2008/8/25

サマーフェスティバル2008 (サントリー音楽財団) ジェルヴァゾーニ特集 (室内楽) 8/24  演奏会

サントリー音楽財団の主催による、毎夏恒例のサマーフェスティバルに足を運んだ。初日となる24日は、今年のテーマ作曲家である「ステファーノ・ジェルヴァゾーニ」の室内楽が取り上げられた。

このジェルヴァゾーニは1962年、イタリーはベルガモ生まれ。まだ40代であるから、ここに出てくる作曲家としては、異例の若さであると言えようか。作風としては、あまり書きすぎないすっきりした書法の持ち主で、響きはいささか難解としても、とても人間的な起伏のある作品を書く。ユニークで、ユーモアもあるが、ときには厳しさがきりっと楽曲を引き締めている。知的な構築でありながら、それを見せびらかさず、響き自体がチャーミングであるために、四の五のいう前に面白さというのが先に来る。

前半は、1989−99年の間に、まったく別の機会に独立して作曲されながら、のちに「三部作」としてまとめられた「An(あるひとつの)〜シューベルトの相関性によるソナタ風」「アニマート」「アンティテッラ(反地球)」が、つづけて演奏された。既に述べたような理由から、「三部作」が「三部作」として演奏されるのは、これが世界ではじめての機会となるそうだ。

最初の、アルト・フルート、クラリネットと弦楽三重奏のための「An」のモチーフが、この日の演奏会にとって示唆的である。この作品では、普段は無視してもよいほど些細なことに、アテンションを与えるのが芸術であるという考えに基づき、特段に目を引くものでない複雑性のなかにこそ、私的なものがあるというモチーフで創作された(という)。ジェルヴァゾーニはプログラム中で、次のように述べている。「普通なら目にも留めないものを、興味の対象へ変貌させる挑戦。この緊張こそが詩的な力を生み出すのではないか」。

こうした言葉を頭に入れておくと、この作品から表面上、聴こえてくるものよりも多くの情報をキャッチすることができる。実際、我々の耳に飛び込んでくる響きは、コンテンポラリーの聴き手にとっては、別段、もの珍しいものではなかった。しかし、私はそれらの響きに寄り添うように、しっかりと垣間見えている作曲者の響きのコントロールの仕方にあった。上の発言から読み取れることからすると、周縁部が執拗に強調され、通常の楽曲からすると主客転倒したような響きが、想像されるかもしれない。だが実際、楽曲は淡々と中軸となる楽器を決めて、ソナタ的ともいえるシンプルな進行をみせるだけである。さて、その響きの結びつきを注意ぶかく見ていくと、確かに中心的な楽器がそれぞれの場面に置かれ、それらが堂々と自らの響きを主張している。ところが、そうした部分は思ったよりも印象的ではなく、むしろ、それが抜けていくときの逃げていく鼠の尻尾のような、そうした響きがチャーミングに耳に残るのだ。そうかと思えば、主要な楽器が鳴ることで、そこに密かに結びつくように配置された、ごく弱い内声の響きがぐっと浮かび上がる。そういうところがもっともスイートになるように、ジェルヴァゾーには慎重に作品を組み上げているように見えた。

結局、ジェルヴァゾーニにおいては、こうした意表をつくアテンションがいろいろに変容され、聴き手に作用するようにできている。8楽器のための「アニマート」は、春の朝の野原で、方々でぱっぱと花が開く瞬間のように、響きが楽器から楽器へと飛び移っていく様子が、印象に残る。その間の空間性が、正しく「アニマート」に描かれていく。12楽器のための「アンティテッラ」は、多分、20分くらいある(時間は測っていない)規模の大きな作品であるが、冒頭のアコースティック・ギター(贅沢にも鈴木大介が担当)による開始が象徴的である。そこでは、ギターのあの甘い音色は響かずに、いちばん端の弦をバチンとやるだけなのだ。あとで、ハープにもこれと同じようなアクションが出るが、ハープの弦で、あんな音が出せるというのは、ある意味では当たり前なのかもしれないが、いままで考えもしなかったことである。

