2008/8/16

プッチーニ 三部作 @東京文化会館 8/10 A 【A-part 外套】  演奏会

今回の公演は、これをやりたいと思って集まった者ばかりであることもあろう、チームワークの良さというのが際立っていた。演出を軸にして、歌役者たちがともかく自分たちにできるベストを尽くし、小崎雅弘率いる東京フィルの管弦楽が濃密なサポートで舞台全体を支える。そして、彼らに統一された意思は、プッチーニの作品の良さを作曲家の想いに沿って、忠実に表現することだった。

まず、一本目の「外套」は、ヴェリズモ的な作品のグロテスクさを強調するのではなく、そこに描かれる、当時のイタリーの下層市民が抱いていた深い陰翳を、じっくりと煮出した舞台である。舞台前方を船の中央付近に見立て、奥に向かって舳先が伸びているように見える装置が用意され、M.v.シュテークマン女史のつくった新国「オランダ人」の舞台が思い出される。さて、前奏の部分で積荷の運び出しの場面が描かれ、主要な登場人物がしっかり顔見世をする。音楽が徐々に昂揚し、不意に影を落とす場面で、ルイージとジョルジェッタがすれちがい、そこに演出と音楽が同時にフォーカスする見せ場がつくられ、最初の数分を観ただけで、ユニークとはいえないかもしれないが、よく練られた、意趣を尽くした舞台づくりが期待された。

この作品は、ヴェリズモの典型的なフォルムを借りているのだが、同時に、アイロニカルなずらしがあるほか、例えば、フルゴーラ&タルバの暮らしが、ルイージやジョルジェッタの知る(都会的な)世界と対比されるなど、ただの愛憎劇に止まらない幅があるのが見逃せない。田舎の猫おばさん=フルゴーラのどこか切ない充足に対して、あまりにも華やかで、都会的なプライドをもったジョルジェッタの、現状に対する満ち足りなさが、結局、ミケーレへの裏切りを招いていくことになる。また、そこには、ミケーレとの間に授かった子どもの死という、思い出すにも忍びない歴史が圧し掛かっている。ミケーレに愛想を尽かしたというわけではないのに、どうしようもなく、そこから去らねばならないジョルジェッタの居場所のなさが、隠されたテーマである。

ミケーレとジョルジェッタを決定的に引き離したものは、何なのであろうか。プッチーニは、それを幾重にもわたって描きこんでいる。いま言った田園や海という世界に対して、都会的なものというポイントがあるだけではない。老いゆく者と、まだまだ女ざかり/男ざかりを生きる者との、微妙なすれちがい。ミケーレは主に過去を歌うのに対して、ルイージやジョルジェッタは一見、昔ばなしをするようにして(フルゴーラに切り返して故郷の街の素晴らしさを歌う二重唱)、未来を歌っている。

流しの歌うたいが、実は象徴的な役割を果たしている。彼はジョルジェッタとティンカ/ルイージが踊ったカンツォーネを歌ったあと、再三、つぎの歌を注文するように促しているが、誰も応じない。彼の役割は終わっているが、そのことに気づいていなくて、いつしか、彼は姿を消す。彼に歌を求めるのは、まるであさっての方角から呼びかける声だけだ。この物悲しさが、ミケーレの頭上に影を落とすものと同じなのである。だが、これは同時に、ミケーレに訴えかけるジョルジェッタのこころの叫びでもある。もしもミケーレが、この何の希望もない船乗りの生活に見切りをつけて、つぎの注文に歩み出していたら、ジョルジェッタがルイージという存在に逃避していくこともなかったにちがいない。

ミケーレが亡くなった子どもについて物語るとき、聴く者がどうしても涙を禁じ得ないのは、可愛い子どもを亡くす悲しさに同情するせいだと、誰もが思うにちがいない。だが、よくよく考えてみると、もっと奥ふかい理由があると気づく。確かに、プッチーニは子どもを装置として使い、観客のこころを掴むのを常套手段としている。蝶々夫人でもいきなりマダムの赤ちゃんが登場するし、あとのアンジェリカでも、姿さえ見せない息子のことが問題になる。こうした表現は文学的にみると、決して褒められたものではないし、ミケーレの切り出しもいささか唐突だ。しかし、次のように考えれば、そのことは必要不可欠ではなかったとしても、物語のなかに置かれるべき理由があった、と説明できるのではないか。すなわち、ここでミケーレが死んだ子どもについて歌うのは、彼がもはや、過去から脱け出られなくなっていることの証拠である・・・と。観る者がここで涙するとすれば、それは、ミケーレがかの凶事をわざわざ切り出すことで、かえって、夫婦の仲がもう完全に修復できないところまで行き着いていることを、曝け出してしまうせいなのだ。

それゆえ・・・というべきか、ここからはミケーレへの同情が強くなっていくはずである。これは、レオンカヴァッロ「道化師」のカーニオが、アリア〈衣裳をつけろ〉をきっかけに、圧倒的に観客の同情を集めるのと同じ構造であろう。だから、ミケーレは愛人を刺し殺したうえで、自らの外套に入り込んで機嫌をとろうとする細君に見せつけるという、とんでもない行動をとるのに、不思議と悪魔のように罵られることはないのだ。

こうした解釈に、しっかりと導いていく音楽の緻密な構造があることは、ここでは詳述するに及ばない。だが、市井に溢れていそうなカンツォーネの節をふんだんに織り込んだ、ヴェリズモらしい音楽的特徴を逆手にとって、当時のイタリー下層市民のうら寂しさを上手に表現していることは見逃せない。そうした要素を丹念に煮詰めていくことで、最終的に、それまで聴いたことがないような密度の濃い音楽劇が生み出されていることは、注目に値する。

さて、歌い演じた役者たちに関しては、主要三役(ミケーレ/ルイージ/ジョルジェッタ)に対して、脇役の健闘が光っている。ティンカ(松浦健)と流しの歌うたい(曽我雄一)の藤原勢の、巧みな声のコントロールが目立った。一方、タルバ(黒木純)やフルゴーラ(清水華澄)は、自分の役にぐっと想いをのせて歌う、二期会的な特徴が染み出している。清水は新国研修所の公演で聴いたことがあるが、そのときよりも声の伸びが格段によくなっており、成長が著しい。主要三役のうちの男役は既に経験が豊富な歌役者でもあり、すこし苦しい場面があっても、まとめ方がうまい。ミケーレの佐野正一は、荒々しい船乗りの迫力こそないが、じっくり内面を歌い上げる方法で成功していた。ルイージの井ノ上了吏は、以前に聴いた印象どおり、基本に忠実な歌いまわしで堅実。大山亜紀子の演じる、ジョルジェッタもまずまず。

結局のところ、誰がどうこうというよりも、パッケージとしての役割分担がしっかりしていた点が特筆される。それぞれに適切な場所を得て、気の利いたキャスティングがものを言った公演である。
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