2008/8/11

プッチーニ 三部作 @東京文化会館 8/10 @  演奏会

プッチーニ生誕150年フェスティバルと銘打たれた特別公演については、プレビュー記事を出しておいた。一挙上演されるように組まれて作曲された「三部作」だが、実際には、なかなかトリプル・ビルで組まれるのは難しいものを、今回、常設カンパニーではないグループが、演出・オケ伴付きで上演した。予想以上に・・・予想をはるかに上回る質のいい公演で、びっくりした。

さて、「三部作」が「三部作」であるゆえんについて、ご覧のみなさんはお考えになっただろうか。もしも「三部作」でやる必要がないのなら、こういう取り組みは確かに面白いとしても、今後、繰り返してやる意味はない。だが、やはり、「三部作」は3つで1つだったのだ。もともと、三位一体というのは、キリスト教徒にとって当たり前すぎるぐらいの発想であるが、3つで1つとする根拠については、あとで書いていく。

・・・それにしても、3つの劇は、まったくちがう素材の組み合わせだ。「外套」は伝馬船の親方が、細君と人足の不義に嫉妬して起こる殺人事件。「修道女アンジェリカ」は、私生児を生んで修道院に入れられた貴族の娘が、それでも可愛い我が子の死を知って自殺する悲劇。「ジャンニ・スキッキ」は、資産家の町人の死をめぐって繰り広げられる、財産争いのドタバタ劇。1つ1つをみると、コテコテのヴェリズモ劇、ちょっと風変わりな女だらけのヴェリズモ、そして、気の利いたブッファ劇という形で、これがヴェルディ以後、もっとも輝くイタオペの巨匠=プッチーニの作品、しかも、遺作=トゥーランドットの1つ前の作品としては、いかにも手ごたえがない。

しかし、こうして観てみると、この3つの作品を通したとき、1本ずつではほんの1時間弱の作品ばかりであるというのに、驚くほど多様な人間のエレメントが、しっかりと描きこまれていることに気づくだろう。しかも、それらは長い時間を描くことで、人間の奥深くへコツコツと潜りゆくものではない。これらの作品はどれも、ほんの何時間かの風景しか描いていない。「外套」では黄昏時から宵のくち。「アンジェリカ」では晩祷から食事、それにつづくほんの数時間程度。「ジャンニ・スキッキ」も、せいぜい数時間程度であろう。そんな僅かな時間のなかで起こる、人間のこころの動きのなかに、プッチーニは人間として必要なありとあらゆる要素を詰め込んでしまった。ここが凄いのである。

例えば、「外套」では、情欲、嫉妬、怒り、諦め、親子の情、夫婦愛とその冷却、老いなどが交錯する。「アンジェリカ」では親子の情と、それが断ち切られることの苦しみ、名誉や身分への欲とプライド、姉妹愛、信仰、呪い、食欲などが。「スキッキ」では、金銭欲、恋愛、親子の情、裏切り、嫉妬、詐欺(嘘)、喜怒哀楽などが、注意ぶかく選ばれて、描き込まれていることに気づくべきだろう。

しかも、これらの作品は、ヴェリズモとしての約束ごとを十分に守りながら、それがどこかずれていたり、深度がふかく掘り下げられているために、もはや、それを突き破るものとしてメタモルフォーズしてしまっている。そして多分、それは計算されている。どこでそれがわかるかというと、最後のスキッキの口上だ。この登場人物がおもむろに作品を飛び出し、観衆に対して口上を述べるというのも、ヴェリズモの約束ごとのひとつである。だが、スキッキの口上は、それだけに止まらない。彼が遺産相続について、こうするより他に良い方法があったかと問いかけるとき、実はプッチーニは、こう言いたかったのである。ヴェリズモ・オペラを料理するのに、これ以上のやり方があるというのか。スキッキはそうして1つのオペラを閉じるとともに、「三部作」全体を閉じている。

結局のところ、プッチーニはヴェリズモという形態を借りてはいるが、それをまったく意外な方法で異化し、変形させて、従来のヴェリズモ劇ではとても描ききれなかった人間の真実を、3つの作品を組み合わせることで、見事に表現してみせたのだ。しかも、ヴェリズモ的なドラマのアピール性の強さをそのままにして!

