2008/8/31

クラリネット・フェスティバル東京・多摩 8/30の公演から  演奏会

クラリネット・フェスティバル、30日の公演は、同時開催のコンクールのほうが大詰めを迎えたが、私は今回、このコンクールにはあまり興味を示しておらず、いまのところ、結果も知らない。フェスティバル公演のほうは、「知りあう」ことがテーマとなっているように思われた。

11時からは、様々なピリオドを、クラリネットの発展史から辿る、ドイツから参加のクラリネット・トリオ「クラリモニア」のレクチャー・コンサート。共演した横田揺子による通訳がついた。さらに五重奏では、ベテランの伝田高廣が加わる。マッテゾン、モーツァルト、フックス、ウール、エヴァルト(金管五重奏曲からの編曲)と演奏し、それぞれのピリオドに使われた楽器を使用した。最後に、モーツァルトの歌劇「魔笛」からのピースで、古い楽器に戻る。完全に木製のクラリネットはバロック演奏などでもお馴染みだが、くの字に曲がったバセットの先祖となると、なかなかお目にかかれない。

こうして聴かせてもらうと、新しい楽器は音も大きく、機能的には優れているが、古楽器の音色の温かさ、そして、すっと溶け合っていくような優しさも、まったく捨てがたいものだ。彼らが古い楽器のほうが得意ということもあろうが、例えばモーツァルトの「アダージョとフーガ」(KV.404a-No.1)でみせた3人の響きの重なりは、オルガンの響きのよう。単体では、古いトランペットを思わせる音色が柔らかに響き、温かい響きが牧歌的に鳴っていた。正しく、素朴な農村の土の香りのする響き。比較的に歴史の浅いクラリネットだが、どうして他の歴史の古い楽器と比べても見劣りのしない、来歴を感じさせる。そして、その音色の親和力は、容易に宗教を想像させるものである。「農村=宗教=楽器」。この切っても切り離せない絆が、楽器の音色から自然に掴み取れる。

続いて出演の「ホルツの会」は、ベーム式=フレンチ・クラリネットに押されて、姿を消しつつある独墺系のクラリネットの愛好家によって設立され、10年以上の歴史をもつ。クラリモニアのメンバーも加わり、レスピーギの演奏を披露する。音色のちがいは繊細なもので、いちど聴いただけでは、そう簡単にちがいを識別できる能力は自分には備わっていないが、そういったちがいを意識させる契機にはなった。独墺系の楽曲ではなく、レスピーギという選曲も意表をつくが、この楽器がどのような音色をもち、どのような曲にあうのか、今後、積極的に興味をもってみたい。

オブロー・クラリネットアンサンブルは、「クラリネット八重奏の形態を最初に日本に持ち込んだ」という、プロによるクラリネット・アンサンブル。これにゲストとして、十亀正司が加わった。音色が非常に華やかで、ひとりひとりが魅力がダイレクトに伝わる八重奏の利点を、しっかり使いきっている。いずれも加藤雅之の編曲による、ピアソラ「ブエノスアイレスの春」「エスクアロ(鮫)」もいいが、より顔のみえやすい天野正道「ドゥ・ダンス(2つの舞曲)」では、いちいち挙げないが、それぞれの奏者の特徴が、もっている楽器の特徴と重ねあわせられ、しっかり印象づけられる。

楽曲自体はワルツ/タンゴ調のよくあるタイプの音楽にすぎないが、楽器の音色の幅を使いきって、アンサンブルの顔まで写しとった、この1曲はオブローにとって特別なものであるにちがいない。アンサンブルの親密さが飛び抜けており、まるで1台のアコーディオンで奏でたような響きの統一感、そこにコントラストがつくときの切り替えの同調性など、きわめて高いレヴェルにある。なお、「オブロー」とはフランス語で「小さな鷹」を意味し、アンサンブルは30年を越すキャリアをもつ。知られざる名アンサンブルといえるのかもしれない。

