2008/7/6

クァルテット・エクセルシオ @  クラシック・トピックス

今回は、わが国では珍しい常設のクァルテット、クァルテット・エクセルシオを紹介する。私たちファンは、彼らのことを「エク」と呼んでいる。ヴァイオリンの西野ゆか(1st)、山田百子(2nd)、ヴィオラの吉田有紀子、チェロの大友肇の4人から成る。クァルテットは桐朋音大在籍時に創設され、もともとのメンバーには山田が含まれず、いまは都響の奏者となっている遠藤香奈子がいた。といっても、私は、その時代を知るわけではないが・・・。山田百子が2004年から第2ヴァイオリンに迎えられ、現在に至っているが、元来、山田は海外のクァルテットで活躍していた実力者だったそうである。

周知のように、規模の大きいものから評価される、日本のクラシック音楽の土壌においては、室内楽は過小評価されている。コンテンツの濃密さに反して、人気がなく、世界的なクァルテットが来ても、なかなか話題にはならないというのが現状だ。常設のクァルテットなどの室内グループは数えるほどで、オーケストラの首席奏者などが集まったグループを除くと、さらに少ない。古典四重奏団、クァルテット・アルモニコ、そして、エクなどである。ただし、潜在的な需要は強く、それは室内楽からチケットが売れていく「熱狂の日」の現象をみても明らかだ(ホールが小さいせいもあるが)。

私がこのグループを贔屓にするのには、いくつかの理由がある。まずは、何といっても、技巧的な素晴らしさだ。その腕前については、権威あるパオロ・ボルチアーニ・コンクールでの最高位など、輝かしい受賞暦が物語っている。しかも、古典派から現代音楽まで、エクに弾きこなせない楽曲はない。ただ弾けるというだけではなく、その楽曲のもつエネルギーの中心をしっかり見抜いてくる力があり、そこから作曲家の表現したかったものを、直裁に聴き手に伝えることができる表現力がある。これはベートーベンなどの曲目に限ったことではなく、シャリーノをはじめとする現代音楽についても、同じようなことができる。

日本でもっとも評価の高い室内楽グループといえば、歴史的な巌本真理四重奏団を別格とすれば、古典四重奏団がある。しかし、古典四重奏団は名前のとおり、本当にスイートな演奏ができるのは、正しく「古典」においてである。バッハあたりがもっとも合っており、本当は、それ以前のバロックがぴったり来るだろう。ハイドン、モーツァルトまでは良いとしても、ベートーベンに至ると、ちょっとちがう感じがする。このグループは、クァルテットとしての音色の美しさが突出しているのだが、その分、拍節感や構造的な堅固さを曖昧にして演奏する趣向がある。そのことはチェロに象徴的であって、田崎瑞博の演奏するチェロは、良くも悪くも透明なのだ。誤解を避けるために言い直すと、彼のチェロはいつも通奏低音的なのだ。ひとつの声部というよりは、全体のために自分の響きを投げ出そうというような・・・。でも、バロックばかりをやっていても、日本ではまず商売にならない。だからというわけではなかろうが、ベートーベン、バルトーク、ショスタコーヴィチなどに手を広げ、なるほどのパフォーマンスを披露しているが、それは彼らの本当に得意な分野だとは、私には信じがたい。

そういう意味でいうと、エクが本当に得意とするのは、コンテンポラリー、そして、プロコフィエフ、ショスタコーヴィチなどの近代音楽ということになる。だが、現代の書法に精通したクァルテットであれば、ベートーベンを弾くことも苦ではない。もちろん、弾けるだけで、まったく作品のなかに踏み込めないテクニシャンというのも存在するが、エクに関する限り、その弊はない。例えば、彼らの3枚目の録音では、ベートーベンの弦楽四重奏曲第10番「ハープ」が、まったくこの時代に相応しい様式で、いかにもベートーベンらしい、すこし硬めのユーモアを交えながら、テンション高く演奏されている。併録にはシャリーノの10分弱の弦楽四重奏曲も含まれるが、彼らにとって、作曲の様式は明確に分けられていても、その内側に込められた作曲家の熱意は、まったく等価のものとして演奏されているようだ。

私が最初にエクの演奏に接したのは、トリトンのクァルテット・ウェンズデイの「ラボ・エクセルシオ」シリーズ(2005年1月)。そこでは、彼らはグラズノフ、プロコフィエフ、ストラヴィンスキー、ショスタコーヴィチという、これからは二度とないような内容で演奏したが、どの曲も本当に生き生きとしていた。以来、私はエクの活動、そして室内楽そのものに興味を抱くようになった。遠藤のいた時代は知らないし、とても若いファンということになる。