だが、ああした響きが弦というものの本質的な、もしくは、そういうことに語弊があるならば、それらが織り成す響きの原点にあるのだとすれば、こんな面白いことはない。そう考えながら、全体を捉えなおしてみると、この曲はおよそ、そうした響きの起源とでもいう要素だけで、組み上げられていたように思えないでもないのだ。しかし、そうしたことに気づいたのは、残念ながら、曲がおわるころになってからであった。最後は宇宙の外から地球を眺めるような不思議な響きで、楽曲は閉じられていく。

ジェルヴァゾーニをめぐるもうひとつの特徴は、楽曲自体はまったく都会的ともいえる響きなのだが、どこか自然を感じさせる響きが混じっているということだ。後半のはじめに演奏された、「スヴェーテ・ティヒ〜幻想曲によるカプリッツィオ」は、そういった意味で象徴的な作品なのかもしれない。この曲は、ドルドゥンジュ姉妹による2台ピアノと、2人のパーカッショニストによる珍しいアンサンブル「マクロコスモス」のために書かれた。スヴェーテ・ティヒというのはコソボの言葉で、直訳すると「沈黙の光」、より正確には「平和な世界」を意味しているのだという。

この曲はそもそも、東洋と西洋の結節点からスタートするパオロ・ルミスという作家の巡礼記のような作品に刺激されており、それをピアノと打楽器との出会いというテーマに置き換えて、構想されたものであるようだ。ピアノは技巧的で野生的なパッセージと、内部奏法やピアノの本体を叩くような掟破りまで導入した、自由な響きが混在する。名前もわからないものも含まれる、数々のパーカッションを扱う2人の男の、自由気ままなアクションも楽しい。だが、思いの外、響きは砕けておらず、統制がとれている。実際は、そうした安定感のある部分が大方を占めて、ミニマルのように繰り返される部分もあることから、序盤は、やや単調な感じもする。ところが、時間を追うごとに、作品は徐々に深度を増し、一見、気ままに配置された響きでありながら、実際は見事に計算されており、場面ごとに鳴っていく様々な打楽器や、ピアノの強引な扱いが、確かにそうなくてはならぬものと思えてくるのだから不思議だ。

常設の室内楽グループとしては異様な編成だが、さすがによく息があっている。それだけに、思いきったアタックがあるものと通常は期待するものだが、実際は、むしろ弱奏の、透明な響きの清らかさにおいて、それが実感される。冒頭部分や、最後もそうだが、ガチャガチャした展開のなかで、そうした静の要素(休符を含む)が重い位置を占めてくるのは、ジェルヴァゾーニの音楽的特徴のひとつでもある。あdが、この作品に関しては、ややエピソードが多すぎるように感じられた部分もあった。

最後は、フルートと22人の奏者のための「CHA」(初演に関係した人たちの頭文字をとっている)である。フルート独奏は、かのサルヴァトーレ・シャリーノをして「フルートのパガニーニ」と言わしめたという、長身の笛吹き、マリオ・カローリ。しかし、これは協奏曲ではない。プログラムによれば、「楽器群が対に分化されていくのに対して、独奏者は干渉を試みるのだが、常に失敗におわる」。そして、鏡の迷路のようなところから抜け出せず、「自らの姿が2重にも、4重にも、6重にも増え続けるのを、止めることは出来ない」のだという。

フルート独奏がいきなり姿を表す、第1音が何とも強烈だ。まるでブルース・リーの「アチョー!」にも比されるような、フルートの鋭い響きがピューピューと吹き鳴らされ、主人公が自信満々に、颯爽と現れる・・・いや、その素っ頓狂な響きは、「颯爽に」というよりは、すこぶるアイロニカルかもしれない。私は、吹き出しそうになる。しかし、この自信家の独奏フルートに対して、22奏者の結束はきわめて固い。ときには激しく、ときには静かに、突破を破ろうとするフルートに対して、まったく動じることもない。もしも動じたように聴こえたとすれば、それは演奏がわるい証拠である。

やっていることは、そんなに複雑ではない。独奏の響きを模倣したり、すかさず強固な響きを返したりすることで、その印象を薄め、結局、アンサンブルの外側に弾き返していくというだけのことだ。ただ、その匙加減は慎重に計算されており、まったく隙がない。ということは、無駄がないということだ。普通であれば、協奏しているように聴こえるはずの部分を、ほんの僅かなバランスの調整で、対立やいじわるな感じに変容させ、コミカルな音楽世界を描き出している。中でも、アンサンブルのなかにあるフルートの響きが曲者で、こいつのおかげで、独奏フルートは自らの手足を縛られたかのように、何もできない。いちばんの悪役である。後半、ついに独奏フルートも諦めに入ったかのように、狼の低声の遠吠えとでも言ってみようか、しかし、低い声で、長いうなりがつづくが、その裏でも、抜け目なく動いているアンサンブルの響きは、今度はいささかグロテスクにみてくる。

