2008/5/18

スダーン シューベルト 1番&4番 東響 サントリー定期 5/17  演奏会

【今年のスダーンは、シューベルトの4−5年だけに焦点化】

東京交響楽団は今シーズン、交響曲全曲演奏(昨シーズン演奏済の第8番を除く)を中心として、すべての定演にシューベルトの曲目を入れるという方針を掲げ、実行している。特に、音楽監督のスダーンは1年を通して、ほとんどシューベルト1本に絞った活動内容となっており、このような例は珍しいのではなかろうか。しかも、シューベルトの交響曲の作曲年は、1番の1813年から、6番の1817−18年まで短いスパンにすぎず、1年間を通じて、1人の作曲家の、僅か4−5年の成果だけしか扱わないというのは、かなり難しいことであるといえる。

だが、それだけに、スダーンは気合いが入っているようだ。既に先月、大友が「レンダリング」を取り上げているが、スダーンのシリーズは、これが初回。その第1回目は、スダーンがこのプロジェクトに賭ける、只ならぬ想いを否が応にも感じさせる機会となった。

【プロコフィエフは独特のイメージ】

まず、真ん中に置かれた協奏曲から触れる。曲目は、プロコフィエフのピアノ協奏曲第3番。シューベルトとは何の関係もなく、明らかに客寄せパンダの役割だ。それゆえ、ピアノ鑑賞に向いた席はとっておらず(ステージ横のバルコニー席)、評価は難しい。独奏のリーリャ・ジルベルシュテインは、硬質な、金属的な響きのピアノを弾く。かなりのテクがあり、打鍵にもごまかしがない。多分、オケにマスクされず、遠くの席でも、彼女の鍵盤の音がしっかり聴き取れたはずだ。オケは序盤、シューベルトからの切り替えが難しそうだったが、尻上がりに調子を上げ、ピアノに対応した力強いヴィルトゥオージティで、演奏を盛り上げた。

スダーンは、ピアニストのステンドグラスのような硬い音色を踏まえて、オケ側も硬質な響きで貫き、無機質で、しばしばアイロニカル、もしくはドライともいえる、独特のデザインを施した。プロコフィエフの時代まで来れば、あと一歩というところだが、現代音楽的なイメージということもできようか。例えば、第2楽章のピアノとチェロのかけあいは、譬えるならば、「マタイ受難曲」のイエス(ピアノ)とユダヤ人たち(チェロ)の問答のようであり、颯爽としたピアノの緒言に、チェロの低音が無機質に懐疑の反応をする・・・という具合だ。第1楽章のおわりの凄いテンポも圧巻だし、終楽章のコーダの圧倒的な切れ味なども特筆に価する。

スダーンの音楽づくりでは、ところによっては巧く弾くことを求めないで、むしろ、ぶっきらぼうな響きをつくることで、冷笑的な響きをつくっていたのが興味ぶかい。

【交響曲総論〜第1番】

さて、シューベルトである。私は、シューベルトの交響曲については、あまり詳しくなく、1番はこれが初めてとなる。なるほど、後世の人間からみても感心するような、すっきりした書法ではなさそうだ。シューマンと同じく厚ぼったい感じで、船頭が悪ければ、まるで波に乗れなそうな楽曲であるといえる。しかし、スダーンの手にかかれば、不思議とすっきり整理された響きに聴こえ、書法の問題も感じられない。そこへ来て、歌曲王・シューベルトのカンタービレは、さすがに強烈だ。シンフォニーともなると、その揺るぎない構造の堅固さもあって、もはや歌曲の旋律線のもつ揺らぎはみられず、しっかりと響きが立っている。

1番はモーツァルトの影響が濃厚といわれるが、この時点で、既にかなりはみ出しているようで、早くも「らしさ」が出ている。トランペットで外壁を塗り固めてあり、バロックのような響きでもあるが、肉体はもはや、バロックの枠を越えて成長しており、ベートーベンに接近している。マルティが、その大事なトランペットの響きを支えている。これに、ホルンを加えた金管の巧さが目立った。これに花を添えるのは、ティンパニーの丁寧な縁取りだ。高木コンマスの率いる弦のベースは、もちろん安定感があり、スダーンの指揮に応えて、キビキビと反応する。フルートの相澤のキレのある響きもさすが。

