2008/5/6

ラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポン 第4日 5/5  演奏会

いよいよ、音楽祭も残すところ2日となった。今年はあまり天候に恵まれないが、この日はわりあいに安定しており、正確なところはわからないが、ここまでの期間中、人出は最高潮を迎えたといえるのではなかろうか。

【421】 ドマルケット vc. & エンゲラー pf. アルペッジョーネ・ソナタ

前の晩の〈夜の讃歌〉の記憶も冷めないうちに、ブリジット・エンゲラーは翌朝、アンリ・ドマルケットと組んで、アルペッジョーネ・ソナタを演奏する公演を迎えた。一方、ドマルケットはマスタークラスなども抱えてフル回転だが、2人とも元気だった。このコンビでは小品集の録音もあって、昨年、エンゲラーが予定どおり来日すれば、それを披露することになっていたものである。

今回の、アルペッジョーネ・ソナタも見事。まずは、ドマルケットの安定した技巧が見ものである。地声とファルセットの境目の、いちばん難しい部分の響きをどのように弾きこなすかで、演奏の半分ぐらいは印象が決まってくるものだが、ドマルケットの場合、そこに止まる演奏ではなかった。楽器の性能を極限まで引き出したうえで、エンゲラーがピアノ・パートで奏でる優美な歌を追っかけていく。面白いのは、第3楽章のロンド主題の扱いで、通常ならば、主題が巡って来るたびに様々な表情づけを試みるところだが、彼らは敢えて、それをしなかったことだ。気をつけないと平板な演奏と勘違いしてしまうが、実際は、彼らが磨き上げた表現が少しずつずらしながら、これでもかと積み重なっていくので、思いがけない効果を生むのだ。

なんともエレガントな演奏で、両端楽章のしまいの部分などは、通常、「これでおしまい!」という感じで、これみよがしなアクションになるのだが、彼らはあくまで自然に弾きおわって、説明的な終止のアクションを排している。これに限らず、隅から隅まで磨きぬかれた解釈の隙のなさには、舌を巻くほかない。特にほかの演奏と比べて印象的なのは、ピアノ伴奏に込められた、詩情の深さである。決して、なにか特別な解釈が見つかるわけでもないが、よくよく耳を澄ますと、有名な旋律のかげに、これまで聴いたこともないような響きの襞がきれいに纏わりついている。ともかく、ピアノひとつでこんなに変わるものなのかというのは、この日の大切な発見のひとつである。蓋し、名演である!

【443】 コルボ 小荘厳ミサ曲

ローザンヌ声楽アンサンブルがピアノとハルモニウムの伴奏で演奏した、ロッシーニの「小荘厳ミサ曲」は、コルボの指揮。ソプラノ/谷村由美子。コントラルト/ヴァレリー・ボナール。テノール/ピエール=イヴ・テテュ。バス/ファブリス・エヨーズ。ピアノにサイモン・サヴォイ。ハルモニウム/ボリス・フリンゲリ。

先日の「スターバト・マーテル」と比べると、やはり一日の長があった。ただし、今回のローザンヌの顔ぶれは、ベスト・メンバーではないのかもしれない。つよく歌う部分での和声の安定感に乏しく、どうも突っ込みきれない感じがするのだ。一方、静かに、そして、真摯に信仰を歌う部分の雰囲気はさすがで、終曲でコントラルトにつづき、’dona nobis pacem’と歌う部分などは、ぐっと来るものがあった。粋も甘いも知り尽くした老年の巨匠、ロッシーニの真髄が現れるのは、こういった部分である。

ソリストは、やはり谷村が声量、技量、表現力で抜けており、そのほかの人は、それぞれに難があった。谷村のソロでは、イエスの受難をごく短いフレーズで歌うクルシフィクススの部分で特に光った。また、ピアノのサヴォイはどういう経歴のピアニストかがわからないが、ニュートラルな「声」をもった、優しげなピアニスト。ハルモニウムのフリンゲリも、役割をよく把握した演奏だった。

