2008/7/13

広上淳一 ショスタコーヴィチ 交響曲第12番 日フィル 東京定期  演奏会

すこし時間をつくることができて、日本フィルの定期を聴くことができた。このオーケストラは実に久しぶりだし、広上の指揮で日フィルを聴くのも初めてだが、このコンビは相性の良い組み合わせのひとつ・・・ということになりそうだ。ただ、それだけに、後述するような弱点が浮き彫りになった部分もあった。

ショスタコーヴィチの交響曲第12番は、全奏における響きのクリアーな清潔さが際立っており、非常にいいトレーニングが出来たことを窺わせる。今回、プログラムの解説上でも強調していた、Es-B-C 音でつくられる隠されたスターリン主題をしっかりと打ち出し、おもねりと抵抗の二重テーマを織り込んだ演奏意図は、十分に達成された。それこそ日比谷公会堂で聴きたくなるような、独特の乾いた響きを選び、いかにもアイロニカルな響きで全体を貫いたのだが、とりわけ、打楽器のドライな響きは作品の雰囲気にピッタリとあって、多くの聴き手に認められたようだ。弦は低音弦を中心に一日を通して好調で、このショスタコーヴィチでも、内省的な弦の輪郭線がくっきりと描かれる中、木管が否応なく内心の苦しさをうたう。金管と打楽器が中心となる社会の背景に染められながら、内側で蠢く人間のエネルギーが、直裁に表現されていた。

広上という至高の知性が指揮台の上にあるだけに、全体で響きをつくる部分のイメージの明快さは、なるほど比類がない。このオケのイメージからすると、今回は実に美しい響きが出ており、強奏でも濁りのない爽やかな響きがするのに加え、音情報の解像度が高く、部分ごとの主要なパートだけで小さくまとまるということがない。ときに、いま書いた2つのことが、今回の演奏を良くも悪くも象徴している。今回の日フィルの演奏は、ほとんど無私といっても過言ではない。強奏部では、思いきってぶつかりあうのではなく、本当にギリギリのところで互いが譲り合っている。各パートが自分のポジションをしっかりと取って、隙のない網目をつくる。そこまではいいのだ。

しかし、この布陣を部隊ごとに洗いなおしてみると、少しずつ頼りないところがあるのだ。もっとも目立ちやすいのは金管であるが、総じてよかった弦や木管においても、ときどき綻びがある。どういう綻びかというと、小さなアンサンブルになったときに、音がずれていたりはしない代わりに、響きに魂が入っていないのである。いかにも、ショスタコといえば、「革命」ぐらいしかやっていませんという音なのだ。アマチュアとはいえ、これがもしもオーケストラ・ダスビダーニャだったら、そんなことはあり得ないだろう。本当に隙がないのは、パーカッションだけだった。金管に関していえば、広上の指示により、わざと明るめに出させている可能性は高い。金管に限らず、広上は演奏がいたずらに重くならないように、なるべく明るめの響きを要求する部分が多かった。だが、それにしても、本気になってショスタコーヴィチのことを勉強していれば、例えば、仲間どうしで弦楽四重奏曲を演奏したりした経験があれば、こういう響きにはならないはずだという部分が、いかにも多すぎた感は否めないのだ。

そのため辛かったのは、第2楽章を中心として、あまり大きくないモティーフが、小規模なアンサンブルで提示されるような部分である。そういった部分で聴き手のこころを離してしまうと、やっぱり凄いとは思わせる厚めの部分が孤立化し、本当に力強い感動には至らないのである。

日フィルは指揮者のつくる音楽のイメージに逆らわず、一生懸命に弾くし、パート間のコミュニケーションも濃密だ。特に、指揮者の指示に反応し、それを具体的な響きに反芻させるときのスムーズさは、どこの楽団にも勝る。そのため、一見して柔軟性が高いかのような印象を受けるのだが、それにも関わらず、どこかでエネルギーを失っているのは、恐らく、個々の奏者が主張を抑え、集団(組織)として、指揮者についていくことにより強い価値観を抱いているせいではなかろうか。

プロコフィエフのヴァイオリン協奏曲第2番は、そのような意味で、やや単調な感じを受けたのである。広上は独奏ヴァイオリンとバックとの関係を極限まで煮詰めて、繊細に響きをデザインしている。そのことがわかるだけに、各クラスタの音色の淡彩さというのが、どうしても気になってくる。よっぽど、これもショスタコ同様、ドライな響きを作品の内側に秘められた風刺性に対応させる、広上の思惑どおりである。ときに、独奏のボリス・ベルキンがまずもって、なんの洒落っ気もない墨絵のようなヴァイオリンを弾くだけに、それはそれで面白いところもあったのだが、全体としては、この作曲家のもつ多彩な表現の切り口を示し得ていないという結論になる。最後、太鼓の響きで低音を束ねておき、独奏と対決させるなどのアイディアは、広上ならではのものだった。

一方、武満の「3つの映画音楽」は、素晴らしい出来だった。広上は日本的なイディオム、いかにも武満的なステロータイプを外し、例えば、すこし長めのパウゼとか、異常に遅いテンポというのを避けて、あくまで西洋(フランス)音楽の発展の上に武満を置くことで、これまでにない等身大の武満のイメージをつくりあげた。「ホゼー・トレス」(訓練と休息の音楽)では、ボクサーのフットワークを思わせる、軽快で気紛れなリズムの処理を、揺るぎないテンポとリズムの動きのなかで表現し、それらを外した休息の場面への鋭い切り替えが、きわめて明快。「黒い雨」(葬送の音楽)ではパウゼに過分な重みをかけず、音楽の流れを切らないことで、「3つの映画音楽」としてまとめられた全体の中間楽章として、相応しいフォルムとなっている。そして、それらのエネルギーは結局、最後の「他人の顔」のワルツに集められ、大胆な(ワルツの)造形がたっぷり遊びのある響きのなかで、深いうねりを刻む。それはまるで、浮世絵の力強いイメージを想起させるものだった。

というわけで、最初の10分あまりがもっとも感銘深く、その後は、全体として質のいい演奏ながらも、常に疑問を持ちながらの鑑賞となってしまった。広上の指揮ぶりの鋭さは相変わらずで、私が密かに「大都会の田舎オケ」と呼んでいる日フィルをこのレヴェルまで導いたのは賞賛に値するとしても、彼らにはまだまだ破らねばならない殻があるように思われる。特にダイナミズムの伸縮は中途半端だが、それは、mp 以下の表現力に安定感がなさすぎることによるのではなかろうか。そのため、管楽器は、ときどきあやしげな音程になるのは目をつぶるとしても、他のオケと比べて明らかに低い要求に止まっている点が多いことは、気にしておいたほうがいいのかもしれない。

【プログラム】 2008年7月12日

1、武満徹 3つの映画音楽
2、プロコフィエフ ヴァイオリン協奏曲第2番
 (vn:ボリス・ベルキン)
3、ショスタコーヴィチ 交響曲第12番「1917年」

 コンサートマスター:扇谷 泰朋

 於:サントリーホール
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