2008/7/20

ラ・スコーラ & 並河寿美 トスカ 都響スペシャル @サントリーホール 7/20  演奏会

世界的な(?)テノール歌手のヴィンチェンツォ・ラ・スコーラを迎えての豪華企画、都響スペシャルがサントリーホールで開催された。内容は、この日の指揮者も務めたマルコ・ボエーミの特別エディションによる、プッチーニの歌劇「トスカ」の抜粋上演であり、ラ・スコーラのカヴァラドッシのほか、題名役は並河寿美、スカルピアに直野資、ほかという布陣である。ステージ後方のせり上がりを舞台として使ったセミ・ステージ形式で、演出担当は菊池裕美子だが、さほど演出的な要素はなかった。なお、各幕の最初にはアナウンサーの朝岡聡が現れ、あらすじを述べる形で進んだ。

ボエーミの編曲は当を得たもので、「妙なる調和」「歌に生き、恋に生き」「星は光りぬ」といった有名なアリアを織り込みつつ、2時間強にうまくまとめているが、痛すぎる「トスカ」の醍醐味にして本質的な部分となる、カヴァラドッシやトスカがスカルピアに肉体的、精神的に痛めつけられる部分は、ほとんどカットされている。

さて、歌手陣は肝心のラ・スコーラが、本来の調子を発揮できなかった印象で、まずは残念というべきか。あるいは、もともとがこの程度の歌い手ということなのかもしれないが、高音が全然伸びないし、スピントが効いていないように思われた。それをごまかすテクニックはいろいろ持っていて、本場のオペラ歌手の「処世術」を拝むことはできたものの、感心しない。中音域での魅力的な表現があるだけに、この日は不調だったとしておこう。直野のスカルピアは、いちばんスカルピアらしい場面がカットされているだけに評価しにくいが、ただただマッチョな声で歌われるスカルピアの一般的なイメージからすると、かなり繊細な感情を表現しようとしているかのようだ。技能賞。

トスカの並河は、素晴らしかった。男声陣がオーケストラのマスクを抜けてくるのに苦労している中で、ひとり、張りのある歌声を客席に届けることができた。声がでかいという感じはしないが、しっかり届いてくるのだ。「歌に生き、恋に生き」のソット・ヴォーチェも見事。彼女の歌うトスカは我がままな大女優ではなく、カヴァラドッシに自分だけを見てほしいと願う一途な女にすぎない。大女優としての風格は残しながらも、ちょっと口説いてみたくなる可愛げがあるのだ。声は清らかだが、スピント系の張りがあった。欲をいえば、このトスカは、いまの並河だけが表現できるトスカではないということ。いつかどこかで、聴いたことのあるトスカなのである。それは彼女がよく勉強していることの証拠だが、折角、この年でトスカを歌えるのだから、40代、50代の女ざかりのトスカではなく、生意気な2、30代のトスカでもいいと思うのだ。

まあ、完全上演でもないこのような場で、そうした要求は無理であるかもしれないが。

ボエーミの指揮は悪くないが、否、あれでピットに入っていれば素晴らしいというべきなのだろうが、舞台の上にオケが乗っかっての演奏では、やや配慮を欠いたということになるのかもしれない。しかしながら、オペラをよく知った指揮ぶりで、その道ではほとんど経験のない都響をよく導いて、プッチーニらしい響きを引き出したとは言える。「トスカ」はプッチーニの作品のなかでは異色な、晦渋さ、重厚さがあり、甘さよりも、厳しさが印象に残る作品だ。その意味で、トスカがスカルピアを刺殺したあとの告発するような音楽の響き、また、第3幕の間奏曲における寂莫とした音楽の響き、第1幕で枢機卿が現れる場面の鐘の音と第3幕で教会の鐘が刻限を打つときの響きの対比など、非常に印象ぶかいものが多かった。

これとも関連するが、第1幕で東京オペラシンガーズと東京少年少女合唱隊をバックに、スカルピアが悪企みを歌う部分(テ・デウム)は印象的である。第2幕はトスカのアリアを中心に、彼女が決心を固める場面の表情が秀逸。ここでスカルピアの側に目を向けると、どこか無邪気な子どものような部分もあり、第1幕の場面と比べると、トスカ以上に一途な面もみえるように思われた。第3幕は、「星が光りぬ」が不発だったこともあり、トスカのひとり舞台という印象。一刻も早く苦しみの時間から逃れたい彼女のモノローグ、そして、起き上がらないカヴァラドッシに気づき、自分のいのちで償うといって自殺を図る場面が、なんといっても凄い。ライティングを使って、並河が本当に飛び降りたようにシルエットが消える部分は、単純な仕掛けだが効果的で、それとわかっているのにハッとする。銃殺が行われる前後の部分で、ぐっと明るめの響きを押し出したボエーミの指揮は印象に残る。

