは、はっきりした物言いの妹・オルガや、自信いっぱいの若い詩人・レンスキー、そして大胆不敵のオネーギンに対して、タチアーナの存在感は薄いかのようにも見える。しかし、よく見てみると、物語は常にタチヤーナを軸にして進んでいるの出る。もちろん、その象徴こそが、有名な「手紙の場」であることは言うまでもあるまい。後半はもちろん、社交界の花形に上り詰めたタチアーナこそが、誰からみても主軸となっているのは自明である。今回の演出に限ったことだが、オネーギンより一足先に歌いおわっても、ついに最後まで動き続けているのはタチアーナだ。

これで、わかるだろう。夢酔いは、酒酔いをはるかに凌ぐほどに重いのだ。全編としては、既に書いたように、上流階級の見栄・・・というのが、色濃く反映している物語だ。そして、それを見守る上流階級の酒酔いを強調した演出である。象徴的なのは、タチアーナの命名日の祝宴(第2幕)で歌われる、言葉はフランス、音楽はイタリー風の客人・トリケによるクプレである。すこし甘く歌われるクプレを、コンヴィチュニーは厭らしく、アイロニカルに歌わせている。これで、ハッキリする。客人たちはタチアーナを祝うよりは、酔いによって呂律のまわらぬ舌で、口さがない噂話、ゴシップ記事の本人をからかうことのほうに、より興味があるのだと。正しく酔狂である!

だが、それらの酔狂を掃き清めるように歌われる、グレーミンのアリアが魅力的なことと言ったら! アイディアとしては問題がなくもないが、あのバルコニー席を見つけたときの、演出家のほくそ笑む表情は想像に難くない。決して遠くはないが、絶対に近づくことのない、あの距離なのだ。グレーミンの穏やかで、胸をうつモノローグは、ヴェリズモの間奏曲のような役割を果たす。時には本筋を離れておっ始まるという、有名なコンヴィチュニーの説教は、ここで代弁されているのかもしれない。だが、この演出家のの面白いところは、そうした常識論による「脱線」をさらに乗り越えるものを、必ずといっていいほど、本筋のなかに見出していくことにある。タチアーナの夢酔いが、最後にグロテスクに花咲かせられたとき、誰もが溜め息をついたことだろう。

【パッケージとして優れた舞台】

さて、今回の上演の最大の功労者はと考えたときに、演出のコンヴィチュニーを除外すると、誰がいただろうか。私は、わからない。歌役者たちは素晴らしい人たちが揃ったが、やはり、パッケージの素晴らしさ以上に、飛び抜けた個性というのは発見できない。これは揶揄ではなく、むしろ、そうしたパッケージに溶け込んだ、チームとしての一体感の勝利という風にとってもらえると幸いだ。ここのところの二期会の公演は、歌手個人がなかなか良い出来であっても、パッケージとしての昇華がなく、オペラの醍醐味が表現できていないという憾みがあった。例えば、「仮面舞踏会」の公演が典型的である。今回、久しぶりにそうした舞台が拝めたのは幸いであったと思う。

【津山恵・・・タチアーナの変化と不変】

しかし、そのなかでも、やはりタチアーナに目がいく。津山恵は、日生劇場の公演を除けば、二期会本公演の主役級は、2004年の「イェヌーファ」題名役を歌って以来のこととなる。あれだけ見事に務めあげた歌手が、どうして次の主役を得るのに4年もかかるのか、わからない。だが、その間にも、岸本力らが属する二期会のロシア東欧オペラ研究会などで歌うなど、じっくりと時を待っていた彼女の努力を知るだけに、この成功は私としても嬉しいところだ。