【445】 ヘンドリックス S. 歌曲

バーバラ・ヘンドリックスによるリートの公演は、日本公演で3回も組まれており、今回のゲストのなかで目玉的存在だったのであろう。姿を現すと、俗にいうところの「オーラ」が彼女を覆っているが、不思議と近寄りがたい感じではない。薄く笑うような理想的な表情を常にキープして、余裕のある清楚な声を響かせるヘンドリックスの歌は、泣かせるとか、有頂天になるとかいう性質のものではないのだが、しんみりと胸に響いてくる。

開演前に、ズライカT/Uと、6曲目の「君こそ我が憩い」のあとで拍手をせよというアナウンスが流れ、ちょっとだけ難しい注文に客席もざわざわ。しかし、「君こそ我が憩い」のあの透きとおった表情は、正しく、この歌詞とぴったりだったので、迷うことはない。ズライカでは、東風(T)と西風(U)に呼びかけるのだが、確かに風向きが変わったかのような、精妙な歌いわけに感心した。最後の「糸を紡ぐグレートヒェン」は、歌っている歌詞より明るめの発声が、なんとも魅力的に響く。アンコールの「アヴェ・マリア」も感動的で、やはり、本当に神さまを信じている人の歌にはかなわない。ドイツ唱法をしっかり身につけたヘンドリックスであるだけに、加齢はさほど気にならない。まだまだ若々しい声が楽しめた。

ピアノ伴奏のルーヴェ・デルヴェンイェルの繊細なピアニズムも、バーバラの表現をしっかりと支えた。

【447】 チャパ指揮ロワール管 ロザムンデ

珍しい劇付随音楽「キプロスの女王 ロザムンデ」の全曲演奏。オケは、ペーテル・チャパ指揮のロワール管。合唱は、晋友会。この指揮者は第1回から出演しているが、これまで不思議と縁がなかった。私は20代だが、演奏はどこか「懐かしい」、昔のオーケストラの響きを聴くような感じだ。mp 以下はないような感じだったが、その代わりに、最強音の圧力はとんでもない。かなり恣意的な音楽づくりで、ポイントをさっとピック・アップしての指揮ぶりは、ハンガリーのコバケンというところか。だが、我が国の誇る炎の指揮者殿ほど、ニセモノの響きではない。

特に、バレエ音楽の躍動感は、さすがフランスのオケといったところか。ロワール管自体は従来の印象どおり、やはり大したものではないが、その相手から、あれだけ歌とエネルギーを引き出しているのだから、優れた指揮者ということになるのだが、私の好みには入らない。

晋友会の合唱は、羊飼いの合唱「この草原で」、狩人の合唱「緑の明るい野山に」は、それなりに歌えていた。アマチュアだから、そんなに厳しくいうつもりはないが、テノールの高音、特に力強く歌う部分は、明らかに練習不足と思われる。急に決まったことで、止むを得ないだろう。よって、亡霊の合唱「深みの中に光が」は酷い出来だったが、そこに目をつぶると、まあまあといったところ。ロマンス「満月は輝き」を歌った林美智子は、コロを歌える技術力はないと思っているが、こうしただらりと重い曲目はあっている。ちょうど、この日に聴いたヘンドリックスのように、ドイツ・リートなどを歌うとよいのかもしれない。

【438】 吉田浩之 T. & 鈴木大介 g. 水車小屋の娘

プログラム発表時、私がもっとも楽しみに思ったのが、この「水車小屋の娘」の公演だった。吉田浩之のしっかりした力量はわかっていたし、その彼が「水車小屋の娘」をうたう機会が、こうして訪れるなどとは思ってもみなかった上に、鈴木大介のギター伴奏というのも、福音以外のなにものでもなかった。だが、実際は、想像以上に練られたパフォーマンスで、びっくりさせられたものである。まさか、ここまでやるとは!

