2008/5/28

青いサカナ団 マーマレイド・タウンとパールの森 5/25 A  演奏会

青いサカナ団の標記の公演について、前回のレビューの続きを書く。

【下地は魔笛とトリスタン】

まず、誰でも気づくように、この作品の下地には「魔笛」と「トリスタンとイゾルデ」の要素がある。まず、「トリスタン」については、主役2人が、第2幕で月の光を浴びてしまう場面が、そのままだろう。「月」が「媚薬」の相当するわけだが、効果がまったく同じ。2人の間に関係が出来上がらないうちに、ドンと背中を押すような働きをするのも一緒。結局、それがために2人の愛が結びついたのか、もともと、そんなものは必要なかったのか、なんとなく、はっきりとはわからないのも同じ。そして、愛情と音楽の昂揚が、同じように描かれていること。そして、2つの極が「と」で結ばれるというのも、ズバリである。

しかし、より色濃いのは「魔笛」の影響であろう。まず、子どもがみればそれなりに、大人がみれば、それはそれで味わいがあるという、性格的な特徴がある。「マーマレイド・タウン」と「パールの森」は、夜の女王とザラストロの対立に通じる関係とみられる。ザラストロが夜の女王を打ったような魔法を、アポロも用いる。アポロの術が炸裂するとき、フルートの激しいパッセージ(+打楽器)が吹かれるが、魔笛や鳥刺しの笛は、フルートである。・・・と数え上げていけば、キリがないほどだ。

まとめるとすれば、この作品は、「魔笛」のような親しみやすい素材を使いながらも、その内側に無数のメッセージを詰め込み、「トリスタン」のような愛情のほろ苦さ、そして、哲学的な世界観まで、キッチリと描きこんだオペラだということができる。

【どうみてもいい】

神田のオペラというのは、結局のところ、どうみてもいいのだ。

子どもたちが、一編のメルヒェンとして、この作品を味わうことは、素晴らしい。だが、もうすこしロマンティックな大人たちは、この作品の中心を月子の恋の遍歴に置き、捨てられた女の哀しい「最期」から、王子さまとの出会い、そして、空恐ろしいブラック・ジョークまで、ゆったりと楽しめばいい。アングラの演劇に慣れている人は、神田のひねくれた、鋭いイロニーを嗅ぎとってもいいし、もっと高尚な見方だって可能だ。そのどれもが正解ではあるが、また一方、どれをとっても、ぴったりあってはいない。

どうみるべきだ、どうみなければ私の作品は理解できない・・・という押しつけがましさは、神田の作品には、一切ないように思える。私みたいに、馬鹿みたいに奥の奥まで突きすすんでいく者と、「楽しかった!」とニッコリ笑う小学生の間には、少なくとも、この作者にとっては、何の差もないのだ。

【森美代子の慣れてないところがミソになる】

さて、「アゲハの恋」から横滑りしたり、既に神田自身の作品か、神田の指揮する公演に出演したキャストが多いなかで、主役には、神田との共演がはじめての森美代子が、ドンと据えられているのは、意味があるのだろうか。姉妹作ならば、ヒロインぐらいは横滑りさせるのが、むしろ普通のことだろう。アゲハの角野は、満足のいく歌手ではなかったのだろうか。そうではあるまい。たとえ、そうだとしても、ここは、はじめての人がよかったのだ。

今回のプロダクションで非常に面白かったのは、森美代子が浮いていることだ。ひとりだけ、とても硬い。歌い方も演技も! キャリアのない歌手だし、それは止むを得ない。だが、そういうことではなく、彼女以外のほとんどのキャスト、もちろん、コーラスやオーケストラも、神田という「作家」「脚本家」「作曲家」「指揮者」「演出家」を、裏も表も、よく知っているのだが、森だけは知らない。そのことが、ワサビのように、この上演を引き締めていることは言うまでもないであろう。そして、そのことは、訳もわからず「プログラム」に放り込まれて、空想の世界を活きることになる月子=ディアナの境遇を、象徴的に体現することとなる。森の基本に精確な、ストレートな歌いくち。ぴっちりとからだのラインを引き立てる、桜井麗の青いワンピースが、これをさらに強調するようだ。

