2008/4/13

パトリシア・プティボン ソプラノ・リサイタル @東京オペラシティ 4/12  演奏会

札幌への強行軍のため、ずっと以前から楽しみにしていたプティボンのリサイタルであるが、やはり前日の余韻が抜けない。このコンサートと、翌日の親戚のお祝いのために、帰ってはきたのだが! 普通だったら、良いリサイタルだったと思うはずだ。すこし羽目を外しすぎな部分もあるが、圧倒的なテクニックをみせてくれたし、随分と声が育ってきているのも確認できた。やはり、彼女は素晴らしい歌い手だし、これからの成長も大いに期待できる。

アンコールで、オランピアを歌ったけれど、コロラはやらなかった。客席をゲラゲラ笑わせる、悪戯っぽいパフォーマンスだったが、そのくせ最高音がぴったり当たったりして、決めることころは決めるのだから凄い。でも、あれはただのおふざけではなくて、これからの彼女の進むべき道をちょっと垣間見せてくれたのかもしれない。ひょっとしたらジークリンデでも歌うつもりかと思ったが、ルルだそうだ。あのプティボンがねえ・・・。でも、確かに、声は下目にアジャストされつつあり、キャバレー・ソング風の歌いくちや、カルメンでも思わせるような妖艶さまで見せていたから、なるほどという感じだ!

ときに諸君、次のように書いている人を見つけたら、その批評家の不明を笑おうではないか! 曰く「今回のリサイタルでは、徹頭徹尾、聴き手を楽しませることに専心したプティボンだ。たおやかで、清楚な美しい声の響きを犠牲にして、キャバレー歌手を演じた。もはや西洋に芸術はないのだ。」また曰く「日本人は芸術、芸術などというが、下らない話だ。ひたすら娯楽、娯楽、娯楽。それでよいではないか。プティボンは、ただ客引きパンダのように、いろいろな仕掛けを並べただけだ。それに客席は熱狂した。それでいいのだ。」

次のようにいう批評家は、まだマシなほうである。曰く「プティボンは、ただ歌うだけでは、もはや聴き手はついて来ないと考えているのだ。彼女が創意工夫を凝らして、素晴らしい歌に肉づけして歌ってみたことは、まことに意義ぶかい。」また曰く「彼女の想いは、芸術の大衆化という焦点にまとまる。彼女はプログラムを厳選し、有名ではなくとも繊細なポエジーに満ちた作品を歌った。それらに少しばかりの工夫を凝らせば、客席を楽しませられるはずだと考えたのだ。」

また次のようにいう評論家は、正直ではあるが、参考にはならない。曰く「私には、プティボンが何をしたいのか、よくわからなかった」また曰く「彼女は本当に、『永遠の不思議少女』だった。その奇想天外な発想はばからしくもあるが、同時に、彼女の卓越した表現の柔らかさを示しており、この不思議なソプラノ歌手の、最大の魅力を形成している。」または、少しポエティックになって、このように言ってみる。「彼女が見せるパフォーマンスは理解不能だ。しかし、その謎めいた部分から薫る、美しくもカラフルな果実は、かの禁断の果実なのか。」

ばかばかしい!

私は、このように書く。プティボンは本当に知性に溢れた歌手だった。少しやりすぎる部分はあるが、アメリカのショー・マン・シップ、ラテン系の明るさ、そして、皮肉好きなフランス気質を、そのパフォーマンスのなかに詰め込んだリサイタルは、夢のようだ。確かに、もうすこしじっくりと、彼女の歌を聴きたいという想いは禁じ得ない。だが、プティボンが随所にみせたテクニックの凄さは、断片的だけれどもはっきりとわかったはずだ。

アンチ・オペラともいえる「フィガロ」の2つの歌は独特で、あまりにも完璧な歌のおかげで、ぐうの音も出ないほどに衝撃的だった。すなわち、バルバリーナのカヴァティーナ「失くしてしまった」と、つづくスザンナのアリア「恋人よ、早くここへ」を連続して歌ったのだが、照明を真っ暗にして、ピアノだけに薄いスポットを当てる。歌手は見えない。手もとにもつカラフルに色の変わるライトだけが、あやしく光っている。バルバリーナは暗闇で鍵を探すのだから、それでもいいのだが、スザンナはそういう場面ではない。照明こそ少し明るくなったが、相変わらずプティボンはシルエットだ。先ほどのライトを傘に装着し、それをひらひらとはためかせながら歌うのだ。ライトが少しだけ明るくなり、スザンナたちの運命に薄い光がさした。これだけで、立派な演出になっているのに、その道のプロである演出家たちのアイディアというのは、これよりはるかに饒舌で、かつ効果がない。これは、やられた!