都響の演奏はやはり、ボエーミの容赦ない要求もあって、全体的には音楽の繊細さよりも、大胆さ、ドラマティックさに重点が置かれている。木管、弦がいいが、僅かにポエジーが足りない。そのなかでは指揮者も褒めていたが、チェロの表現力の深さが耳を弾いた。金管は足を引っ張るのみ。パーカスは好調。オケ全体は熱演であるが、管弦楽曲としてならよいけれど、オペラとしては大味な感じもする。やはり、やり慣れていないことは簡単ではないのだ。なお、コンマスは矢部達哉が務めていた。

面白かったかそうでないかと問われれば、面白かったといえるだろう。意外にも、楽天的なテノールのアナウンスが特徴的な朝岡は、思いきって声を殺し、雰囲気を壊さずにナビゲ−トを務めたので、なかなか良かった。この人は、オペラをどれだけ深く理解できているかはわからないとしても、我々と同じように、純粋にオペラを愛していることは間違いがないようだ。公演としては成功といってよいと思うが、ラ・スコーラを実質的な主役に立てての上演としてみれば、かなり物足りないものがあったのも事実だ。というか、この人を主役に立てるのが間違っているのかもしれない。まして、「ポスト・3大テノール」などとはおこがましい。今回は、並河の頑張りに感謝というところだろう。


 公演日 2008年7月20日
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2008/7/19

ゲルト・アルブレヒト 「グレート」交響曲 読響 芸劇マチネ 7/19  演奏会

【4曲は見えない絆で繋がっている】

読売日本交響楽団(読響)にとっては前の首席指揮者にして、桂冠指揮者となったゲルト・アルブレヒトが、2年に1回のペースで・・・という約束どおり、読響の指揮台に戻ってきてくれた。この形容がいやに似合うが、相変わらず「矍鑠(カクシャク)としている」アルブレヒトが振るのは2プログラム=4曲と少なめだが、その分、完成度の高さは圧倒的だった。また、ヴァレーズ「アメリカ」、ドヴォルザーク「新世界より」、シューベルトの「ロザムンデ」と「グレート」交響曲という4つの曲目は、一見、何の関わりもなさそうに見えたのに、実際に聴いてみると(といってもシューベルトの方だけ)、どうも見えない絆が存在するようにも思えた。

まず、ヴァレーズの曲自体は存じ上げないが、プログラムによると、「アメリカ」というタイトルは単に地名をさすのではなく、「発見を象徴するもの」「地上の、空の、人のこころの中にある新世界」だと作曲者が述べたのだとある。この考え方が、当日後半のドヴォルザークの交響曲に通じるのは論を待たないが、転じて、この日の演奏を聴いたあとでは、いかにもドイツ人らしい、少しでも新しいものを付け加えんとする(もしくは、発見しようとする)アルブレヒトの姿勢を踏まえて考えたとき、他日のシューベルト演奏をも貫くキーワードだったように思えてくるのだ。もうひとつ、2プログラム目で演奏されたシューベルトの作品はいずれも、どことなく「新世界より」を連想させる要素があることに、多くの注意ぶかい聴き手は気づいたに違いない。私は途中で、14日の定期を聴き逃したことを後悔したぐらいだ。例えば、リズムの処理とか、楽器法、舞踏との関係性、内面の表現に至るまで、かなり2人の作品は接近しているように思われる。

時代的にいえば、ドヴォルザークが、シューベルトの作品を相当に勉強したのは間違いないだろう。そして、19日のメインはシューベルトの交響曲第8番「グレート」で、これはアルブレヒトの解釈(演奏)を信じるならば、ほとんどベートーベン大学の博士論文ともいうべきものであった。ベートーベンの交響曲に似たエレメントを敢えて使い、それを自由自在に使いこなせるようになったことをはっきり示すと同時に、ちゃんと新しいものを付け加えてもいる。ここで、ヴァレーズのメッセージが生きてくるのに気づくだろう。アルブレヒトは2つのプログラムを通して、ドヴォルザーク→シューベルト→ベートーベンという音楽史の流れを遡ると同時に、ベクトルを反対に使って、これらの作曲家たちがいかなる「発見」を、クラシック音楽の殿堂に与えてきたかを俯瞰しているのである。

