2008/5/31

青いサカナ団 マーマレイド・タウンとパールの森 5/25 C  演奏会

さあ、これで「マーマレイド・タウン」の記事も最後だ。1週間にもわたって、レビューを書き続けてきたのだから、自分にも意外な根気があるものだと思う。

【仮面が全体のなかで果たす役割】

さて、今回の作品を象徴する道具立てとして、仮面があった。製作は南鐘貴とあるが、この方がどういう人物であるのかはわからない。また、仮面自体がどれぐらい素晴らしいものであるのか、判断する力もない。しかし、タウンの一般住民がつけるのは、おかめのような表情をした笑い顔で、色は白で統一されている。これに対して、クロノス一派の仮面も色は白だが、表情がなく、上部にもう一重の顔がついていて、より立体的な印象を与える。これらの仮面が「プログラム」と「現実」を分ける意味をもつのは自明だが、2種類の仮面があるのは、どういうことを示すのだろうか。明確な答えはないが、多分、「プログラム」を縦軸にとったときに、横軸となる管理者の役割をもつことの象徴ではないかと思われる。

管理者たち、つまり、クロノスたちは、仮面をつけるときを自分たちで選んでいる。バック・ステージでは仮面はつけず、表で悪事を働くときや、パレイドのときだけ、仮面を着用するのだ。支配者の象徴であると同時に、素顔での行動を隠すような目的があると感じさせる。ところで、タウンの人たちはというと、仮面をしていないときでも、見えない仮面を被っている。それが明らかになるのは、終わりの浜で「プログラム」が素顔をむき出しにして(ということは、仮面をつけてということだが)、月子=ディアナのこころの真実に迫っていくときだ。

これらをまとめて考ると、きわめてアイロニカルである。「プログラム」のなかでは、人々は本当の表情を決してみせない。表情があるとみえるのは見せかけだけで、仮面をつけたときにだけ、彼らは本当の表情をみせる、それらは笑っているようだが、実のところ、仮面の笑い顔でしかなく、その後ろに隠された表情に迫っていくことはできない。しかも、悪いことに、これらの無数の仮面たちは、彼らとはまったく別の役割をもった一握りの存在に、動かされているにすぎない。その間のインターフェイスとして、「太陽」と「バッカス」があるのだ。

【バッカス大統領】

私の記憶では、肝心の月子を除くと、バッカスだけは仮面をつけない。このいうことを聞かないバグのような存在だけが、縦糸と横糸を紡ぎあわせ、結びつけることができるのだ。バッカス、すなわち、ディオニュソスは、ブドウの栽培を人間たちに伝え、酒というものを通じて、神と人間のインターフェイスのような役割を果たしたから、この名前が既に示唆的であろう。一方、この神の奔放な野性を逆手にとって、神田はそこに、人間の幼児性を詰め込んでしまうのだ。それに加え、「バカ」という言葉と掛けたのかどうかはわからない。いずれにしても、ここに、タウンのおかしな支配者(偶像)が出現する。動物を愛し、クマさん、ネズミさん、ゾウさんを分け隔てなく愛するバッカスが、どのような末路を歩むかは観客の大きな楽しみであったろう。実際は、覚醒したディアナにゾウさんを取り上げられて、泣かされるだけに終わったのは、すこし残念だった。だが、これには意味がある。

というのは、バッカスというのが、我々の期待に反して、実は、インターフェイスでもなんでもなかったことがわかるからだ。PCに譬えれば、バッカスというのは、無駄に増設されたUSBハブのようなものだったのかもしれない。邪魔だけれども、なくてはならぬと思われたものが、実は、直接つなげばよいだけだったというイロニー! 支配者とは、結局のところ、これだけのことにすぎないのか。「国王」ではなく、「大統領」というのも意味があるだろう。というのは、国王は血筋だけで決まるが、大統領はみんなで選ぶものだからだ。劇中にはもちろん描かれないが、クロノスたちの傀儡であるにせよ、彼はとにかく、タウンの人々に選ばれたのだ。選ばれた者であるのに、彼は自らの幼児性を曝け出し、享楽に耽るだけである。これは、政治家に対する痛烈な皮肉ともとれる。しかし、それがまた、支配者と人々の唯一のインターフェイスであるというのも、ぞっとすることではないか。

このように、バッカスは神田の吐く毒の塊のような存在なのであるが、一方、劇中でいちばんの人気者でもある。

【マーマレイド・タウンとは何か】

結局ところ、マーマレイド・タウンとは何であろうか。種明かしによれば、それは、もう死ぬことが決まった人に残された最後の、僅かな時間を使って、彼の好きな夢を見せるという装置(プログラム)であるという。しかし、よくよく見てみると、夢であるはずのタウンは、正に夢でしかないようなロマンティックな幻想と、現実よりも厳しい現実の、両方で覆われていることがわかるのだ。月子は、プログラムが提供する夢によって癒されたのか、益々現実的な世界の陰鬱さに弄ばれたのか、よくわからない。