演出は、粟国淳である。ドイツ的にいうと、彼の演出は「何もない」。例えば、二期会は近年、ツェムリンスキーの「フィレンツェの悲劇」と、「ジャンニ・スキッキ」をダブル・ビルにしたことがあった。演出のグルーバー女史は、SMの乱痴気騒ぎのなかで死んだ愛人を、哀れな「スキッキ」の死人にしてしまい、結局、最後の親族たちが金めのものを持ち去る場面(もちろん音楽も!)を焦点化して、戦争が町人一家の暮らしを踏みにじるときのナンセンスさを、皮肉たっぷりに表現したものだ。それと比べると、粟国はほとんど独自の意味づけを行わず、「三部作」が訴える主張だけを丁寧に拾い上げたといえる。

どちらかといえば、私は、粟国のほうに軍配を上げたい。無論、ツェムリンスキーとのダブル・ビルと「三部作」一挙上演という条件のちがいがあるし、単純な比較は避けるべきだ。しかし、「スキッキ」単体をみるだけでも、グルーバー女史の表現は、本来、「スキッキ」が三部作の最後で述べたかったことに対して、社会的な問題のいちばん大きなものだけに、逃げてしまっていることに気づく。それは大事な要素で、「三部作」の初演も戦争のために大きく遅れていることを思い出そう。だが、プッチーニの風刺性の凄いところは、そうした一面記事に出てくる問題に鋭く切り込んでいく一方で、三面記事にしか出て来ないような、しかし、人間にとっては、まったくもって重要ななにがしかを、しっかり描きこんでいることにあるのである。

現在のドイツ表現派(とでも呼んでみようか)は逆に、そうしたものを捨象することによって、独自の解釈、読み替え、現代へ開かれた作品の意義を偽造しようとしている。これはこれで意味のある取り組みではあるとしても、粟国はそのやり方に深いリスクを見出しており、それに対する強烈な風刺が、今回のコンサヴァティヴな舞台づくりに表れていると言っては、さすがに言いすぎなのであろうか。それにしても、粟国の今回の演出は印象的であり、音楽に寄り添う繊細な配慮があるのは前提条件としても、そこにじんわりと染み込ませられた、プッチーニという作曲家への解釈の鋭さというのは、ドイツ表現派の忘れかけているものを、しっかりと拾い集めたもののように思える。作品をどのように、「独自に」解釈すべきかではなく、作曲家がその作品でなにを述べようとしていたのか、そのとき作曲者がどのような精神状態にあったかを、粟国は素直に見つめており、それが我々に多くのことを考えさせる。

そういえば、新国研修所の「プッチーニのパリ」という公演(つばめとボエームの抜粋を組み合わせた公演)が思い出される。あのとき、演出のロベール・フォルチューヌは、いわゆる「ドーリア事件」以後、夫人との関係も冷え込み、孤独に沈むプッチーニ晩年のイメージを、過去の作品で埋め合わせるという機知を見せている。私は今回、そうした孤独なプッチーニのイメージを、再び確認した想いがする。社交的で、人懐こいイメージもあるが、「外套」や「アンジェリカ」で強調されるように、人間最後は一人だというプッチーニの悲しい洞察が、あらゆる作品にへばりついているのを私は知っている。例えば、「トゥーランドット」のリューは、あんなに美しい歌をうたってカラフのために死ぬが、その報いは何もない。カラフは、姫に奔る。そんな裏切りがあるだろうか。

さて、3つの作品で、ひとつだけ共通するテーマがある。それは、子どもへの想いだ。最初の「外套」では、多分、幼くして亡くなって、ミケーレとジョルジェッタの仲にも影を落としたであろう、愛児への思い出が歌われている。「アンジェリカ」では、正しく題名役の産んだ私生児の消息が、ドラマの鍵を握っている。「スキッキ」では娘・ラウレッタのアリアで、スキッキは動き出す。どんなに過酷な運命のなかでも、ここだけは揺るぎようのないものだと、プッチーニは考えたのであろうか。彼にとって、最後の拠り所がそこだとすれば、これらの作品はいよいよもって、哀しさを増す。また、我々の生きる社会に接続するための、ドイツ表現派的ないじりどころもありそうだが、そこには粟国は切り込まない。ただ、そうしたプッチーニの想いを、舞台の上にしっかと印象づけるだけだ。