【神田は素材をうまく使う】

この森のことに象徴されるごとく、神田は、素材の使い方が実にうまい。池田卓夫が関わるキャスティングの助けもあるが、まずは神田自身が、なにをどう使えば、どんな効果が出るかということに敏感だ。例えば、既に書いたように、神田は、森と秋谷のパートに、絶対に当たらないような高音を書いて、そこへ必死に到達しようとする歌手の心理をついて、これをゲートとして使うことによって、歌手たちを自分たちの知らない世界へと導いていく。これは、アポロの術を表現するフルートについてもいえる。ただ、これはゲートというよりは、ほとんど吹ききるのは無理な音符を刻むことで、楽器奏者のプライドを越えた、突き抜けた響きを得るための工夫だ。こうでもしなければ、吹く人が必死になってくれなければ、現実には、まったくリアリティのないアポロの術を、すこしでも本当らしいものとして印象づけられるだろうか。

素材といえば、子どもがある。神田のオペラにとって、子ども出るのは難しくない。前作のアゲハでも、子どもたちが、主人公の片割れであるケンジを取り巻いていたものだ。だが、子どもを出すというのは、文学、演劇、オペラ、映画、どの分野にとっても、邪道としか言われないようなことなのだ。ズルイとも言われるだろう。どんな名優も、子どもの愛らしさ、無邪気さ、純粋さには太刀打ちできない。いつまでも、お涙頂戴の、古くさいミュージカル「アニー」が廃れないゆえんである。そんなことは百も承知で、神田はなぜ、子ども使うのであろう・・・と問うのは間違いである。なぜならば、神田にとって、子どもを出すということは、当たり前すぎるほど当たり前だからだ。そもそも、なにゆえ子どもたちを、大人から分断せねばならないのか。そこが、問われねばならない。

神田は子どもたちのことを、誰よりも信頼している。だから、あんな扱い方ができるのだ。そして、信じれば信じるほど、子どもたちは、それに応える。そこから、また、神田は新しい発想を得ている。神田の感性の瑞々しさは、こうした子どもたちのエネルギーから得られたものであり、なればこそ、神田は子どもを舞台の上に歩かせてみることに、まったく抵抗がないのだ。子どもたちの盗賊団を指揮するアテナ役(そのように一回でも呼ばれただろうか?)の丹藤麻砂美、同じくカリオペ役の岡林景子が、あれほど成功した役として印象に残ったのは、一にも二にも、こうした子どもたちの、ほとんど一人前の歌役者といって差し支えない、見事な活躍あったればこそだ。

アゲハと比べて、こうしたリソースを完全に使いきったという点で、今回の「マーマレイド・タウン」のプロダクションは特筆に価する。マルスとヘルメスがすこしダブる印象なのを除けば、ほとんど無駄のない役の構成と、歌手の配置である。とりわけ、白痴役のバッカス大統領を演じた岡戸淳は、通常は真面目な役柄、もしくはワルの役柄が多いバリトンながら、思いきって崩した演技で、好評を博した。麻雀牌をジャラジャラやりながら、不思議な重みを感じさせる中村靖(アポロの父=ゼウス役)のずっしりした演唱の巧さ、そして、声質こそ気に入らないが、森永朝子(アポロの母親=ヘラ役)の堂々たる立ち居振る舞いはさすが。この2人が、「プログラム」の種明かしで活躍するのも優れた仕掛けだ。

【重ねあわせと裏切り】

第1幕のいちばん最後で、バッカスは大きな受話器を抱えて、「ゾウさんはいますか」と話しかける。これは確か、どこか引越会社のテレビCMで、かわいい女の子がいう台詞だ。ひとわたりの展開がおわったあと、バッカスひとりが取り残され、この台詞のあと、ゆったりと暗転して、1つの幕が終わるのだから失笑を禁じ得ない。だが、次の幕で、しっかりゾウさんが出てくる。第1幕を反転した、バックステージを見せる第3幕でも、ゾウさんは意外と印象的な役割を果たしてくれる。このゾウさんは、あくまでサイド・メニューだが、一見、くだらないと思えたものが、あとでちゃんと意味をもつ・・・というのは、この作品にとって、重要な意味をもつようだ。

このことについて書いていきたいのだが、いったん日にちを改めさせてほしい。

(Bにつづく)
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2008/5/26

青いサカナ団 マーマレイド・タウンとパールの森 5/25  演奏会

【昨年と似ているが、響きそのものがもっともちがう】

青いサカナ団が、神田慶一の新作「マーマレイド・タウンとパールの森」を上演した。神田の新作は2年連続であり、前回の公演時に予告されていたため、姉妹作という風にいえそうだが、そのことを示すように、主要キャストの半ばが横滑りしている。ミュージカル側にシフトした作風も「アゲハの恋」(神田の前作)を連想させる部分があるし、テーマも意外と共通するものがある。ただし、そういう枠では捉えられないものもある。いちばん変わったのは、非常に微妙なはなしで文字では表現しにくいのだが、音楽の「特徴」ではなく、響きそのものである。

