2008/8/24

プッチーニ 三部作 @東京文化会館 8/10 B 【B-part 修道女アンジェリカ/ジャンニ・スキッキ】  演奏会

書き始めてから、2週間ちかくも経っている記事だ。そろそろケリをつけよう。

2本目の「アンジェリカ」は、事前の予想どおり、やや声の面では不満が残った。修道女たちのアンサンブルは悪くないが、主要三役が感心しない。しかし、シンプルな装置で組み立てた粟国の世界観が面白く、主要役への共感が薄いにもかかわらず、良い舞台となったのは意外である。

こんなことを言うと怒られるかもしれないが、修道院というのは、決して幸福な場所ではないだろう。だが、プッチーニが描いたアンジェリカのいる修道院は、どうであろうか。なかなか人間的なところもあり、女学院の寄宿舎(なんて入ったこともないが!)のような雰囲気もあり、ちょっぴりだけれども、信仰心がワサビのように効いた半理想世界である。そこをアンジェリカの、純真な母ごころが汚すことになるというところに、シニカルなものを感じさせる。粟国は、そうした世界観を明るいイタリア・オペラの魂で埋め尽くすとともに、ヴェリズモ的な生の人間心情を鮮やかに描きだす。

例えば、晩餐をとるとき、行儀よくテーブルを囲むのではなく、いくつかのグループに分かれて、ピクニックのランチのように食事を広げ、適当に座って食事をとる光景が、実に微笑ましいではないか。粟国はこうして、修道女という仮面を彼女たちから外しておき、生身の女性として扱うことを宣言する。アンジェリカはまだ日が浅い(といっても、7年!)が、深い信仰心に根ざした女性であるが、彼女がそうしていられるのもまた、引き離された息子の無事を願うためであった。そして、その死によって、アンジェリカの祈りは、死への渇望にすりかわっていく。もっとも厚い鎧を着たものが、実はもっとも危ういということを、この作品は述べたかったのであろうか。

いずれも外から差し込むように計算された、ライティングを効果的に使った演出は、2箇所にみられる。まずは、夕べの祈りのあとに、夕陽が聖堂に射し込む場面。そして、アンジェリカが死を決意し、凶行に至るときの場面である。これらのいずれもが、作品を代表する名場面であることはいうまでもないが、音楽的にみると、前者は女性的で、素直な、澄んだ響きであるのに対して、後者は、ちょうどバタフライの自害の場面と同じように、静かで清らかではあるが、ぴんと張りつめた響きになっている。

特に後者について、流れに沿って検証してみるならば、ここにこそ、アンジェリカの難しさが詰まっていることがよく分かるであろう。単独で有名なアンジェリカのアリア「母もなしに」では、母親の絶望がじんわりと積み上げられていく。しかし、そのおわりのほうは、ただ暗鬱なだけではない。むしろ、信仰の力強いエネルギーが、こうした絶望的な悲劇さえも乗り越えていくような印象さえ、与えるのである。間奏曲的な管弦楽の演奏から先は、演出家のたちの腕の見せ所である。つまらない発想だが、私のあたまに浮かんだのは、アンジェリカを死なせずに救済することも可能ではないか・・・ということだ。あの仲間たちがいれば、アンジェリカも乗り越えられるのではないか。死のうとするアンジェリカを寸でのところで止めて、十字架を片手に泣き崩れるアンジェリカを、修道女たちが囲む映像をイメージした。

だが粟国は、その点ではシビアだ。最終的な救済を穏やかな響きで暗示しておきながら、やはり、毒を運んできてからの場面は緊張感に満ちみちている。先程、バタフライの例えを出したように、白装束で背筋を伸ばして姿勢を正し、清らかに照らされて毒壺に正対する場面の、息を呑む美しさは何だろう。こうなっては、たとえ魂の救済はあり得ても、もはや死からの救済は可能性がない。そう思って聴いていると、やはり、最後の音楽からアンジェリカの息吹きは聴こえてこないものであった。たとえ不満足な歌手がうたうアンジェリカでも、このしまいの場面は、さすがにじんと来るものだ。ただし、裏からうたう修道女たちの声を、増幅するのはいただけない。

3本目は、ジャンニ・スキッキ。名アリア「私のお父さん」があるだけに、この三部作のなかでは、もっともポピュラーな作品であろう。粟国は三部作のおわりに上演する、この作品の意味を考えて、アイロニカルな種明かしを試みている。この作品だけ、前奏の部分では幕が下りている。しまいのスキッキの口上は幕を下ろしながら述べ、スポットがスキッキを照らし、緞帳が下りきると同時に締めの文句を発する。そして、暗転・・・見事な構想のはずであったが、その流れは観客の早すぎる拍手によって遮られた・・・遮られはしたが、なるほど納得のいく演出である。

こうして三部作は、舞台上の登場人物がおもむろに観客へ語りかけるという、ヴェリズモ特有のスタイルを逆手にとって、シニカルな笑いを残して終わるのだ。一見、このスキッキの口上は、舞台と客席を最終的にデバイドするものとして、印象づけられる。だが本当は、両者を結びつけているのだ。もしもスキッキと、ブォーゾの親族たちを笑うとすれば、それは自分たちを笑っていることになろう。彼らの生態は、決して我々と無関係ではない・・・というよりも、色濃く関係している。先に言ったように、これら三部作でプッチーニは、人間のすべてを描き出したのだ。最後に、我々はそのことに気づくべきなのである。

このスキッキも、チームワークが素晴らしい。直野の磐石の演技は、既に二期会の公演でも実証済み。高橋薫子は年齢はすこし積み重なっても、こうした小娘をやらせると右に出るものがないぐらい、可愛らしい。リヌッツィオの樋口達哉も立派だ。だが、直野はともかくとしても、主要役の誰かが突出していいとかいうよりは、全体のアンサンブルの親密さが、以前、二期会の本公演でやったときとは比較にならないほど、優れていた。その証として、@でも述べたように、「さらば、フィレンツェ・・・」のところで見せた、今後、語りぐさになりそうなぐらいに美しい、親族たちのアンサンブルが象徴的である。

二期会にしても、藤原にしても、ここまで密度の濃い上演はなかなか見せてくれない。この企画を実現し、参加、協力した諸氏に敬意を表したい。なお、この企画の実行委員長になっている国会議員の愛知和男氏によると、わが国を舞台にしたプッチーニの代表作のひとつ、「蝶々夫人」に敬意を払いながらも、我々日本人からみて違和感のある部分を修正したヴァージョンで上演する試みが進みつつあるということで、そちらの進捗が今後どうなるものか、注意を払いたい。よっぽど、私はそのような運動には必ずしも賛成しないのだが・・・。
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