2008/5/5

ラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポン 第3日 5/4  演奏会

5月4日、「熱狂の日」3日目である。この日は間にひろい空隙を挟みながら、14時間も有楽町にいたことになる。

【321】 ラファエル・セヴェール cl. クラリネット協奏曲

朝一番は、かねて楽しみだったウェーバー・プログラム。「魔弾の射手」と「舞踏へのいざない」以外は、日本では、ほとんど無視されている作曲家だ。オーケストラは、ルーベン・ガザリアン指揮のヴュルテンベルク室内管。まず、クラリネット協奏曲第1番は、1994年生まれのラファエル・セヴェールが登場。8歳で楽器を始め、翌年には音楽院に入れてもらったという信じがたい経歴をもつ。演奏は、非常に素晴らしい! 愛聴しているのがザビーネ・マイヤー盤だから、これとは比較すべくもないが、よく吹けてはいる。ガザリアンがときどき暴走するので、速いパッセージでは、しばしば余裕のない響きになってしまったが、クラの弱点である中音域でも膨らみのある音を出せるし、低音の唸り、高音の伸びも申し分ない。ある種の表現力の薄さは止むを得ないが、この年にして、相手にあわせた表現をアジャストできる能力を身につけているのは驚きだ。

私はあまり若い演奏家というのは好きでなく、「神童」とか口に出すのもいやなのだけれど、セヴェールはもう立派に大人の奏者として見ていい。地上に上がって、ミュージック・キオスクでの室内楽は、より彼の才能が伸びやかに発揮されていた。

ルーベン・ガザリアン(アルメニア)という指揮者は、悪くはないが、アクションがあまりにもうるさく、音楽づくりの恣意性もつよい。第2楽章のおわりで引っ張りすぎて、オケはまだしも、肝心のクラリネットのフレーズが押しつぶされたのは残念。フォル・ジュルネは、指揮者の選定はあまり得意ではないようだ。一方、終楽章は速すぎて、やはり独奏の響きのふくよかさを犠牲にしている。響き自体はどっしりしており、オケそのものの力なのか、指揮者の味つけの賜物なのか、よくわからないが、ウェーバーに相応しい地に足のついた響きが出ていた。シンフォニーでは、そのように無理な解釈はみられず、安定したパフォーマンスを楽しむことができた。それにしても、ウェーバーの曲がいい。これは、あとの小協奏曲の演奏に対しても思ったこと!

オケは既に述べたように、手応えある響きが特徴で、思いの外に精度もある素晴らしい集団だった。特に、ティンパニーと低音弦のベース部隊は誇るべきだろう。

【351】 ペネティエ pf. ピアノ・ソナタ第20番(D.959)

2日の D.960 の演奏で、私を最初のクライマックスに導いてくれたペネティエ。この日の演奏にも期待したが、少しばかりくたびれたのかもしれない。初日ほどの集中力は感じられなかった。しかし、後半2楽章で急速に取りもどし、やはり帳尻はあわせてくるものだ。最後の楽章では、ブラレイの演奏でも印象的だった、短いフレーズの回顧がおわったあと、叩きつけるように打鍵する部分の緊張感は、さすがのものだった。甘美な思い出が遠くへ離れていき、死へと向かっていく自分への悔しさをこめた解釈を、はっきりと表現したこの部分を聴いたあと、この曲への愛着は決定的になった。

【346】 ツァハリス pf. 小協奏曲(ピアノと管弦楽のための) 

ローザンヌ室内管による公演。クリスティアン・ツァハリスの指揮で、シューベルトの交響曲第6番がメインだが、前プロに置かれたウェーバーの小協奏曲が充実していた。やはり、ツァハリスの本領はピアノにあり、誰にも真似のできない、あのエレガントで、丸みのある響きは忘れがたいものになりそうだ。彼の豪奢なピアノのサウンドを中心に、ローザンヌの力強い響きを背景にして、ウェーバーの曲がどれだけ実の詰まったものであるかを教えてくれる。

シューベルトの交響曲も、ロッシーニに学んだという特徴はよく出ていて、あながち悪くはないのだが、若干、単調に聴こえたのも確かである。この曲ならば、もっとハイドンのような驚き(もしくは、山谷といってもいいのだが)があるはずではなかろうか。指揮者としてのツァハリスは、節々でみせる表情づけの鋭さは特筆すべきだが、ときどきルーズな面もあるのが気になる。