そして、ジャンニ・スキッキ! 彼はうまくやって、故人・ブォーゾの遺産のもっとも大事な部分を掠め取った。だが、その成功にもかかわらず、スキッキに漂うあの孤独の影は、何なのであろうか。彼はもはや、自分自身の人生には何の希望も持っていないように見える。彼の関心は、もはやこの世にはない。プッチーニもまた・・・。ブォーゾが親族たちを脅しつけるために、「さらば、フィレンツェ」云々と歌い、それに親族たちがつづくとき、このコミカルな場面で、私は涙を禁じ得なかった。それは多分、親族たちのアンサンブルが奇跡的に美しく、歌手たちの情熱的な舞台づくりに触れたためと思っていた。それもあるのだが、かく感じていた私は、プッチーニの用意した罠に、見事にはまっていたのだ、と今なら気づくことができる。そうだ。この「さらば、フィレンツェ・・・」という歌は、スキッキの孤独を明らかに象徴しているのである。だが、よく考えないと、それには気づかないだろう。それでもいいのだ。プッチーニは誰かが気づいてくれるとは、あたまから期待していないのだから。

さて、歌手の出来などについて、細々としたことは、次のエントリーを待ってもらうことにしよう。
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2008/8/11

小森輝彦 & 服部容子 デュオ・リサイタル @津田ホール 8/9  演奏会

バリトンの小森輝彦は二期会の公演にも出ている(ワルキューレでは主神・ヴォータンを歌った)が、ドイツのアルテンブルク・ゲラ市立劇場でもバリバリ主役級を張っている。そこで専属第1バリトンとして歌っている彼の声は、さすがに芯がつよいのだが、それだけではなく、きりっと締まった甘みがあり、表現力も抜群だ。ちなみに、ゲラ市は、エアフルトを州都とするテューリンゲン州で第2の都市となっている。その彼が毎年8月ごろに帰国して、よく練りこんだリサイタルでファンを楽しませてくれる。今年は、年来のパートナーであるピアノの服部容子とともに、デュオ・リサイタルをおこなった。

これまでは一昨年、俳優の山本耕史を朗読に迎えて歌った「マゲローネ・ロマンス」(ブラームス)に象徴されるように、ドイツ・リートを中心に据えたプログラムが中心だったが、今回はイタリア・オペラ、それもヴェルディに絞ってのリサイタルである。しかし、いきなり「マクベス」のアリア〈憐れみも、尊敬も、愛も〉から始まるのだから、ヘビーな内容だ。ここから小森は、運命に翻弄されて破滅する英雄(マクベス)、娘だけが生き甲斐の悲しい道化の叫び(リゴレット)、権力者の歪んだ愛情(ルーナ伯爵)、息子を諭す父親の深い知恵と愛情(父ジェルモン)、と歌い分けていくことになるのだが、どの歌も表現にしっかりしたコンセプトが感じられ、情景が即座に浮かぶ歌いくちも見事である。

元気いっぱいのうちに歌ったマクベスは、ホール狭しと響きわたって、彼の声の強さをまずは印象づけた。リゴレットでは〈廷臣たちよ! 卑怯な奴ら〉、すなわち、有名な〈悪魔め、鬼め〉を歌う。前半の怒りの部分よりも、後半、すがりつくような部分にリゴレットの悲哀が滲み出る。服部の独奏を挟んで歌われたのは、ルーナ伯爵の〈彼女の微笑みの煌きは〜おお運命の時よ〉である。この部分を小森は、一般的な野心たらたらの伯爵としてではなく、レオノーラに憧れる少年のような純粋さで歌う。

前半の最後は、「トラヴィアータ」ジョルジュ・ジェルモンの名アリア〈プロヴァンスの海、故郷のことを〉。いわゆる〈プロヴァンスの海と陸〉である。やはり、子どもをもつ父親として、パパ・ジェルモンへの共感はもっとも深いのかもしれない。どちらかというと、中央突破の鋭い切り口が目立った前半のプログラムでは、慈愛に満ちた紳士的な歌いくちが、息子・アルフレードならずとも、ぐっと胸に響く。これをリゴレットのように歌っては、誰も納得しないだろう。服部のピアノがまた、明るく穏やかで、小森の表現とぴったり合っているのだ。彼は、二期会の公演で同役を歌うことが決まっており、このナンバーの出来映えは白眉となった。

なお、先に言っておくが、ここで使っているアリアのタイトルは、公演のプログラムによっている。一般的な呼称と若干ちがうものがあるが、ここもよく練られている部分のひとつなので、そのままにして紹介しているのである(歌いだしを素直に訳しているだけだが)。

後半は、凄惨な「シチリア島の夕べの祈り」から、イタリー総督、モンタルフォのアリア〈腕には溢れんばかりの富が〉から。前半は、あらゆる形で感情が先に立った表現が求められるナンバーが揃えられたが、後半はオトコのより幅広い内面を歌う。この総督のアリアは、息子の傍で暮らすことができたらという切なる願いが、社会的な地位の重みと激しく対立する部分を、じっくりと歌い上げる。パパ・ジェルモンにも通じる父親の愛情の深さと、それとは異なるより深い孤独が、しっかりと歌い込まれていた。