観るものが釈然としないのは、こうした要素に対して、神田がこれといった答えを与えることがなかったからだ。私は既に、この劇はどう見てもいいのだと指摘した。すべての劇はそうであるが、大抵は、こういう風にみるのが当たり前だというセオリーがあるものだ。今回の作品は、それが皆無なので、捉えどころがないように思える。やや哲学的な言い方になるが、完全な自由は、束縛よりも不自由だからだ。ただ、大事なことは、そうであっても、この空間を共有する間に限っては、当の神田自身も、オケマンも、合唱団も、助演の人たちも、そして、観客さえも、ひとつの「プログラム」のなかにあったということだ。すべての自由は、そこから生まれたということ、これだけは変えようのない事実である。マーマレイド・タウンの「プログラム」が、すべて月子の想念から生まれたように! だが、その「プログラム」の組み手である神田でさえ、自ら、その世界の完全な支配者たることはできないと知っている。月子は、「プログラム」を生み出した張本人でありながら、同時に、その「プログラム」に左右される存在だったことを思い出そう。

プログラムにも、いつかは終わりが来る・・・そういって、月子は太陽を月に喰わせた。その言葉が重く響いてくるようだ。それは、月子にとっては死を意味する。この劇の作者である神田にとって、死とは何であろうか。それは、自ら苦しんで生み出したの作品との別れ、そして、それをともに創り、視覚化するために関わった人たちとの別れ、また、それをこころから愛し、演じ歌ってくれた共演者たちとの別れ、さらに、そうした世界を微笑ましく受け取ってくれた観客たちとの別れを意味する。きっと誰もがそう思ったように、誰もがこの作品世界との別れを惜しんだろうが、もっともその想いが強かったのは、神田自身ではなかろうか。作り手のエゴといえば、そうかもしれない。だが、最後のエピローグは、そんなエゴがバッカスのような子どもじみた形で、直裁に現れた姿であるともいえる。彼はもう、離さない。離さないぞと宣言しているのだ。終わりは来るとわかっている。だが、それまでの夢は甘く、濃厚でなければ! 最後に響くマーマレイド・タウンの歌に、その想いが託されているのかもしれない。

結論としてはバカバカしいが、今回もいい作品だった・・・この一言に尽きる。
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2008/5/30

青いサカナ団 マーマレイド・タウンとパールの森 5/25 B  演奏会

【陳腐ではなかった(!)太陽のこと】

前回、ゾウさんの仕掛けに寄せて、「一見、くだらないと思えたものが、あとでちゃんと意味をもつ」ようなことが、この作品では大事だということを述べておいた。この手の問題で、プロットのなかでもっとも大事な意味をもつのは、「太陽」だろう。もとはパールの森にあり、タウンに持ち去られた「太陽」のおかげで、タウンの支配者たちは力を得た。それで、なぜか子どものようなバッカスを傀儡に立てて、市民たちを統治している。「太陽」の恵みに対して、市民たちは「太陽のお礼」として税金を払う。このバッカスとタウン統治の問題も興味ぶかいが、いまは「太陽」のはなしだ。

この「太陽」がはじめて登場するのは、第1幕第3場、バッカスたちが登場する場面である。ところが、この「太陽」は一枚の丸皿ぐらいの大きさで、すこぶる小さいのだ。首から掛けられるような紐がつけられ、まったく威厳がない。これはどうしたことだろうか。上演の間じゅう、私は、この「太陽」が滑稽でならなかったものだ。しかし、その秘密は、第3幕で明らかになる。この「太陽」は、月子の幼いころの想念が具体化したもので、太陽と月は木に吊るすものだと思っていたというのだ。太陽は東、月は西(方角は反対だったかも?)に吊るしましょうといって、アテネとカリオペと子どもたちが去っていく第3幕のしまいの部分の、たおやかな音楽も印象的だった。

それにしても、なんという発想だろうか。この種明かしを聞いて、私は、「太陽」の可愛らしさや、細々と作り込まれた繊細な表情を嘲笑い、小さい、威厳がない、なんだあれは・・・と考えていた自らを省みて、脳天をぶっ叩かれるような衝撃を受けた。これは完全に、神田の術中にはまったのだ。多くの人が、私と同じことを考えたと思う。すべて、作曲者の(プログラムの)思うままだ。そして、その衝撃は、「太陽が月に喰われる!」というタウンの住民たちの叫びへと、ダイレクトに繋がっていく。