【狭いレンジでのグラデーション】

前置きが長くなったが、19日の演奏について詳しく述べていこう。まず、劇付随音楽「キプロスの女王 ロザムンデ」は、間奏曲第1番(第1幕のあと)/同第2番(第3幕のあと)/バレエ音楽 アレグロ・モルト−アンダンテ・ウン・ポコ・アッサイ/同 アンダンティーノという管弦楽曲のみを抜粋で演奏した。最初の間奏曲の冒頭部分、ティンパニーの響きを浮き立たせることでリズムが引き立ち、たったそれだけのことだが、面白いように楽曲に新鮮味が表れ、のっけから唸らされる演奏だった。

この日のプログラムからすると、舞曲のリズムが勝負になると見ていたが、それは半ばしか当たっていない。アルブレヒトの音楽のデザインは、リズムが重要な楽曲であることを前提にしながらも、決して、それに踊らされないために、なにが必要であるかを教えるものであった。これはあとのシンフォニーを聴くにあたっても参考になったが、要するに、リズムというのはあくまで弾くほうが利用するものであって、あたかもそれに踊らされるように、自然とフォルムが決まってしまうわけではないということだ。アルブレヒトと読響の奏者たちは、この指揮者だけが知っている独特の息づかいを完璧に理解した上で、しっかりしたフォルムを決めて、そこにリズムという魂を吹き込んでいった。スピードが必要なときにだけアクセルを踏み込むように、自分たちが必要なときにだけ、リズムの作用が動かせるようにコントロールをかけた。もちろん、そのことで、楽曲が本来もっているはずの、舞踊性ゆたかな生命感が失われることはない。

このような演奏の特徴もあり、細かいダイナミズムのデザインの妙で聴かせた間奏曲第1番やバレエ音楽のアレグロ・モルトの部分と比べると、その振り幅が小さいナンバーのほうが、むしろ面白い演奏になっている。まず、弦のソット・ヴォーチェの美しさは比類もないことに加えて、そこからp、mp までの短い幅を生かしきり、丹念に織り込まれる響きのグラデーションが見事なのだ。とりわけ素晴らしいのが、最後のアンダンティーノのバレエ音楽であり、さほど広くないダイナミズムをさり気なく使いつつ、第2ヴァイオリンやヴィオラの弦の内声部にこの上もない生命感をもたせることで、全体の響きは陽光燦々と浴びた植物のような活きのよさをもった。

過日の「熱狂の日」でも全曲を聴いているし、KSTでも3つの間奏曲を聴いたわけで、ここのところ、この曲には縁が深い。そのなかでも、やはりドイツの中小劇場で叩き上げられた、アルブレヒトの「強烈な個性」は目立った。この括弧の部分の表現には驚かれる方があるかもしれないが、私は敢えて、そのように言いたい。

【グレート交響曲で、ベートーベンを乗り越えた】

さて、シンフォニーの方も、やはり強烈な個性に満ちた演奏である。シューベルトの最後のシンフォニーが、これほど面白い楽曲であるとは知らなかった。既に述べたように、アルブレヒトは、シューベルのこのシンフォニーの中に、ベートーベンの主要な交響曲のエレメントが、ふんだんに取り込まれていることを教えたかったように思う。特に、終楽章には驚きが待っていた。ここに第九の「歓喜の歌」のテーマに似た素材が現れることは誰でもわかるが、それと同時に、交響曲第7番の圧倒的なリズムの奔流にシューベルトが挑戦していることに、私はこれまで不覚ながら気づいていなかったのだ。

アルブレヒトは平均的なテンポよりも幾分はやめに、この楽章をスタートさせた。いかにも彼らしいキビキビした音楽の運びで、「歓喜の歌」のテーマに似た素材が現れるまで、リズムを力強く彫りこみ、ベートーベンの第7交響曲、終楽章の初めの部分を想起させる動きが印象づけられる。第九の素材は、その祝祭的な響きを利用して大きな感動のうねりを築くだけでなく、その内的な特徴がいつしか7番の奔放なリズムと躍動感に溶け出していくようになっている。つまり、ここでシューベルトは、第九の重要な素材を思いきって解体することで、どう頑張っても逆転することができないように思われる、第7交響曲のエネルギーに対抗していくのである。