ここから、公募アンサンブル、コンクール受賞団体などのパフォーマンスが続く。私が聴いたのは、Ensemble「K-301」、ソノール・クラリネットアンサンブル、船橋市立習志野第一小学校の3団体。どこもアマチュアとは思えない質の高いパフォーマンスで、クラリネットって、簡単な楽器なのではないかと勘違いしてしまいそうなぐらいだ。「K-301」は野太い歌いくちで安定感があり、ソノールはしっかりした基礎を身につけた優等生的演奏(それに衣裳が可愛らしい)、習志野第一小のメンバーは、既に一端のアーティストと言ってよく、あとの公演で12歳の「天才少年」が登場するが、それに迫ろうかという金の卵たちの演奏は、驚きの連続だった。

15:30ごろから、その「12歳の天才少年」ハン・キムのリサイタルがあった。現在はソウルの学校に在籍中だが、既に彼の実力は衆目が認めるところであり、早くもプロとしてのキャリアがスタートしつつあるところだ。前の晩、マナシーも演奏したウェーバーの演奏会用大二重奏曲(グランド・デュオ・コンチェルタント)がもういちど聴けたが、まったくヒケをとらない出来栄えだ。課題は・・・などといってアラを見つけるのは困難で、「神童」など出さないほうがいいという意見の私も、一本とられた格好だ。技術的な完成度はきわめて高く、表現からみても、明らかに未熟な部分は少ない。ほんの僅かに、ブレスのポイントに疑問があった点を除いて、彼の演奏は賞賛に値するだろう。是非、才能をじっくりと育てていただきたい。

なお、ピアノ伴奏は同国人の若手、ウー・リ・コ。明らかに上等の生地を使ったドレスを身にまとい、気品の漂うソリスト級のピアニスト。スケールの大きな表現で、アンサンブル・ピアニストという感じではないが、非常にゴージャスで、構えの大きな表現は今後が楽しみだ。こちらも、まだまだ20代前半の若手である。

つづくTCCP(東京コミカルクラリネットフィルハーモニー)のパフォーマンスは、センスのいい笑いと、プロフェッショナルな演奏の不思議な融合だ。ラジオ番組のスタジオを模した舞台づくりで、下手のブースで十亀正司扮するパーソナリティと、三木薫扮する辛口評論家・春山隆が、コミカルなやりとりをする。リクエストに応えるという設定で、クラリネット・アンサンブルが生演奏を披露する。曲目はすべてオリジナル・アレンジの、パロディもの。クラシックの曲目に限らず、寅さん、3分間クッキング、アニメーション、時代劇のテーマなど、ごちゃ混ぜだが、無理なく、上手に編集している。アレンジャーは不明。途中ではCMまで用意され、これも生演奏。今回のイヴェントのスポンサーを絡めながら、決してオマージュ一本槍ではないイロニーを含んでいる。もちろん、会場は大ウケ!

日本のプロ・クラリネット奏者のうち、名立たるメンバーを集めているのだから、演奏自体はうっとりさせられるものがほとんどだ。そこへもってきて、大胆で、シンプルな笑いが仕込んであるので、会場はきわめてリラックスした雰囲気になる。やるほうが楽しんでいるのが、ダイレクトに聴き手に伝染している格好だ。クラリネット奏者にとっての恩人たちのひとり、ウェーバーの新発見の楽譜(ハッハ!)による「コンチェルティーノ第2番」の世界初演には、かつて名奏者として鳴らした、指揮者の板倉康明が駆けつけた。

夕方はパリの管楽器メーカー、アンリ(ヘンリ)・セルマー社の提供によるガラ・コンサート。都合により全部は聴けなかったが、素晴らしいコンサートだった。まず、前日にも演奏したポーランドのJ.J.ボクンが、再び、あの甘いクラリネットの響きを楽しませてくれる。スラップ・タンギングを活用した手法を用いながら、何の脈絡もなさそうな響きがいつか民俗的な風物を髣髴とさせる、無伴奏によるG.ヴァヤダの作品「影から光へ」。そして、ピアソラ「オブリヴィオン」の物悲しい雰囲気を、しっとりと印象づける。日本を代表する笛吹き、高橋知己はシューマンの「3つのロマンス」(op.94)を演奏し、年輪の積み重なった重厚な表現、慌てず騒がず、しっかりと世界を紡いでいく、彼にしかできない辛口の表現で、会場をボクンのときと同様に酔わせた。