前半では、独奏フルートの強引さが鼻につき、アンサンブルのほうに理があるように思える。だが、後半は一転して、独奏フルートへの同情が濃くなって、アンサンブルの冷酷さが際立ってくる。前半の楽天的な、コミカルな響きは消えて、息を呑むグロテスクな雰囲気が首をもたげてくる。この対比が、実に味わいぶかいものがある。

演奏会全体を通して、わかりはしないが、実にユニークで、チャーミングな響きに惹きつけられた。演奏会は明確なコンセプトに基づいており、既に述べたような焦点が定まっている。作品としては、休憩前の「三部作」のほうがゆたかなポエジーに満ちて、艶やかで、繊細でもある。休憩後の作品はフィジカルで、わかりやすい反面、すこし書法がうるさくなっているかもしれない。「スヴェーテ・ティヒ」は2005年、「CHA」は2001年の作品であるが、やや作風が饒舌になってきているのであろうか。しかし、それでも他の西洋の作曲から比べると無駄が少なく、ユニークな面が多い。しかも、難解でありながら、聴き手のこころに引っ掛かるものがたくさんあるというのが、興味ぶかい。ジェルヴァゾーニは初めて聴いたが、なかなかに面白い作曲家である。

演奏は、東京シンフォニエッタの面々。指揮は、作曲と指揮で活躍する杉山洋一という人で、ジェルヴァゾーニの録音もあるスペシャリスト。国内で無名だが、コンテンポラリーではそれなりに名の通った人物であるようだ。
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2008/8/24

プッチーニ 三部作 @東京文化会館 8/10 B 【B-part 修道女アンジェリカ/ジャンニ・スキッキ】  演奏会

書き始めてから、2週間ちかくも経っている記事だ。そろそろケリをつけよう。

2本目の「アンジェリカ」は、事前の予想どおり、やや声の面では不満が残った。修道女たちのアンサンブルは悪くないが、主要三役が感心しない。しかし、シンプルな装置で組み立てた粟国の世界観が面白く、主要役への共感が薄いにもかかわらず、良い舞台となったのは意外である。

こんなことを言うと怒られるかもしれないが、修道院というのは、決して幸福な場所ではないだろう。だが、プッチーニが描いたアンジェリカのいる修道院は、どうであろうか。なかなか人間的なところもあり、女学院の寄宿舎(なんて入ったこともないが!)のような雰囲気もあり、ちょっぴりだけれども、信仰心がワサビのように効いた半理想世界である。そこをアンジェリカの、純真な母ごころが汚すことになるというところに、シニカルなものを感じさせる。粟国は、そうした世界観を明るいイタリア・オペラの魂で埋め尽くすとともに、ヴェリズモ的な生の人間心情を鮮やかに描きだす。

例えば、晩餐をとるとき、行儀よくテーブルを囲むのではなく、いくつかのグループに分かれて、ピクニックのランチのように食事を広げ、適当に座って食事をとる光景が、実に微笑ましいではないか。粟国はこうして、修道女という仮面を彼女たちから外しておき、生身の女性として扱うことを宣言する。アンジェリカはまだ日が浅い(といっても、7年!)が、深い信仰心に根ざした女性であるが、彼女がそうしていられるのもまた、引き離された息子の無事を願うためであった。そして、その死によって、アンジェリカの祈りは、死への渇望にすりかわっていく。もっとも厚い鎧を着たものが、実はもっとも危ういということを、この作品は述べたかったのであろうか。

いずれも外から差し込むように計算された、ライティングを効果的に使った演出は、2箇所にみられる。まずは、夕べの祈りのあとに、夕陽が聖堂に射し込む場面。そして、アンジェリカが死を決意し、凶行に至るときの場面である。これらのいずれもが、作品を代表する名場面であることはいうまでもないが、音楽的にみると、前者は女性的で、素直な、澄んだ響きであるのに対して、後者は、ちょうどバタフライの自害の場面と同じように、静かで清らかではあるが、ぴんと張りつめた響きになっている。