つづいては「ドン・カルロ」から、カルロスの腹心・ロベルトのアリア〈私の最後の日が来たのです〜ああ私は死ぬ、魂は喜びに満ちて〉。これはシゴト、もしくは、使命のために命をなげうつ、オトコの辛い決断を歌っている。私もオトコの端くれなので、こうした志に生きるオトコの格好よさみたいなものには、共感するところが大きい。それにしても、こうした理想を理想として、こましゃくれた空言とすることなく、しっかりした実感として歌うことのできた、小森の歌の秘密はどこにあるのか。それは人間が「死ぬ」という、オペラでは当たり前すぎるぐらい、よくあるシチュエーションなのだが、それに対する恐怖や躊躇いのようなものを捨象せず、しっかりと見据えたうえで、それを乗り越えていくオトコの潔さを改めて構築しているところにある。ここでは、政治的な理想を実現するために、カルロスに忠義を捧げるロドリーゴの熱さが、実は、人間として当たり前の怖れや躊躇いに支えられており、そこを通ることなしに、この牢獄に彼が立つことはなかったと、小森は内側から訴えかけていたのだ。

それにしても、バリトンの守備範囲は広く、国王もしくは為政者から、父親、夫、色男、戦士、あとで登場するような腹黒い野心家、阿呆まで、本当に幅広い。それらの曲目を、小森はただ上手に歌うのではなく、1曲1曲、そのキャラクターの内側に入って、表現していくのだから堪らない。

あと2曲。「オテロ」のイヤーゴー〈私は信じる、私を創った残忍な神を〉は、歌自体は、相当にまとまったものではある。だが、ジェントルな小森にとっては、こうした芯からのワルを演ずるのは、もっとも苦手とする分野なのかもしれないし、声質的にもギリギリの線ではなかろうか。だが、イヤーゴーの緻密な策略に焦点を絞るのであれば、こうした歌い方もまたあり得ないとは言えない。ここでは、オトコが必ずもっている野心の、人生に与える力強さを表現したのだろうか。

最後は、「ファルスタッフ」フォードのアリア〈夢か、誠か〉。題名の「誠」を漢字表記しているのは、未だに大河の「新撰組」が忘れられないらしい、小森のこだわりであろう。歌のほうは、ただ嫉妬ぶかいというよりも、オトコのプライドをストレートに歌ったもので、こちらは格好のわるいドタバタ劇という違いこそあるが、オトコの本質というものは、そうそう変わらないものなのかもしれない。ここへ来て、若干の歌い損ないなどあって疲れも感じるが、それでも最後まで集中力は高く維持され、1つ1つのナンバーをしっかりと歌いきったパフォーマンスは賞賛に値する。

デュオということで、服部容子のピアノにも大いに注目したい。独奏は、リストの「超絶技巧練習曲集」第8番〈狩り〉と、ドビュッシーの「喜びの島」。リストのほうも凄かったのだが、ドビュッシーには畏れ入った。コレペティとして鍛えられた和声の意識が濃厚で、こんなにも厚く響くドビュッシーは、なかなか聴けるものではない。もちろん、ただ分厚い響きが特徴ではなく、伸縮や進退の絶妙な機微がワサビのように効き、音色も十分に豊かだが、それに頼りきっていない。結局、服部の演奏はドイツのしっかりした構造美を骨組みに、イタリーの強烈なカンタービレで肉付けされ、それを日本の繊細さ、奥ゆかしさでヴェールに包む。

彼女が「デュオ」の役割のなかで、小森の歌う曲たちのために、どんな働きをしたかについて逐一書くことは、残念ながら割愛する。しかし、彼女が弾きだして、小森が歌い始めるまでの間に、ほとんどの曲目では、完全に情景のイメージが聴き手に浮かんでいたであろうことを、書き添えておこう。

なお、この日のリサイタルでは、壁面にプロジェクターでスコットランドの原野や、宮廷、海に浮かぶ島などを半楕円形に映し出し、そこに歌詞を重ねて表示するなど、手が込んでいた。個人のリサイタルで、ここまで用意してくれるというのは、なかなかできない配慮だろう。小森はこの夏のシリーズに、本気で取り組んでいる。だからこそ、毎年、質の高いパフォーマンスが続いてもいるのだろう。他の歌手たちもやっていそうで、実のところ、ほとんどやっていないことだ。

来年は8月7日、カザルスホールを会場に、マーラー歌曲が中心ということである。
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