【357】 エンゲラー pf. 「夜の讃歌」

ブリジット・エンゲラーは、リスト編の歌曲のピアノ版などを中心に、多彩なプログラムを織り込んだ。ゆったりしたテンポで、有名な曲だけに、じっくり考えさせる 即興曲 D899-3 の演奏からして、ぐっと惹きこまれた。圧巻は「白鳥の歌」からの5曲だが、とりわけ「都会」の外交的で激しい燃焼のあり方と、「セレナード」の内に秘めた情熱の対比は面白い。『美しい水車小屋の娘』の「水車小屋と小川」の部分の演奏は、前半で娘の姿が浮かび上がるようであったのが、あたかも小川のせせらぎに、知らず流されていくように、はかなく散っていく恋の空しさが、淡白なピアノの表現にうまく乗っている。D817 の「ハンガリーのメロディ」は、彼女の身につけたロシアン・テイスト(ネイがウスに師事)が、そっくりハンガリーの響きとすりかわっていて、面白いひとコマだった。

よく知られた曲は、従来のイメージが洗いなおされるように、あまり知られていない曲については、前々から知っていたように親密感を持つことができるような演奏で、それぞれに描きわけた表情づけの巧みさには驚かされる。ペネティエの情熱的な演奏と、ブラレイの柔らかいタッチ、エル=バシャのみせた和声の重なりの凄まじい効果、これらをエンゲラーはすべて備えている。正しく彼女こそが、「熱狂の日」最強のピアニストであると断言するにしくはない。3日間を通して、もっとも印象的なリサイタルである。

【328】 マンメル T 冬の旅(ツェンダー編) 註:5/17執筆

この日の最後は、歌曲集「冬の旅」を聴いた。オーケストラは、ロト指揮のレ・シエクル。歌い手は、テノールのハンス=イェルク・マンメル。この人はからだこそ大きいが、とても繊細な美声の持ち主で、シャープなドイツ語の発音が印象的である。この人の「冬の旅」は、アルファ・レーベルからの録音も持っているが、何分、この日の演奏はフリードリヒ・ツェンダー編による奇抜な編曲であり、別ものと考えてもいいぐらいだ。その方法論について論じることだけで、ここのスペースが一杯になってしまうだろう。

ツェンダーがやりたかったことは、ほとんど越える術などないと思われる、シューベルトの歌曲の傑作を、現代の書法を総動員して、いかに乗り越えるかということだった。結論からいえば、その試みはうまくいっていない。だが、厳しい仕事ではあったろうが、とにもかくにも、ツェンダーは一端の音楽家として、この作業を楽しみ尽したとは言えそうだ。もともと表情の穏やかな人だが、レ・シエクルのハーピストが、子どものような笑みを浮かべながら、ウインド・マシーンを回していたのが印象的だ。これが、この編曲の大事なところを為している。ツェンダーは途中から、自分の無謀な試みについて完全に自覚しており、無理をしていないのだ。そして、ひとりの音楽家として、(妙な言い方だが、)演奏者として、シューベルトのスコアと向きあい、筆という楽器で、それを再現しているような感じがする。

結局のところ、この作品(編曲)は、シューベルトより先に行っているかどうかとか、現代の書法からみて新しいかどうかとか、そういう筋張った議論には馴染まず、ツェンダーという作曲家のイマジネーションの柔らかさこそを楽しめばいい。そのように考えた。

欠点は、通常の「冬の旅」であれば、歌い手がイニシアティヴを握り、言葉の節にあわせた微妙な揺らぎが個性として表れる、それがないことだ。急拵えの、この日のパフォーマンスでは特にそうだが、歌い手はオーケストラにあわせて歌わねばならない。その分、肝心の歌のラインが微妙に窮屈になり、歌い手は苦労する。少なくとも、ピアノ伴奏のときより、うまくは聴こえないだろう。途中、拡声器を使ったりするのだから、尚更のこと。そのことを、ロトもしっかり踏まえていて、終演後のコメントでは、マンメルに感謝の言葉を投げていた。

レ・シエクルのメンバーたちは、ここを本番と定めていたのか、2日の「大地の歌」と比べても完成度が高く、彼ららしいユーモラスで、柔らかい演奏が聴かれた。ツェンダーの編曲意図でもあろうが、最後の辻音楽師(ライアーまわし)がおわった後、普通はイメージされるような死への深い沈潜は感じられず、5日に吉田浩之が表現したような、新しい旅立ちのイメージが表現されていたのは印象ぶかい。
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