原田綾子は、この流れのなかで明らかに晦渋な、デニゾフの無伴奏のソナタを、臆せずしっかりと演奏する。きれぎれのセンテンスを、確信に満ちた表現の意思が埋める納得のパフォーマンス。万行千秋(東京フィル首席)は、プーランクのソナタをじっくりと、衒いのない表現でしっかり聴かせる。この曲はマナシーも演奏したが、あちらの技巧性あふれる演奏とは打って変わり、落ち着いた大人の音楽づくり。ギャルド・レピュブリケーヌ吹奏楽団の第1首席、シルヴィー・ユーは、つんと鼻にかかった上品なフランスの音色で、聴衆を虜にする。N.バクリの「ソナチナ・リリカ」は雨のパリを想起させる(行ったことはないが)、瑞々しいリリシズムに満ちている。私が聴いたのは、ここまで。あと2曲あったはずだが、残念なことをした。

なお、このセルマー・ガラのピアノ伴奏は、前日のコンサートでも存在感を示した、石橋尚子である。彼女の弾くピアノが、今回のフェスティバルでは、もっとも質がいい。大ホールに来ても、そのオーラは失われなかった。

さて、明日はいよいよ最終日!
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2008/8/29

クラリネット・フェスティバル東京・多摩 8/29の公演から  演奏会

2005年、アジアではじめて行われたという国際クラリネット・フェスティバル東京(以下、クラ・フェス)は、メディアなどで大きく取り上げられる機会こそ少なかったが、吹奏楽ファンなどの大きな支持を得たものか、すこぶる盛り上がったイベントだった。今回、3年ぶりに、今度は日本の協会が主催して、クラリネット・フェスティバル東京・多摩2008が、開催されている。28日夜に前夜祭が行われ、この日から本公演が始まって、31日まで多種多様な企画が用意されている。会場は、パルテノン多摩の大・小のホール。

今回のクラ・フェスは日本協会の主催ということもあり、プロだけではなく、公募やアンサンブル・コンクールを経ての一般参加が重視されている。29日も在京音大の学生たちが企画を持ち寄り、午前中から15時くらいまで続いた(これはパス)。その後、「海外アーティスト特別リサイタル」となり、5人のアーティストが至芸を披露した。

トップ・バッターは、ローマ歌劇場でバス・クラリネットを吹いているイタリー人、サウロ・ベルティ。ピアノ伴奏は、藤谷菜穂美。ベルティはオペラ畑だけあって、こころを込めた丁寧な演奏が特徴だ。派手さのある演奏かではないものの、しっとりと良い演奏をする。3曲のうち、後半のボッカドーロ、プロカッチーニは、いずれもイタリーのコンテンポラリーの作曲家だが、先週のジェルヴァゾーニ(この日はサントリーホールで新曲を披露しているはず)の記憶がまだまだ新しいだけに、演奏は良くても、曲の弱さがやはり目立ってしまう。そこへいくと、1曲目に演奏した有名なアントニオ・サッリエリの甥、ジローラモ・サッリエリの曲には目を見開かれる想いがした。

この曲、つまりは「序曲、主題と変奏」はベルティと藤谷による編曲により、バセットホルンとピアノにより演奏されたが、元来はバセットホルンと弦楽四重奏のために作曲されているものだそうだ。確かに、それらしい形跡が随所に残っているようでもある。巷間ではしばしばモーツァルトを陥れたなどと言われるものの、実のところ、その天才を誰よりもよく理解していたと思われる、アントニオおじさんに相当しごかれたのであろう。モーツァルトの作風をしっかり手中にして、明暗の切り替えが鮮やかであり、楽譜に込められた内面の叫びがきわめて濃密な佳品となっている。