エク凄しと改めて実感したのは、このページでもレポートした、三輪眞弘の弦楽四重奏曲「皇帝」の演奏においてである。ハイドンの「皇帝」がバックボーンにあることもあるが、作品は、「君が代」法制化という社会問題を見つめた問題作でもある。この作品を「問題作」と決めつけることなく、それがコンピュータ・プログラムによって紡ぎだされた、一種の虚構であるということさえ、オクビにも出さない。そして、三輪の作品の中心にある強烈な批判性だけが、美しく、爽やかな響きのなかに、じっとりと聴き手のこころのなかに忍び込んでくる仕掛けになっている。三輪の作品のユニークさはそのままに、頭でっかちの部分をエクが聴き手に伝わりやすいものに翻訳して、演奏してくれたように思った。

先日のボロメーオ・ストリング・クァルテットとの共演では、エクの音楽性の細やかなセンスが浮き彫りになったのではないか。ボロメーオSQのゴージャスな音色、思いきったアタックはさすがだが、細部にこだわったエクの音楽づくりも、聴いていて訴えるものがあった。オーケストラにおいてもそうだが、日本の音楽家は、細かい部分を丁寧に凋琢することにおいては、世界のなかでも、特に優れた資質を示している。金管がすこしコケるにしても、私は、そういう日本的な表現に美しさを感じる。欧米の音楽家は細部の表現を捨てても、ダイナミズムや独自性といったものに価値観を置く。日本の多くの聴き手も、そのことを可としているかのようだ。それはそれとして、日本人の、得がたい表現の細やかさについては、私などは微力であるとは言いながら、とにかく積極的に評価していきたい。

まとめると、エクの技巧性は世界トップ・クラスであり、幅広いレパートリーをこなすだけではなく、様式をしっかりと描き分けながら、独特の共感に満ちた演奏で、その可能性の中心を聴き手に対して直裁に伝える力がある。その繊細な細部の響きは、欧米のクァルテットにはないものである。
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2008/7/1

フェスティバル・カルチエ・デテ @神奈川アートホール 横浜フランス月間 6/29  演奏会

保土ヶ谷の神奈川アートホールで開かれた、フェスティバル・カルチエ・デテ、アンサンブル レ・タン・モデルヌ・リヨンの演奏を聴いてきた。「若き俊才たち」とプレヴュー記事で書いたが、これは勘違いで、中堅以上の脂の乗りきった世代の先生たちが中心だった。ピアノのラチュウミアについては、これからキャリアを伸ばしていく若手という表現は正しい。あと、ハープのベランジェールも若い。

さて、なかなかに刺激のあるコンサートだった。雨のなか、遠いところまで足を伸ばした甲斐はあったというものだ。まず、アンサンブルのレヴェルが、予想どおり高かった。ゲストのラチュウミアも、質の良いピアニストだ。彼はカリブ海のマルティニーク島出身の両親の間に生まれ、フランスで生まれたのだが、音楽的教育をまったく受けていなかったにもかかわらず、8歳のとき、スーパーのトイ・ピアノを弾きこなしたという「神童」的エピソードをもっている。ハイドシェックの弟子。オルレアンの20世紀国際ピアノコンクールでは、圧倒的な優勝を飾り、ラ・ロック・ダンテロンでも演奏し、特別な評価を受けたという。ということは、そのうちに「熱狂の日」に出てくるかもわからない。

まずは、ドビュッシーの「宗教的な踊りと世俗的な踊り」のサーヴィス・プログラムで始まる。中心となるハープは、ソフィー・ベランジェール。彼女はまだ響きが硬い部分もあるが、基本に忠実な弾き手である。ベルナール、フルーリィ(以上、vn)、オヴァッス(va)、デドルイユ=モネ(vc)の音色の美しさが、彼女をしっかり支えて、お国ものの魅力をしっかりと伝える演奏になる。特に、世俗的な踊りの華やかな音色が素晴らしいが、継ぎ目に聴かれるチェロの薄いバックがチャーミングで、その上で、しっとりと奏でられるハープの響きから、明るい響きがカラフルに立ち上がる部分は印象的である。

パスカル・ドゥ・モンテーニュは1960年代に頭角を表したが、長い闘病生活を経たのち、80年代になって作曲活動を再開し、いまに至るという。「サルン第5番」(2003年)は、クラリネット+弦楽4部による、2楽章の室内楽曲。意外とがっしりしたクラリネット中心のアンサンブルで開始するが、やがて、換骨奪胎というか、肉体がどこかへ持ち去られたあとの毛皮・・・とでもいうべき、空虚な響きが中心になる。第2楽章は、議論しあうような弦楽四重奏のユニークな序奏のあと、楽曲が盛り上がりそうになるところで、プツンと切れる。これ1曲でどうこうというよりは、この素材を使って、なにかできないかという内容に思える。なお、弦楽四重奏は前と同じで、クラリネットは、アンサンブルの創立者でもあるジャン=ルイス・ベルジェラール。