アゲハの場合、いつか、どこかで聴いたことがある響きをコラージュして、繋ぎあわせたイメージで捉えることができた。ところが、今回は、私の知らない種類の音楽だという感じがしたのだ。私の音楽的知見というのは、所詮、その程度ということであるが、かなり時代のちかいところ、もしくは、現代そのもののリソースを使い、組み立ててきたように思うのだ。ちなみに、ここでいう「現代」とは、セリーとか、スペクトル楽派とか、そういう質のものではないことを断っておく。

【テーマは機械文明の否定ではなく、人間性の問題】

今回、神田が中心に据えたテーマとは、何だったのだろうか。一見、ケータイに代表される機械の支配、その上に成り立つ人間世界の「自由さ」をシニカルに描いてみせたようだが、本当に、それだけだったら、これは3ー40年前の議論に立ち返っていることになる。島田雅彦などよりもさらに遡って、安部公房とか、そんな世界になってしまう。確かに、神田慶一という「(劇)作家」は実年齢と比べれば、そんな時代に片足を突っ込んだ存在にちかいのかも、という感じがしないこともないが、それだけでは、とても捉えきれないものを感じるのだ。そこにずっと疑問をもって、観ていた。

はっきり言って、この疑問はしっかり解決されていない。ひとついえるのは、神田はどうやら、機械文明の否定をしたかったわけではなさそうだということだろう。これは作品外のことだからいうべきではないかもしれないが、カーテンコールで舞台上に呼び出されるとき、神田はプリマと携帯電話でやりとりするようなジョークをみせたからだ。劇の流れからみても、死んでいく人に残された僅かな時間を使って、その人の抱いていた夢をみせてあげる「サーヴィス」としての「プログラム」だった、というオチは、完全に否定的に描かれているわけではない。エピローグまでは、そのグロテスクなオチは、あくまでグロテスクなものとしてしか、描かれていなかった。主人公が自らの意思によって、「プログラム」をおわらせたときに、ああ、この女性は成長しました。ビルから身投げした自分を乗り越え、強くなったのです。それに、名医さんのおかげで、いのちも取り留めたのです。めでたし、めでたし・・・となるところだ。

しかし、最後の場のしまいでは、再び主人公は「プログラム」に取り込まれてしまう。正直いうと、「プログラム」の管理人だったクロノスがたくさんの薔薇を抱えて現れると、「あれ、これが実はメールをくれなかった彼?」とか勘違いしているうちに、「マーマレイド・タウン〜♪」というキャッチーな歌に取り巻かれ、怯えながら、タウンの住人たちのなかに取り込まれていく主人公が描かれていく・・・やがて、おもむろに幕という感じで、なにが起こったかよくわからなかったが、ストーリーの解説で、そうわかるのだ。ただし、これは批判ではない。わかる必要はないからだ。最後の場面に至って、「マーマレイド・タウン」の「プログラム」がある種の気味わるさが残るとしても、まあ、こんなのがあってもいいかな、という感覚を与えることができれば、それでことは済んでいるのだ。

結局のところ、神田は、機械というものを否定していない。それどころか、もはやどんな希望も持ち得ない終末を、機械のプログラムが、まるでキリスト教の牧師さまのように救ってくれるかもしれないと、独特のアイディアを提出しているぐらいだ。もちろん、それは空想にすぎないが、結局のところ、機械を制御することができないほどに、傷んでいるこころのほうが問題なのである。主人公・月子は「プログラム」のなかの人生を踏みしめていくうちに、そうした制御を取り戻していった。ひとりの人間に隠されていた「強さ」が、光り輝きながら姿を現すときの感動が詰まった第3幕のしまいに向けて、クライマックスを打つ音楽とともに、我々は天にも昇りそうな至福を味わったのだ。そして、涙した。だが、すべては遅すぎたのだ。最後に、神田は、月子に罰を与えることにしたのだろうか。もはや、彼女がビルから飛び降りた、という事実は変えられないのだから。いのちを粗末にした月子は、再び「プログラム」の復讐を受けることになるのだ。