ジローラモは自らクラリネット吹きだったそうで、楽器の可能性を生かしきっている点も強調せねばらない。技巧性の高い難曲だが、ベルティの音色にもこの曲はぴったり来ており、藤谷のピアノもやや淡彩とはいえ、クラリネットと調和する音色をもっていて、この曲の表現に関しては、両者とも素晴らしい印象を残した。

一口にクラリネットといっても、吹き手の個性によって、まったく別の楽器に見えてくる。中国のトップ奏者、ティ・ベイは非常にストレートな音楽づくりで、切れ味勝負。ただし、高音はややきつめの響きがする。このあたりは、日中の感覚のずれもあろうと思う。伴奏の、イホン・ベイも同傾向だが、名前と若さからみると娘であろうか。韓国のイム・スー・リーは、同国のヒーロー、張明勳が率いるソウル・フィルの首席。抑えをきかして歌いすぎず、世アックな楽器のコントロールが印象的だ。ブラームスのソナタ第2番を、繊細な歌いくちで通した我慢の演奏だった。

さて、ここから出てきた2人が凄かった。ポーランドのヤン・ヤクブ・ボクンは、指揮者としてのキャリアもある知性派だが、ホグウッド指揮のモーツァルト(cl協奏曲)に起用されるだけのことはあり、スイートで、とろけるような音色の柔らかさは、余人の追随を許さないだろう。ボクンはまた、自らのそのような長所をしっかり把握していて、曲目の選択もまた甘い。ただし、その中でも無伴奏で吹いたD.ラクシン「悪と美」などは、辛口な表現も含まれている。しかし、彼のクラリネットを聴いている限り、どこからともなく漂ってくる響きのたおやかな表情は、優しく聴き手を包んでいく。理屈はともかく、響きそのものが、逆らえないほどにチャーミングなのだ。

ピアソラ「タンゴ・エチュード第3番」などを弾かせれば、溜め息が出るほどに美しいのはわかりきっているけれど、J.プチハールという作曲家の「ソナチナ」では、その形式を踏んで最後に一巡りしてくるときに、ある種の懐かしさを感じさせるようなところまで聴き手をピックアップしており、その求心力の強さに唖然となる。

最後は、「ハンガリーの奇才」ヨーゼフ・バローグ。ただの笛吹きではなく、アカデミズムの中においても重きを占め、作曲も手がけているという多彩なおじさん。それにしても、サーヴィス心がゆたかで、聴き手を楽しませる天才。もちろん、クラリネットの腕が普通ではないのであるが。ハンガリーの伝統楽器であるタロガトも演奏するというように、彼の笛からは、一口に「クラリネット」とは呼べない、いくつもの笛の音色がする。もちろん、それらを生かしきるためには、彼の経験を生かせるだけのユニークな曲が必要である。

例えば、最初に演奏したL.グリャス(演奏者編)の「セク地方の音楽」が、それに当たるだろう。セク地方はトランシルヴァニアの都市で、1921年以前はハンガリーに属した土地ということである。「チャルダッシュ」と言っていたように、その土地の多様な風物が織り込まれた曲ではあるが、すこしジャズが混じっている。彼は剽軽な音色、それは民族楽器のうなりのようでもあり、馬や獣の鳴き声のようでもあるが、そうしたものを大胆に織り込みつつ、安定感のある響きで、ずっしりと楽曲を彩っていく。

G.ルイン「ブラジリアンス」は、前のグリャスとも共通点がありそうな、独奏の技巧性あふれる曲目だった。そいつをケロッと、ユーモアを交えて演奏したバローグは、既に聴き手にとってはヒーローである。後半はよりジャジーな曲目で、J.パーカーのクラリネット協奏曲のピース(第3楽章)を演奏したあと、自作の「ブラームス ブダペストに行く」で、彼らしくコミカルに締め括る。この作品は、有名なブラームスのハンガリアン・ダンスをモチーフにした、ジャズ風の変奏曲。原曲のメロディがほぼそのまま引用され、それがバローグの身に染みついたハンガリーの音楽と反応して、興味ぶかい歪みを見せるのである。

