2008/5/10

新国 軍人たち 千秋楽 5/10  演奏会

新国立劇場が、ベルント・アロイス・ツィンマーマンの作品「軍人たち」(もしくは『兵士たち』)を上演した。演出付の舞台上演としては、日本初演となる。この上演は若杉監督の肝煎りで実現され、正しく総力戦の様相を呈した。プロダクション自体は、1995年のザクセン州立劇場の初演で、ネザーランド・オペラなどでも上演されたものをインポートしての再演となる。10年以上も前のプロダクションなので、ところどころ古めかしくなっている。演出は、ヴィリー・デッカー。再演演出は、マイシェ・バルバラ・フンメル。

【象徴的な序幕】

作品は、きわめて不穏で、落ち着かない金管と打楽器主体の前奏曲に始まる。第1音から響きは荒々しく、びっくりさせられる。幕が開くと、暗鬱なモノクロームの舞台が広がる。狭い空間で、ゼブラに染まっている。人々は白い衣裳に、肩ぐちから首まわりまで黒い布を被って、いかにも薄気味わるいし、何も動かないのがかえって異様だ。前奏曲のなかほどから、ようやく微妙に動き出す。おわりまでには、マリーと思われる女性が舞台上手の手前側に弾き出され、ほかの人たちは下手から消えていく。最後は女ひとりが残されて、幕が下りる。

【マリーは現代人の無知を象徴する】

第1幕は、喜劇的な姉妹のやりとり。姉(シャルロッテ)はト書きでは縫い物をしているはずだが、ここでは本を読んでいる。恋人に宛てて手紙を書くマリーは、単語のスペルなど、子どもじみた質問で姉を閉口させる。ここで描かれるマリーは無邪気で奔放、近頃いうところの「KY」だが、あまりにも考えが幼いため、どこか憎めない感じがある。敬語の表現をたしなめられたマリーが、「お父さまだって、いつもこう書かれているわ」などと居直る場面は、なんともアイロニカルだ。

結局のところ、こうしたマリーのある種の無邪気さが、この作品を読み解くための鍵なのだ。あとで、デポルト男爵が訪ねてきたとき、それを追い払おうとする父親(ヴェーゼナー)は、世間知らずの娘のことを心配して、厳しい態度をとる。マリーは、もはや自分は子どもではないのだと主張する。普通の恋愛ものならば、こうした父親の態度は批判され、愛しあう者どうしの恋の気高さが賞揚されるだろう。頑固な大人に負けず、マリーよ、恋に生きよという感じで、我々はみる。だが、この作品ではどちらかというと、父親のいっていることに理があるのだ。

しかし、父親も間違いを犯す。第5場の「夜想曲T」において、父親は、うまくいけば娘が貴族の内儀になれるという色気を出し、デポルトとの関係を肯定的に捉えなおす。そして、これこそが大きな間違いだが、それと同時に、シュトルツィウスとの関係をキープするように、娘に教えるのだ。最後、今頃は娘もどこかで物乞いをしているかもしれないと同情して、娼婦に慰めをかけて、それが自分の娘であると気づかないという、最大の悲劇、あるいは、喜劇は、こうして用意されることになる。父娘のやりとりが終わると、いったん幕が下りて、スピーカーからは、軍楽隊の発する響き、砲声や爆音、兵士たちの交信や軍隊の行進の靴音・・・が、ひっきりなしに流れてくる。ここでト書きではスクリーン映像が想定されているようだが、この演出では、その部分を聴き手の想像力に委ねている。蓋し、ここへきて、作者の言いたかったことが、はっきりと見えてくる。それは、現代人の無知についてである。

マリーは、この作品がつくられた時代の現代人のことを指す。彼女は自分がどうすべきかもわからないくせに、自分はもう立派な大人であると思い込んで、愚かな相手を信じてしまうような過ちに気づかない。父親のいうことにも聞く耳をもたず、こころある大人の勧めにも従わない。それは大人だって、間違いは犯す。だが、結局のところ、マリーが思うような道をやみくもに歩いたところで、父親が懸念するようにしかならない。道を踏み外した娘に、父親は気づかない。去っていくしかない。そして、その先に起こるであろう、究極の悲劇こそは、戦争である。

【錯綜した虚と実】

なぜ人々は貶しあい、他人を笑いものにすることでしか生きられないのか。アイゼンハルト牧師とビルツェル大尉の哲学的なやりとりで、2人が意気投合する部分がある。神の被造物である人間を自らすすんで侮辱しなければ、人間の完全性は損なわれないとする考えだ。軍人たちも嘲笑する、この考えが、意外と的を射ているとは思わないだろうか。結局、この作品では、そういう風にしてメッセージが運ばれる。もっともらしく語られることは、すべてまやかしで、道化のやりとりのような、常軌を逸した言葉のなかにこそ真実がある。