【交響曲第4番】

4番は、プログラムの解説にもあるように、父親と決定的な決裂があり、ショーバー家などに寄宿しながら、音楽家として「さすらい」を始める時期に当たる。この作品は、ゲーテの「ヴェルテル」を読むのに相当する、シューベルトの青春の悩みを感じさせる。1番と比べると、より内省的なものが表出されており、第1楽章の木管の響きなどは、その象徴である。この楽章は1番と同様、金管の豪華な響きと、弦の情熱的なサウンドに彩られているが、自分の本当のこころを知ってほしいと訴えかけるような、木管の響きが通りやすいように工夫されている。

アンダンテは、前楽章のエネルギッシュな響きとは対照的に、内省的に、じっくり構築されていく響きが印象的で、東響の粘り強いアンサンブルが光る。第3楽章はスケルッツォのような諧謔の感じられる響き。鬱憤を叩きつけるようでもありながら、上品なステップにも満ちた風変わりな舞曲。そして、壮大なアレグロのフィナーレは、千切れそうな想いを、ファゴットや弦が薄皮一枚で支えるという、アクロバティックな書法がスリリングだ。特に、この楽章でのファゴットの使い方には痺れるものがあるが、そこを福井蔵が控えめな表現ながらも、しっかりとカヴァーしていたのが印象に残る。

終盤は、弦に細かいリズムが刻まれるなど、難所があるが、スダーンは自ら歌ってオーケストラを鼓舞し、手綱をとって馬を駆けさせる仕種をするなど、工夫もみせながら、圧倒的な統率力をみせていた。これに応える東響のパフォーマンスは鬼気迫るもので、このシンフォニーを書くために、シューベルトが必死になって筆をとっていたことを想像させる。それにもかかわらず、響きのコントロールが失われることはなく、全体の響きはしっかりと統制がとれているようだった。渾身のパフォーマンスながら、細工は隆々というわけである。

D959のピアノ・ソナタのように、短いフレーズが切断されながら繰り返される場面や、序奏への回帰(ダ・カーポ)など、シューベルトらしいイディオムも、丁寧に折りこまれていて、それぞれに印象的だ。シューベルトには、このような必殺技がある。

【むすび】

終演後は、プロコフィエフのような有名曲ではないものの、高木コンマスが深くお辞儀をして団員が解散するまで、まったく弱まらない拍手がつづき、スダーンの演奏が聴衆のつよい支持を得たことを窺わせる。いや、プロコフィエフのあれだけ派手な曲を演奏して、全然負けていないというのは驚きだ。この日は2F後方などに1−2割の空席があり、やはり商業的な厳しさは拭えないが、この勢いならば、東響&スダーンのチャレンジが愛好家らの耳目を集めることになるのは請けあいだし、客席も徐々に埋まっていくにちがいない。さて、東響に静かな革命をもたらしつつある才人、高木コンマスのブログによれば、スダーンはやはり、このプロジェクトに相当の情熱を注いでいるようだ。当初はモーツァルトの巨匠として知られたスダーンだが、こんなスペシャリティを持っているとは知らなかった。

今後、9月と11月に、それぞれ5/6、2/3と2曲ずつ、初期の交響曲を制覇していき、来年3月に「未完成」+「ロザムンデ」でフィナーレとなる。「未完成」以外は、サントリーと川崎の両方で取り上げるので、是非、どちらか一方は聴いておきたいものである。東響に、歴史を刻むシリーズとなりそうな予感!

【プログラム】 2008年5月17日

1、シューベルト 交響曲第1番
2、プロコフィエフ ピアノ協奏曲第3番
 (pf:リーリャ・ジルベルシュテイン)
3、シューベルト 交響曲第4番

 コンサートマスター:高木 和弘

 於:サントリーホール
0



teacup.ブログ “AutoPage”
AutoPage最新お知らせ