なお、協奏曲ではむしろ伴奏の役割が重く、これを受け持ったピアノの石橋尚子の、鋭敏なセンスも耳を惹いた。この石橋は、伴奏者として得がたい才能をもっているようだ。この日はイム、ボクン、バローグとまったく異なった個性の持ち主を相手に、ほんの数音で向こうのやりたい表現にアジャストして、しかも、立派な音色で主役を引き立てていった。曲目も一筋縄でいかぬものばかり、ドイツ、フランス、東欧、ジャズ・・・と地域もジャンルもバラバラであるが、にもかかわらず、いずれも隙のない表現で、かつ、いつも芸術的に織り上げる力は並大抵のものではなかろう。特に、ボクン、バローグという本当に優れた奏者を相手にして、いよいよ力を発揮する柔軟な表現力に感心した。

このあと、ジャズ系のトリオの演奏が続いたはずだが、お腹が鳴り出したために中座することにして、19時からのガラ・コンに備えた。このガラは、パリのビュッフェ・クランポンの提供による。ビュッフェというとレストランの名前みたいだが、これはベーム式クラリネットを生み出した、世界的なクラリネット・メーカーの老舗なのだそうである。ソリストは、わが国の亀井良信と米国のジョン・マナシー。伴奏ピアニストは、中島由紀。

亀井は、プーランクのソナタほか、3曲を演奏した。演奏自体はすこぶる上手なのだが、この人はサイトウキネンでも良い印象をもたなかったように、私とは相性がよくない。マナシーはザビーネ・マイヤーまではいかないが、本物の名人の類である。ゆったりとして、隅々まで実の詰まった表現が、聴き手を楽しませた。特に、ウェーバー「演奏会用大二重奏曲」の緩徐楽章でみせた、圧倒的な集中力は忘れがたい。ここでウェーバーは一体、どんな悪魔にとり憑かれたのかわからないが、「演奏会用」という題名から予想された華やかさとは、まったく縁のない沈潜した、重苦しい音楽を書いている。それは例えるならば、モーツァルトの「フィガロ」の最後、ハッピーエンドのはずなのに、どこか抜き差しならないもので覆われる、あの印象に似ている。この曲については、また後日、ちょっと調べてみたい気になった。

マナシーのクラリネットは、もっとも音の出にくい楽器の継ぎ目の部分に、しっかり焦点があっている。それはあたかも、声楽の声のひろげ方に似ており、どっしりした中声部の安定から、高音や低音が自然に導かれるようになっている。その凄さがまじまじと確認できたのは、無伴奏によるB.コヴァーチの「ファリャへのオマージュ」であった。その中声部のゆたかな響きのコクは、すべてのクラリネット奏者が憧れ、なかなか辿り着けない理想郷である。

最後、マナシーと亀井が共演して、中島のピアノ伴奏により、メンデルスゾーンの「演奏会用小品第1番」を演奏した。第1クラリネットをすぐに第2が追いかける部分があり、ここで亀井の欠点が明らかになったと思う。それは多分、フレージングという要素に関係がある。恐らく、亀井はフレージングをしっかりすることで、楽曲の構築性に忠実でありたいと願っている。しかし、その意識は逆に、一音一音への注意力を甘くしている。マナシーは例えば、長い音を出すときに、最後の一音までこころを込めて演奏している。トレモロのような響きにさえ、彼はそのひとつひとつの音符がなぜそこにあるのかを、丁寧に印象づけていく。ところが、亀井はフレージングという塊をつよく意識するせいで、その経過区の表現が薄くなっているのだ。だから、亀井のクラリネットは、楽曲に込められた、そこここに書かれた音の重みに対して、少しだけ淡白に聴こえるのだ。

しかし、この曲に関しては、マナシーのリードが効いたこともあり、それほど練習する余裕はなかったと思うが、非常に聴きごたえのある出来に仕上がった。その題名どおり、いきなり華やかになる、後半部分の目くるめく色彩感と、きびきびしたリズムの運びが印象的であった。

これから、あと2日間、大いに楽しめそうなイヴェントである。
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