始まって数曲は、これはある程度予想どおりの、吉田の明るい発声に微笑んでいた。鈴木のギターも明るく、優しげで、とても控えめ(だが、存在感はある)。正しく出発のワクワク感に満ちた〈さすらい〉から、〈どこへ〉〈小川への感謝の言葉〉と、吉田は清々しい歌い方で、会場の雰囲気を和ませる。既に、この部分までで、「ドイツ・リート」という固定観念は雲散霧消した。確かに、一昨日はゲンツの正統派のリートに感動したのだ。しかし、それはそれであり、これはこれなのだ。ギターが伴奏に使われている時点で、その延長線上の表現は意味をもたなくなっている。吉田はまず、楽曲にとって決定的ともいえる、この変更のために、どれだけ頭をひねったかしれない。

結局、彼はかなり自由な歌い方をした。ときには、彼の得意なイタオペ的な要素も取り込みながら、全体としては、リートの格式ばった雰囲気を一掃する。例えば、〈仕事の終わった夕べには〉では、’Und das liebe madchen sagt Allen eine gute nacht’というところで、娘の口調を真似るような歌い方をするという具合である。ただ、その代わりに、しっかりとしたドイツ・リートの発声を節々に織り込んで、表現を引き締めているところに、吉田の周到な準備を感じるのだ。この「自由さ」は安易なものではなく、鈴木のギターの特質も感じ取った上で、楽曲全体の新鮮な表現を試みたとき、自然に生まれてきたものであると同時に、周到に計算しつくされた、ある「哲学」に基づいている。

吉田の表現は結局のところ、純真な恋に燃えた青年が失恋し、死んでしまうという解釈をひっくり返し、恋に破れても、人は死なない。また新しいさすらいを求め、休むだけだ・・・というところに帰っていく。シューベルト得意のダ・カーポである。これに気づいたとき、私は吉田の歌唱プランに全面的に共鳴した。通常であれば、青年の絶望の入口にすぎない第17曲〈いやな色〉で、吉田は感情の頂点を打つことにしたのだ。ここで青年の悔しさは、爆発する。とりわけ、明るい響きのときに、むしろ絶望的な雰囲気が前面に躍り出てくるのは、これまでの演奏で何度も聴いてきたとおり。長調と短調が激しく交代する部分をねじるように歌い上げ、この上もないほどに力強く印象づけるのだ。だが、それ以降、吉田は暗鬱な響きをしっかりと構築するだけで、むしろ、明るい部分がふっと浮かび上がったりしないように、細心の注意を払っていた。こうしてしまえば、シューベルトの本当に暗い部分は封印されてしまうからである。

〈枯れた花〉〈粉挽きと小川〉では、じっくりと落ち着いた歌唱が印象的であり、深い苦しみのなかに、それを克服しようとする青年の生の鼓動が、どこか波打っているかのようだ。そして、終曲の〈小川の子守唄〉はといえば、吉田と鈴木から我々への、ささやかなプレゼントであるかのようだ。どこまでも優しく響いて、傷ついたこころを癒してくれる・・・。これは決して、失恋の苦悶に絶望し、あの世にいって、ようやく安らぎを得た青年のことを歌うものではあり得ない。青年は、休む。恋に破れた手痛いダメージから、自分を取り戻すために。そして、生きる・・・これが、吉田たちが辿り着いた、新しい「水車小屋の娘」のイメージの核心である。

もしも、表現の固まりつつあるピアノ伴奏による演奏であれば、こうした解釈で歌うには、より大きな困難が伴ったことと思う。しかし、ともすれば、いのちが軽く扱われる現代において、吉田の採ったような解釈は勇気を与えるし、時代に求められているものだともいえる。そして、ひとりの女にフラれたぐらいで、人は死なないというのは、考えてみれば自然なことである。歌詞からみても、このような解釈があり得ないと言いきるだけの根拠は、どこにもないように思われる。しかも、このような意図に基づいて歌われた演奏は、私の知るかぎり、ほとんどない。この2人でヨーロッパをまわったら、それこそ大騒ぎになるのではないか。

独創的で、よく練られたパフォーマンスは、「熱狂の日」の限界を、はるかに超えるものだったといえるのではなかろうか。
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