2008/8/29

クラリネット・フェスティバル東京・多摩 8/29の公演から  演奏会

2005年、アジアではじめて行われたという国際クラリネット・フェスティバル東京(以下、クラ・フェス)は、メディアなどで大きく取り上げられる機会こそ少なかったが、吹奏楽ファンなどの大きな支持を得たものか、すこぶる盛り上がったイベントだった。今回、3年ぶりに、今度は日本の協会が主催して、クラリネット・フェスティバル東京・多摩2008が、開催されている。28日夜に前夜祭が行われ、この日から本公演が始まって、31日まで多種多様な企画が用意されている。会場は、パルテノン多摩の大・小のホール。

今回のクラ・フェスは日本協会の主催ということもあり、プロだけではなく、公募やアンサンブル・コンクールを経ての一般参加が重視されている。29日も在京音大の学生たちが企画を持ち寄り、午前中から15時くらいまで続いた(これはパス)。その後、「海外アーティスト特別リサイタル」となり、5人のアーティストが至芸を披露した。

トップ・バッターは、ローマ歌劇場でバス・クラリネットを吹いているイタリー人、サウロ・ベルティ。ピアノ伴奏は、藤谷菜穂美。ベルティはオペラ畑だけあって、こころを込めた丁寧な演奏が特徴だ。派手さのある演奏かではないものの、しっとりと良い演奏をする。3曲のうち、後半のボッカドーロ、プロカッチーニは、いずれもイタリーのコンテンポラリーの作曲家だが、先週のジェルヴァゾーニ(この日はサントリーホールで新曲を披露しているはず)の記憶がまだまだ新しいだけに、演奏は良くても、曲の弱さがやはり目立ってしまう。そこへいくと、1曲目に演奏した有名なアントニオ・サッリエリの甥、ジローラモ・サッリエリの曲には目を見開かれる想いがした。

この曲、つまりは「序曲、主題と変奏」はベルティと藤谷による編曲により、バセットホルンとピアノにより演奏されたが、元来はバセットホルンと弦楽四重奏のために作曲されているものだそうだ。確かに、それらしい形跡が随所に残っているようでもある。巷間ではしばしばモーツァルトを陥れたなどと言われるものの、実のところ、その天才を誰よりもよく理解していたと思われる、アントニオおじさんに相当しごかれたのであろう。モーツァルトの作風をしっかり手中にして、明暗の切り替えが鮮やかであり、楽譜に込められた内面の叫びがきわめて濃密な佳品となっている。

ジローラモは自らクラリネット吹きだったそうで、楽器の可能性を生かしきっている点も強調せねばらない。技巧性の高い難曲だが、ベルティの音色にもこの曲はぴったり来ており、藤谷のピアノもやや淡彩とはいえ、クラリネットと調和する音色をもっていて、この曲の表現に関しては、両者とも素晴らしい印象を残した。

一口にクラリネットといっても、吹き手の個性によって、まったく別の楽器に見えてくる。中国のトップ奏者、ティ・ベイは非常にストレートな音楽づくりで、切れ味勝負。ただし、高音はややきつめの響きがする。このあたりは、日中の感覚のずれもあろうと思う。伴奏の、イホン・ベイも同傾向だが、名前と若さからみると娘であろうか。韓国のイム・スー・リーは、同国のヒーロー、張明勳が率いるソウル・フィルの首席。抑えをきかして歌いすぎず、世アックな楽器のコントロールが印象的だ。ブラームスのソナタ第2番を、繊細な歌いくちで通した我慢の演奏だった。

さて、ここから出てきた2人が凄かった。ポーランドのヤン・ヤクブ・ボクンは、指揮者としてのキャリアもある知性派だが、ホグウッド指揮のモーツァルト(cl協奏曲)に起用されるだけのことはあり、スイートで、とろけるような音色の柔らかさは、余人の追随を許さないだろう。ボクンはまた、自らのそのような長所をしっかり把握していて、曲目の選択もまた甘い。ただし、その中でも無伴奏で吹いたD.ラクシン「悪と美」などは、辛口な表現も含まれている。しかし、彼のクラリネットを聴いている限り、どこからともなく漂ってくる響きのたおやかな表情は、優しく聴き手を包んでいく。理屈はともかく、響きそのものが、逆らえないほどにチャーミングなのだ。

ピアソラ「タンゴ・エチュード第3番」などを弾かせれば、溜め息が出るほどに美しいのはわかりきっているけれど、J.プチハールという作曲家の「ソナチナ」では、その形式を踏んで最後に一巡りしてくるときに、ある種の懐かしさを感じさせるようなところまで聴き手をピックアップしており、その求心力の強さに唖然となる。

最後は、「ハンガリーの奇才」ヨーゼフ・バローグ。ただの笛吹きではなく、アカデミズムの中においても重きを占め、作曲も手がけているという多彩なおじさん。それにしても、サーヴィス心がゆたかで、聴き手を楽しませる天才。もちろん、クラリネットの腕が普通ではないのであるが。ハンガリーの伝統楽器であるタロガトも演奏するというように、彼の笛からは、一口に「クラリネット」とは呼べない、いくつもの笛の音色がする。もちろん、それらを生かしきるためには、彼の経験を生かせるだけのユニークな曲が必要である。