ここで重要なのは、ここはもっと美しく、ふくよかに聴かせられるのではないかという誘惑に負けることなく、魔王から逃れんとするあの父子の馬車さながらに、あくまでもイン・テンポで突っ切っていくことだ。そのなかでフレーズをしっかりと歌いきりながら、楽曲のもつ瑞々しい表情を印象づけていくことは簡単ではない。ただ、それがこの日の彼らにはできていた。オーボエなど木管が吹く美しいメロディや、節々の弱奏部分を使ってソフィケートしながらも、絶対に手綱は緩めない。終始、フォルムのしっかりした演奏だが、それにも関わらず、形式の堅苦しさがまったく感じられない。いちばん最後、長閑な流れから低音がいきなり挿入される部分の、響きの重みがきわめて印象的であるとともに、それを土台に使った響きの立ち方は既にベートーベンを乗り越えたことの、力強い宣言である。

【第2楽章に凝縮されたシューベルトの苦しみ】

しかしながら、白眉は第2楽章であったろう。ABABAの形式であるが、今回の演奏では、ABAから2番目のB部に入ろうとする部分に頂点が来ており、ここで(意図的に)楽曲の構造がメルト・ダウンしてしまうような表情を厳しく印象づけていた。ここにはシューベルトが作品を組むときの苦しさが凝結しているようにも見え、危うく未完成になりかけたのではないかと想像したりした。あるいは、ベートーベンの「田園」の嵐の部分を想起させる面もある。そこからおずおずと音符を並べていくうちに、B部が天からの救いのように降りてくる部分の印象も鮮烈だった。

繰り返しは少しずつバランスを変えており、かなり明確にイメージが変わるデザインが選ばれている。この日は内側を固める木管のトライアングル(ob、cl、fl)に、ホルン、ファゴットなどが加わった陣容がとりわけ好調だったが、ここで大事なテーマを吹いた栞田のオーボエなどは特に伸びやかで、膨らみがあった。

【そのほかの楽章】

第1楽章は、ホルンが適度に抑えた響きで、冒頭の有名なメロディを見事に吹きあげたあと、そこから弦が出るときの切れ味が際立っており、全体への期待を抱かせる。アンダンテの序奏部分は通常、やや退屈な印象も与えるのに、アルブレヒトの演奏はバランスの精妙なコントロール、鋭利で清新なフレージング、修飾音の巧みな浮き沈みを印象づけ、主部の導入までしっかりと楽曲を牽引したところまで、特筆に価する。スケルッツォ楽章は笛の音の軽妙さを中心に、遠近法を使い分けた太鼓の響きなどが印象的に使われて、舞踊的な浮揚感のある全体の響きが強調されると、歌い踊って祝われるカーニヴァルのような雰囲気になった。トリオでは、細かいタンギングによる木管のトレモロの粘りづよさが印象に残る。また、低音弦の自由な歌いくちは、若干、ジャズ風の響きにも聴こえた。

結局、このあたりの徹底したイメージの明確化が際立った演奏であったということになる。相変わらず、こうした確信に満ちたフォルムへの意思は、アルブレヒトの場合、きわめて堅固である。

【音楽家たちにとってのシューベルト】

それにしても、「熱狂の日」を含めてシューベルトの曲目をふんだんに聴いてきたが、音楽たちへのシューベルトに対する愛着というのは、それぞれに特別のものがあるらしい。例えば、エンゲラーにしても、ケフェレック、フィリップ・カサール、フランク・ブラレイ、ペネティエ、吉田浩之、マンメルとレ・シエクルのメンバーたち、それに、ライナー・ホーネック。加えてこの日のアルブレヒト。いずれも、シューベルトとなると目の色が変わり、急に子どものときに戻ったように、はじめて出会ったような新鮮さ、真面目さで、楽曲に向かいあっているのがわかる。

この日の演奏も、演奏的には「グレート」が抜群の出来であったが、「ロザムンデ」のほうに対しても深い愛着が感じられ、オーケストラの響きからは、(アルブレヒトならばいつものことながら)しっかり温められた構想が聴き手にひしひしと伝わってきたものである。アルブレヒトはよほどこの曲に自信があるようだし、格別に愛してもいるのだろうと、はっきりとわかる内容だった。そんなこんなもあって、最近の読響のコンサートの中では、やはり出色の出来となった演奏会である。


【プログラム】 2008年7月19日

1、シューベルト 劇付随音楽「キプロスの女王 ロザムンデ」より
2、シューベルト 交響曲第8番「グレート」

 コンサートマスター:藤原 浜雄

 於:東京芸術劇場
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