最後まで終わるまでは、すこし理屈っぽいところはあるが、神田はいつもより「哲学的」な面を抑え、ダイレクトな表現を試みようとしているようだと感じていた。とにもかくにも、月子=ディアナの心情というのが、直裁に掘り下げられているように感じられたし、発想もごく素直なものだったからだ。神田の私生活についてはまったく知らないのが、彼にはきっと、小さい子どもがいるのではなかろうか。もしもそうだとすれば、その子が神田に与えたインスピレーションは計り知れないだろう。特に第2幕の世界観については、大人なら、とても思いつくはずのない瑞々しい発想に満ちていた。それがなければ、第2幕はすこし退屈なものになっていたかもしれない。例えば、木の枝に月や太陽が吊るしてあるなどという発想は、あり得ないだろう。

ところが、終わってみれば、いつもの神田ワールドだった。結局、ケータイというものには、現代人の人生が詰め込まれている。恋も仕事も・・・人生すべてが。そういえば、私はケータイを持ち始めてから、腕時計をしていない。我々を支配する絶対概念(相対性理論によれば、『絶対』的ではないが)とさえ思われた、時間さえもが、ケータイには詰め込まれている。劇中にも、月子が世界を制御しはじめたとき、クロノスはあんなにこだわっていた時間を放棄し、鎖のついた懐中時計を木の枝にちょこんと引っ掛ける場面があった。そう、クロノスは時間の神である。機械の支配のなかで、クロノスだけが特別な存在であるのは、なんとか時間の支配力を握っていたせいだ。しかし、月子の覚醒により、その支配力も意味をもたなくなる。結局、最終的には人間のこころの支配力が確認されるわけだが、一方では、この「プログラム」がカネで支配されていることや、そのこころの強さなるものも、弱さとほとんど一体化していることを示して、人間の支配力も括弧のなかに入れられることをも示している。だから、最終的には、あのような無責任に投げ出すようなフィナーレを迎えることになるのだろう。

今後、回を重ねて述べていくことを考えているが、結論からいうと、神田の作品としては、近作のなかでは、やや完成度が低い。だが、この言葉を額面どおりに受け取らないでほしいのだ。それだけエネルギーが自由に働き、一気呵成に書かれたような印象を受けるということもであるし、こういう殴り書きみたいな作品のほうが、完全理論武装の作品よりも、はるかに我々のこころに到達しやすいということも、また一面の事実だからだ。

【主要三役が安定をもたらす】

なお、歌手についていうならば、クロノスを歌ったベテラン、持木弘の芯の太いバリトンが、さすがに図抜けていたので、世界の「管理人」としての威厳が十分だった。一方、若い森美代子が月子=ディアナの主役を務めたが、彼女のことについては、項を改めて書きたい(というのは、作品世界との関係で、彼女の存在が果たした意味をすこし書いておきたいからだ)。のちに書く秋谷のパートにもあるが、神田は絶対に当たらないような高音を書いて意地ワルのようだが、そういうゲートをつくることで、歌役者を彼(女)の知らない部分に連れ去ることを狙っているのだろう。小柄だが立ち姿も美しく、渾身の演技であったが、あの若さでこんな役を歌ったら、声を潰してしまわないかと心配だ。確かに適役だが、声の面だけでいけば、ここまで慎重にステップ・アップして、ヴェリズモを歌えるところまで来ました、というような人がいいのだが。アポロ/医師役で、ディアナと親密になる秋谷直之は、あまり真実味を帯びにくいヒーロー役で大変だったろうが、彼らしい真っすぐな表現で、とても頑張っていた。これら主要三役にブレがなかったのは、上演に安定感をもたらしていた(その他のキャストについては後述)。

いささか不満は残るが、それでも、やはりいいものをみせてもらったという感覚は十分だ。今年もまた、神田と青いサカナ団は、期待に応えてくれたといえそうである。♫マーマレイド マーマレイド・タ・ウ・ンは、ユメのマ・チ♫ うーん、昨年の「ア・ゲ・ハ!」につづいて、このフレーズは憶えましたよ!

【上演データ】

 上演:2008年5月25日(2日目)

  原作/脚本/作曲/指揮/演出:神田 慶一

  美術:八木 清市  衣裳:桜井 麗

  管弦楽・合唱:青いサカナ管弦楽団・合唱団

 於:新国立劇場(小ホール)
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