例えば、最初に演奏したL.グリャス(演奏者編)の「セク地方の音楽」が、それに当たるだろう。セク地方はトランシルヴァニアの都市で、1921年以前はハンガリーに属した土地ということである。「チャルダッシュ」と言っていたように、その土地の多様な風物が織り込まれた曲ではあるが、すこしジャズが混じっている。彼は剽軽な音色、それは民族楽器のうなりのようでもあり、馬や獣の鳴き声のようでもあるが、そうしたものを大胆に織り込みつつ、安定感のある響きで、ずっしりと楽曲を彩っていく。

G.ルイン「ブラジリアンス」は、前のグリャスとも共通点がありそうな、独奏の技巧性あふれる曲目だった。そいつをケロッと、ユーモアを交えて演奏したバローグは、既に聴き手にとってはヒーローである。後半はよりジャジーな曲目で、J.パーカーのクラリネット協奏曲のピース(第3楽章)を演奏したあと、自作の「ブラームス ブダペストに行く」で、彼らしくコミカルに締め括る。この作品は、有名なブラームスのハンガリアン・ダンスをモチーフにした、ジャズ風の変奏曲。原曲のメロディがほぼそのまま引用され、それがバローグの身に染みついたハンガリーの音楽と反応して、興味ぶかい歪みを見せるのである。

なお、協奏曲ではむしろ伴奏の役割が重く、これを受け持ったピアノの石橋尚子の、鋭敏なセンスも耳を惹いた。この石橋は、伴奏者として得がたい才能をもっているようだ。この日はイム、ボクン、バローグとまったく異なった個性の持ち主を相手に、ほんの数音で向こうのやりたい表現にアジャストして、しかも、立派な音色で主役を引き立てていった。曲目も一筋縄でいかぬものばかり、ドイツ、フランス、東欧、ジャズ・・・と地域もジャンルもバラバラであるが、にもかかわらず、いずれも隙のない表現で、かつ、いつも芸術的に織り上げる力は並大抵のものではなかろう。特に、ボクン、バローグという本当に優れた奏者を相手にして、いよいよ力を発揮する柔軟な表現力に感心した。

このあと、ジャズ系のトリオの演奏が続いたはずだが、お腹が鳴り出したために中座することにして、19時からのガラ・コンに備えた。このガラは、パリのビュッフェ・クランポンの提供による。ビュッフェというとレストランの名前みたいだが、これはベーム式クラリネットを生み出した、世界的なクラリネット・メーカーの老舗なのだそうである。ソリストは、わが国の亀井良信と米国のジョン・マナシー。伴奏ピアニストは、中島由紀。

亀井は、プーランクのソナタほか、3曲を演奏した。演奏自体はすこぶる上手なのだが、この人はサイトウキネンでも良い印象をもたなかったように、私とは相性がよくない。マナシーはザビーネ・マイヤーまではいかないが、本物の名人の類である。ゆったりとして、隅々まで実の詰まった表現が、聴き手を楽しませた。特に、ウェーバー「演奏会用大二重奏曲」の緩徐楽章でみせた、圧倒的な集中力は忘れがたい。ここでウェーバーは一体、どんな悪魔にとり憑かれたのかわからないが、「演奏会用」という題名から予想された華やかさとは、まったく縁のない沈潜した、重苦しい音楽を書いている。それは例えるならば、モーツァルトの「フィガロ」の最後、ハッピーエンドのはずなのに、どこか抜き差しならないもので覆われる、あの印象に似ている。この曲については、また後日、ちょっと調べてみたい気になった。

マナシーのクラリネットは、もっとも音の出にくい楽器の継ぎ目の部分に、しっかり焦点があっている。それはあたかも、声楽の声のひろげ方に似ており、どっしりした中声部の安定から、高音や低音が自然に導かれるようになっている。その凄さがまじまじと確認できたのは、無伴奏によるB.コヴァーチの「ファリャへのオマージュ」であった。その中声部のゆたかな響きのコクは、すべてのクラリネット奏者が憧れ、なかなか辿り着けない理想郷である。

最後、マナシーと亀井が共演して、中島のピアノ伴奏により、メンデルスゾーンの「演奏会用小品第1番」を演奏した。第1クラリネットをすぐに第2が追いかける部分があり、ここで亀井の欠点が明らかになったと思う。それは多分、フレージングという要素に関係がある。恐らく、亀井はフレージングをしっかりすることで、楽曲の構築性に忠実でありたいと願っている。しかし、その意識は逆に、一音一音への注意力を甘くしている。マナシーは例えば、長い音を出すときに、最後の一音までこころを込めて演奏している。トレモロのような響きにさえ、彼はそのひとつひとつの音符がなぜそこにあるのかを、丁寧に印象づけていく。ところが、亀井はフレージングという塊をつよく意識するせいで、その経過区の表現が薄くなっているのだ。だから、亀井のクラリネットは、楽曲に込められた、そこここに書かれた音の重みに対して、少しだけ淡白に聴こえるのだ。

しかし、この曲に関しては、マナシーのリードが効いたこともあり、それほど練習する余裕はなかったと思うが、非常に聴きごたえのある出来に仕上がった。その題名どおり、いきなり華やかになる、後半部分の目くるめく色彩感と、きびきびしたリズムの運びが印象的であった。

これから、あと2日間、大いに楽しめそうなイヴェントである。
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