【僕の顔に何かついていますか?】

この台詞も、よく憶えている。「終わりの浜にて」の第2幕第7場とエピローグの部分で、2度使われるせいだ。先程の「太陽」のひねりとは比べられないが、より、ユーモラスティックな重ねあわせである。

最初の場では、アポロへの陶酔を感じながらも、なにかがおかしい、どこかで見たような・・・と月子(ディアナ)が最初に気づきはじめるとき、どこか様子のおかしいディアナを気遣って、アポロが吐く言葉となっている。このときは、やや2人のやりとりの流れが硬いのと、台詞の白々しさがつまらない印象を与える。一方で、目覚めた月子が夢のなかのアポロにそっくりな医師をみて、安心したような笑みを浮かべて、その顔に見入るとき、医師が同じ台詞を吐く。このときは、月子の安心感が見るほうにも伝わって、同じ台詞がとても温かく感じられるのだ。

この対比も、非常に面白く感じられた。こういう重ね合わせ自体は月並みであるし、いまではタブーといえなくもないほど、ありふれた手法だ。だが、いかにも狙ったように使っているのが、かえって興味を惹く。子どもの問題でも触れたが、神田はこうしたタブーを半ば悪戯っぽく使って、観客のこころを突き放したり、逆に、ぐっと引き寄せたりすることに才があるようだ。陳腐と思ったものは、いつか大逆転されて、なくてはならぬものとなる。ほんのつまらぬ重ねあわせが、筋のなかに、すっとポジションを取る・・・。

【仮面のこと・・・は、またあとで!】

ここで、仮面のことに触れるべきだが、これは後回しにする。

【それでも出来の悪い部分について】

出来の悪い部分を、すこしだけ書いておこう。まず、プロット上でいちばん問題があるのは、高いビルから飛び降りて転落死する場合、ほとんどは即死なのだから、「プログラム」が入り込む余地はないということだ。これに限らず、医療の場面は、やはりリアリティがない。低予算だから止むを得ないし、場面の性質からいっても仕方ないことだが、私の母親は病院で働いているので、やはり、あの病院のシーンは違和感が拭いきれない。あんな町の診療所みたいなベッド(ストレッチャー)で、重患の処置はおこなわない。医師のいかにもな立ち居振る舞いも、テレビ・ドラマさながらで、それがひとつのアイロニーなのかもしれないが、事ここに関しては、成功していないと考える。

この「プログラム」という言葉も、ドラマ全体の詩情に見合っていない感じがする。言葉の使い方は、いろいろと問題があるように思われ、「プログラム」のほかでは、例えば、「管理人」、(太陽が月を)「喰った」などという表現が、どうしてもしっくり来ない印象が残った。例えば、「太陽が月を蝕んだ(むしばんだ)」といったら、随分、雰囲気が出るのではないか。「管理人」はインターネット社会では親密な言葉で、そのことを意識しての使用だが、やはり、すこし説明的すぎてひねりがない。例えば、「番人」とか「守役」などではどうだろう。「プログラム」も同様で、すこしひねれば、「からくり」とか「パズル」とか、いろいろと言いようがありそうなものだ。これは、いますこしの配慮が必要かもしれない。

最後に、今回の作品の最大の欠点を述べよう。それは、話の流れと音楽に、あまりにもメリハリがなさすぎることだ。これはどうして起こったのかというと、すべての幕が本当によくできているからなのである。ぎっしり中身が詰まって、揺るぎがない。どこの幕、どこの場も意味を持ちすぎている。確かに、遊びがないわけではない。例えば、盗みのイメージを再現するアテネとカリオペと子どもたちのマイム、バッカスをめぐるコメディ、ゼウスの麻雀、いくつかの演劇的やりとりなどである。だが、こうした場面は、それに連続するか、もしくは、それ自体に含まれる意味に呑み込まれ、まったくのナンセンスというには遠い。意味があってもいいが、それを感じさせてはほしくないのに、実際は、5000mの高山に連なる3000m級の山脈のように、谷というには鋭く、突きあがりすぎているのだ。

そのため、第3幕の最後の月子の覚醒と、クロノスの種明かし、さらに、その破壊を頂点として、プロローグ、第1幕、第2幕がだらだらと続き、予想どおり、第3幕にガーンと燃え上がったところ、エピローグで冷却し、最後にちょこんと仕掛け(コーダ)を置くというように、見事なシンフォニー/ソナタ風の構成が出来上がっていることに気づくだろう。これは面白いといえば面白いが、観ていて、すこし疲れてしまう感じがする。飽きるのではない。ひとつひとつの場面は好きなのに、どうも流れていかないのだ。「僕は見た・・・」などでは、そのような印象はなく、非常にスムーズに筋と音楽が寄り添って、流れていく。ここに、神田の最高傑作との差がみえてくる。

さて、次回は、仮面のことから語りだして、いよいよ、まとめていきたいと思う。
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