有名な「手紙の場」の、起伏に満ちた表現のコントロールも胸をうったが、やはり、津山の表現力の高さというのは、イェヌーファを歌った当時から、さらに鋭さを増してタフになったと言える。私は、ひとつひとつの歌もさることながら、少女・タチアーナが、社交界の華たるグレーミン公爵夫人となるときに、津山がどのように表現を変えてくるかに興味があった。できれば、衣裳はそんなに立派に変えてほしくなかった。そういうことをしなくても、彼女の歌が、十分にタチアーナの成長を語り尽くすと思っていたせいだ。残念ながら、衣裳も立派に生まれ変わったが、やはり津山は、オネーギンが言うように、公爵夫人としての立派な威厳を備えた、芯のしっかりした女性として、タチアーナを歌いなおしていたと言えそうだ。

だが、その一方で、変わらない部分があることにも気づいた。例えば、応接間でオネーギンと正対したとき、タチアーナは、確かに昔の面影を宿していた。もちろん、同じ歌手が20分前までに演じていたのだから、当然と言えば当然。しかし、あのバルコニーで歌っていたタチアーナと、自ら仕切った幕の手前で歌ったターニャは、同じ人とは思えないのである。「愛している」と言われるまで気づかないオネーギンは、いかにも察しが悪いというべきか。最後の最後の部分だけ、若干くたびれた部分がないとは言わないが、最後までよく歌い通したというべきだろう。

【黒田博・・・変わらないオネーギン】

これに対して、エフゲニーの黒田博は、どちらかというと、変わらない部分を強調しての歌いくちだ。エフゲニーは変わったと思うか、そうではないと思うか、どちらだろうか。タチアーナは? 読者諸賢は、どのように考えられるだろうか。私は、2人とも変わったと思うが、その意見を開陳する暇はなさそうだ。今回の上演では、あまり変わらないという解釈が採られているように思うから。そして黒田は、しっかりとそのコンセプトを表現した。結局のところ、コンヴィチュニーは、オネーギンの嘆きを真正なものとは見ていない。オペラには描かれていないが、オルガはレンスキーの死を悼みはするが、すぐに別の家に収まっている。それと同じように、オネーギンの愛というのは、むしろ移り変わっていくものとして見られている。

これが、プーシキンの見方からすると、コンヴィチュニーのオリジナルな発想である。プーシキンは、オネーギンが変わっていくことができないことを、重くみている。だが、コンヴィチュニーはむしろ、一見、変わったとみえるタチアーナのほうにこそ、変わらない面があると見ているのだ。

【そのほかのキャストたち】

レンスキーの樋口達哉は、進境著しい若手のテノールだ。主戦場はイタリア・オペラという感じもするが、レンスキーのアリアは風格があった。オルガとともに、陰陽のうちの「陽」を健康的に演じ、声もよく伸びている。これと一対となるオルガは、田村由貴絵。チェーザレのときはやや苦しかったが、ズボン役ではなく、こうした役柄でこそ異彩を放つ表現力があると思われた。キルヒシュラーガのように、オトコ役のほうが生えるメゾもいるが、彼女の場合は、オンナの魅力を描くほうが抽斗が多いように思われた。グレーミンの佐藤泰弘は、先に述べたような役割を堂々とこなした。バルコニーからの歌は、低音がうまく落っこちてくるので、我々の席では歓迎できる。そのほかの歌役者も、それぞれのポジションをきれいにカヴァーする歌、演技の細やかさで、日本らしい肌理細やかな舞台が印象に残る。

繰り返しになるが、パッケージとして素晴らしい。

【管弦楽について】

アニシモフの指揮は、ややルーズな面があるのは否めないが、バレエ的な軽やかな音楽捌きがあり、要所でのリリカルな支えの作り方など、気が利いている。劇場育ちというのは、やはり、それなりに計算が利くものである。その後、重要となるモチーフを印象づけながら、タチアーナのモノローグをじっくりと支えた「手紙の場」のサポートなどは印象に残った。

東響のピットはいつもどおり、やや準備不足の感は否めないが、やはりブラスがいいだけに、こうした演目では、要所でよい響きが聴こえてくる。もうすこし綿密に練習すれば、もっと思いきった表現が可能だったと思う。
0



teacup.ブログ “AutoPage”
AutoPage最新お知らせ