特に後者について、流れに沿って検証してみるならば、ここにこそ、アンジェリカの難しさが詰まっていることがよく分かるであろう。単独で有名なアンジェリカのアリア「母もなしに」では、母親の絶望がじんわりと積み上げられていく。しかし、そのおわりのほうは、ただ暗鬱なだけではない。むしろ、信仰の力強いエネルギーが、こうした絶望的な悲劇さえも乗り越えていくような印象さえ、与えるのである。間奏曲的な管弦楽の演奏から先は、演出家のたちの腕の見せ所である。つまらない発想だが、私のあたまに浮かんだのは、アンジェリカを死なせずに救済することも可能ではないか・・・ということだ。あの仲間たちがいれば、アンジェリカも乗り越えられるのではないか。死のうとするアンジェリカを寸でのところで止めて、十字架を片手に泣き崩れるアンジェリカを、修道女たちが囲む映像をイメージした。

だが粟国は、その点ではシビアだ。最終的な救済を穏やかな響きで暗示しておきながら、やはり、毒を運んできてからの場面は緊張感に満ちみちている。先程、バタフライの例えを出したように、白装束で背筋を伸ばして姿勢を正し、清らかに照らされて毒壺に正対する場面の、息を呑む美しさは何だろう。こうなっては、たとえ魂の救済はあり得ても、もはや死からの救済は可能性がない。そう思って聴いていると、やはり、最後の音楽からアンジェリカの息吹きは聴こえてこないものであった。たとえ不満足な歌手がうたうアンジェリカでも、このしまいの場面は、さすがにじんと来るものだ。ただし、裏からうたう修道女たちの声を、増幅するのはいただけない。

3本目は、ジャンニ・スキッキ。名アリア「私のお父さん」があるだけに、この三部作のなかでは、もっともポピュラーな作品であろう。粟国は三部作のおわりに上演する、この作品の意味を考えて、アイロニカルな種明かしを試みている。この作品だけ、前奏の部分では幕が下りている。しまいのスキッキの口上は幕を下ろしながら述べ、スポットがスキッキを照らし、緞帳が下りきると同時に締めの文句を発する。そして、暗転・・・見事な構想のはずであったが、その流れは観客の早すぎる拍手によって遮られた・・・遮られはしたが、なるほど納得のいく演出である。

こうして三部作は、舞台上の登場人物がおもむろに観客へ語りかけるという、ヴェリズモ特有のスタイルを逆手にとって、シニカルな笑いを残して終わるのだ。一見、このスキッキの口上は、舞台と客席を最終的にデバイドするものとして、印象づけられる。だが本当は、両者を結びつけているのだ。もしもスキッキと、ブォーゾの親族たちを笑うとすれば、それは自分たちを笑っていることになろう。彼らの生態は、決して我々と無関係ではない・・・というよりも、色濃く関係している。先に言ったように、これら三部作でプッチーニは、人間のすべてを描き出したのだ。最後に、我々はそのことに気づくべきなのである。

このスキッキも、チームワークが素晴らしい。直野の磐石の演技は、既に二期会の公演でも実証済み。高橋薫子は年齢はすこし積み重なっても、こうした小娘をやらせると右に出るものがないぐらい、可愛らしい。リヌッツィオの樋口達哉も立派だ。だが、直野はともかくとしても、主要役の誰かが突出していいとかいうよりは、全体のアンサンブルの親密さが、以前、二期会の本公演でやったときとは比較にならないほど、優れていた。その証として、@でも述べたように、「さらば、フィレンツェ・・・」のところで見せた、今後、語りぐさになりそうなぐらいに美しい、親族たちのアンサンブルが象徴的である。

二期会にしても、藤原にしても、ここまで密度の濃い上演はなかなか見せてくれない。この企画を実現し、参加、協力した諸氏に敬意を表したい。なお、この企画の実行委員長になっている国会議員の愛知和男氏によると、わが国を舞台にしたプッチーニの代表作のひとつ、「蝶々夫人」に敬意を払いながらも、我々日本人からみて違和感のある部分を修正したヴァージョンで上演する試みが進みつつあるということで、そちらの進捗が今後どうなるものか、注意を払いたい。よっぽど、私はそのような運動には必ずしも賛成しないのだが・・・。
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