つづいては、細川俊夫の「ヴァーディカル・タイム・スタディ T」(1992年)。クラリネット、チェロ、ピアノの三重奏で、ウィレム・ラチュウミアが登場する。作品は能楽における垂直的な時間のあり方にを音楽家しようとした習作であるといい、「東洋の書(カリグラフィ)の線のような形態を持」ち、余白を考慮して書かれた書の空間性をも意識しているそうだ。出来映えは、国内外で高く評価される細川の実力を如実に物語る佳作であり、日本人に独特の余白が多用される一方、その安易さに溺れない構造のどっしりした感覚が生きており、ある意味では折衷的な作品ともいえる。

ラチュウミアのピアノが本来の構想以上に異彩を放っており、力強い打鍵もさることながら、曲想のなかにさっと入り込んでくる如才のない立ち居振る舞いで印象的だった。ベルジェラールのクラリネットには私がなく、デドルイユ・モネのチェロはスピリチュアルで、響きに知性が漲っている。最後、減衰していく響きには東洋的な祈りのこころが、知らず表出しており、演奏はとても素晴らしかったのに、「ブラーヴォ」などと言える雰囲気ではない。息詰まる透明な響きで、この日の白眉だ。

休憩後、芸術監督のミシェル・ラヴィニョルのフルート独奏で、ティエリー・ブロンドーの「盆栽」が演奏された。作品は東洋のいろいろな笛の音をイメージして書かれたシリーズのひとつで、尺八を想定したものであるというが、それは聴けばわかるだろう。知的な観察眼で捉えられた尺八の響きが、フルートで巧く描かれている。だが、ほとんど尺八そのものの響きであるから、フルート作品としては、単独では意味をもたないように思われる(なぜなら、尺八で吹くほうがはるかにいいだろうからだ)。だが、フルートの奏法としては独特なものを含み、ボタンをパタパタ押す音がうまく生かされていたり、息の吹き込み/吸い上げを駆使して、複数の音色を同時に取り出すなど、よく工夫されている。尺八からイメージを得た、そうした素材を示す意味では興味ぶかい。何より、ラヴィニョルの笛がめっぽう巧い。

最後は、マントヴァーニの「遮られるダンス」(2000年)。マントヴァーニは、「熱狂の日」音楽祭から委嘱を受けた3人の作曲家のうちのひとりでもあり、トリオ・ヴァンダラーの演奏で作品に触れた記憶も新しい。この作品も、ピアノが重要な位置を占めており、下手にどんとピアノが陣取り、上手にフルート、クラリネット、弦楽三部が並ぶ。作品は、「ジャズ・コノテーション」「過ぎ去った夢」という近作と三部作のような形になっており、あとの2つの作品の素材を織り込みながら、ジャズ・テクノ・フラメンコなどにイマジネーションを得て書かれたものであるという。

非常に派手な曲想で、ピアノによる「フラッシュバック」は強奏主体であり、ラチュウミアのつくる強靭なフォルムが、それを厭が応にも強調していたため、曲想・演奏ともに、やや粗い印象を受ける。だが、細川の作品にも比される余白が、あくまでヨーロッパ的な意味あいで浮かび上がるなど、単に1曲を楽しむという以上に、全曲の構成のなかで興味ぶかい面が多かった。上手は、弦は黒子に徹するが、時折みせるファルセットの響きや、チェロの渋い音色が、絶妙のアクセントになっている。木管は、フルート類が3種類(アルト、ノーマル、ピッコロ)、クラリネット類が2種類(ノーマルとバス・クラ)の持ち替えで演奏する。楽器法の点でも、細川とは特徴が異なり、細川作品では楽器の苦手な音域(例えば、クラの継ぎ目やチェロのハイ・ポジ)を試すのに対して、マントヴァーニは楽器をかえて、素直にスイートな音域を狙っており、それだけで、楽曲から受ける印象はまるでちがう。

というわけで、この日のコンサートは、ひとつひとつの作品を味わうということ以上に、素材として提供するものがある楽曲の紹介、それを使ってなにができるかというイマジネーションの提供、または、それらの比較という点から、いろいろなものをみせてくれた演奏会という印象が強い。だが、そのような意図が明確になったのは、この日、出演したレ・タン・モデルヌのメンバーの安定感のあるパフォーマンスあればこそであるのかもしれない。私自身は作曲ができるわけではないが、聴き手としても、知的な刺激に満ちた演奏会であったことは変わらない。良質のパフォーマンスに感謝したい。

【プログラム】 2008年6月29日

1、ドビュッシー 宗教的な踊りと世俗的な踊り
2、ドゥ・モンテーニュ サルン第5番
3、細川俊夫 ヴァーティカル・タイム・スタディ T
4、ブロンドー 盆栽
5、マントヴァーニ 遮られるダンス

 於:神奈川アートホール(保土ヶ谷)
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