例えば、マリーがシュトルツィウスの冷たい手紙に打ちひしがれている場面で、しかつめらしくシュトルツィウスとの関係を訴えるマリーは、明らかに虚像だ。彼女はみるみるうちに、デポルトの腕のなかに抱かれていくのだから。時間を経ず、2人が送ったと思われる不実な手紙は、シュトルツィウスを悲劇の(ということは、要するに喜劇的な)、復讐へと彼を駆り立てることになる。それらを包み込むように、マリーの祖母が古い旋律をうたう。古今東西のオペラの中でも、稀にみる名場面だ。ここでは虚と実が入れ交じって、なにを信じていいものか、わからない。ときに、こうした特徴は、ツィンマーマンの音楽そのものを語るときにも、重要なポイントを成している。

【オーケストラと主役・ルキアネツ】

上のような構造を解像度よく伝えたというだけでも、今回の上演は、非常にレヴェルの高いものだったと言えそうだ。まず、若杉弘率いる東京フィルは、サントリー音楽財団のサマー・フェスでは、いつも見せているような質の高いパフォーマンスで、全体を支えた。今回、荒井コンマスが珍しくピット入りしたせいもあるのか、見事なパフォーマンスだ。心配だった金管を含めて、ほとんど隙がなかった。これに加え、主役のマリーを歌うヴィクトリア・ルキアネツの安定した歌唱が、舞台を引き締めることになった。

【父親と姉の重要性・・・鹿野由之、山下牧子】

だが、私がもっとも感心したのは、父親・ヴェーゼナーを演じた鹿野由之。デポルトを追い払いながら、娘を厳しく諭す場面での、内面から滲み出る優しさと、一方で、娘にまったく理解されていない寂しさが、ほんの短い歌唱のなかに、きれいに流れ出ているのがわかる。最後の岸辺のシーン(註:本来は岸辺のようです)でも、一瞬、娘のことを思い返す場面での、ほんの僅かな歌唱が、実に印象的な温かみをもっていた。その温かみがあるからこそ、父親に気づかれずに置き去られるマリーの哀しさが、深く突き刺さるのである。

また、山下牧子演ずるところの姉、シャルロッテも、この劇にとって重要であることを示した。第1幕の場面でもわかるように、彼女はマリーと対になって、いろいろな場面で描かれている。姉は妹のことをたしなめているようでありながら、こころのどこかで嫉妬しているのかもしれない。だが、彼女の弱さを誰よりもよく知っているので、少し態度を荒げるような場面があっても、致命的に突き放したりはしない。ラ・ロッシュ伯爵夫人との場面でも、しきりに妹のことを守ろうとしているかのようだ。結局のところ、こうした姉の優しさも、マリーの悲劇(つまりは喜劇)に繋がっているとすれば、想いは複雑になる。可愛がられた娘、マリーの無防備さこそ、この劇の中心である。山下はリートも歌えるアルトで、発声も発音もしっかりしているし、こうした難しい多面性のある役どころを、きれいに演じてくれたと思う。

【演出について】

演出はわかりづらい面もあり、すこしばかり古臭くなった気もするが、適当に無駄なものを簡素化して、ドラマの本質を衝いたものであるので使いやすい。4幕は、すこしカットされているのか、第3幕の最後で伯爵夫人がマリーを召使いに誘う場面から、デポルトが猟番にマリーをやらせてしまう経緯を喋る部分、シュトルツィウスによるデポルト毒殺と自害、父娘の再会と別れ、フィナーレと串刺しになっている。作曲者が考えたスクリーンをつかった複数場面の同時進行は廃され、いったん一元化されているが、これは少し話が飛ぶという欠点こそあるものの、発想としては悪くない。4幕冒頭のプレルーディオ(前奏曲)をシャルロッテの夢の場面として扱い、これまでの場面がプレイックされて、マリーの身の上に折り重なっていくのは面白い演出だった。

【総力戦は成功裡におわる】

劇場としての総力戦、よく闘いきったものだ。このあと当分は、新国の公演で興味を惹くものはないが、裏方を含めて、劇場全体としては実力をつけていることがわかった。あとは、それを使いきるだけのエネルギーを、どのように導いていくかという問題である。今回、外国人をあまり使わず、国内で集められる歌手陣を多用して、アンサンブルをじっくり育て上げていったのも成功の要因である。これまでの新国の上演をみるとき、ひとつのブレイクスルーとなる可能性のある上演だ。これがスタンダードな演目で通用するかどうかはわからないが、試してみる価値はあるのではないか。実に、見応えのあるプロダクションだった。再演を望む!
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