英語の発音はやや訛りがきついようだが、幸い、声の美しさと誠実な歌いまわしのおかげで、さほど不快には思われない。アンコールで歌った「さくら、さくら」が、確かに日本語としてはインチキであっても、本当に胸に刺さる美しさだったのと同じだ。コープランドではおふざけもあったが、キラキラ、チーンと楽器を鳴らしながら、物凄い緊張感でうたうララバイ「小さな馬たち」なんて、背中がぞっとするぐらいに美しい。目下、プティボンお嬢様は打楽器に興味津々のようで、先の「さくら、さくら」で小さなシロフォンを使ったり、筒に小豆かなにか知らないが、何かを入れ、それをひっくり返すことでサラサラと鳴らして、こころが砕けていくような雰囲気を醸し出していた。パーカッションの扱いが、とてもよく訓練されているように見えたのは、一朝一夕で出来あがったパフォーマンスではないことの証だろう。

さて、やはりプティボンといえば、フランスの語の発音の美しさだ。別にフランス人だから、母国語は特別だというのではない。デセイだのなんだの、フランス人ならみな同じという気はさらさらない。プティボンだから言うのだ。彼女の発音の美しさは、実に音楽的なもので、声の音色というか、そのような要素では右に出る者がないほど、洗練されたものなのだから。最初のアーンをはじめ、ロザンタール、プーランク、サティ、アブルケールなどで、彼女が聴かせてくれた言葉の味わいというのは、ちょっと他では味わえない。

アーンの3曲目「葡萄摘みの3日間」が、この日の白眉だ。歌詞は、多分、片想いと思われる男性が、憧れの女の人に告白することもできないまま、彼女が突如として亡くなってしまうまでの3日間の、ほんの断片を描いているようだ。繊細で、か細い歌のラインが指定されているが、ある意味では難しい、この精密な構成を完璧に歌い上げたのは賞賛に値する。我々が声楽をやっていたとき、二期会の所属であるヴォイトレの先生は、天井から釣られるようにリラックスして歌えといっていた。それが誰もできなかったのだが、プティボン、正しく釣られている。そうか、こういうことであったのかと、いまさらわかっても遅い!

超のつくほどの名曲「愛の小径」、そして、「ヴィオロン」というプーランクのプログラムは、言葉の美しさを楽しむには、これ以上もない素晴らしい素材。特に、後者は、先ほどの「葡萄摘み」とどちらが一番かと迷うほど、優れた歌唱だ。言葉の発音から紡ぎだされる雰囲気が、そのまま声という形をとり、我々に語りかけてくる。これはスペイン語だが、コレ「ラバ引きたちの人生」は、「ラバ引きたちの人生は/そりゃ辛い人生/昼はミサに行かれず/夜はまるで眠れず」というアイロニカルな歌詞だが、ここに起伏の激しいすごい音楽がついているので、どう反応していいかわからない。ソット・ヴォーチェの美しさを堪能した。

ちなみに、偉そうなことを書いてはいるが、フランス語はまったくわからないことを、念のため付記しておこうか。

なお。ピアニストのマチェイ・ピクルスキの音楽性の高さにも驚いた。カラフルで、繊細な表現力をもつ、優れたピアニストだった。プティボンのコメディにもつきあい、よく息があっている。彼のことを気に入った聴衆も多いのではないか。

それにしても、プティボンのパフォーマンスは本当によく考えられている。先程、いろいろな批評を想定して、簡単な風刺をやってみたけれど、実際は、どこをどう切り取っても楽しめるように、考えてのやり方だろう。パーカッションについて喋ったが、動物の鳴き真似も、コントも、ショー・ガールのような振る舞いも、全部本気でやっているから、笑えるのだ。しっかり練習して、舞台でやれるレヴェルになっている。そういう意味で、オペラのことなんて何も知らない子どもたちから、口うるさいオペラ通まで、ちゃんと説得できる内容であったと思う。要は、自分の受け取りたいように受け取ればいい。そういうパフォーマンスをつくった人が凄い!

4月12日、東京オペラシティにて。
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2008/4/13

エリシュカ ドヴォルザーク 交響曲第6番 札幌交響楽団 508回定期 4/11  演奏会

【はるばる来たぜ、サッポロ!】

札幌交響楽団の演奏を聴きに、北の大地まで出かけてきました。目的は、以前からご紹介しているエピソードで、札響の首席客演指揮者に任命され、今シーズンの開幕を飾ったラドミル・エリシュカの指揮に接するためです。KITARAというホールにも興味があったし、ドヴォルザークの6番については、このページでも分析を入れましたが、かなりの思い入れがあります。エリシュカが日本に来て、あのKITARAで、ドヴォルザークの6番を振るなんて、神さまが私を札幌に手招きしてくれたとしか思えません!

さて、結論からいうと、本当に行ってよかった。神さまというのはいるものです。というか、私以上に神さまに感謝しているのは、札響のメンバーなのかも! 本当に、東京でもなかなか味わえない特別なコンサートでした。

【タラス・ブーリバは札響の伸びしろ示す】

前プロのヤナーチェクの狂詩曲「タラス・ブーリバ」。これは、曲が難しいです。しかし、札響はよくカヴァーして、楽曲のキャラクターをしっかり伝えてくれたのではないでしょうか。第1楽章でオルガンが祈りの声を上げる場面は、教会で振っていたこともあるというエリシュカの導きもあり、静かで信仰心に満ちたものになりましたし、第2楽章のリズムのくっきりした演奏。これも、エリシュカの特徴でもあります。第3楽章の最後で全奏になる部分の響きの勇壮さなど、印象に残る部分もありました。ただ、全体に楽曲を掴みきっていない印象は拭えず、アタックが縮こまって小さくなっているように感じられます。このあたりは、札響の伸びしろということになると思います。

【この上なく繊細な詩情、伊藤恵のモーツァルト】

エリシュカのコンサートで、協奏曲はいらないのではないかとも思いましたが、伊藤恵のピアノ独奏による、モーツァルトの24番は稀にみる良い演奏になりました。繊細な詩情を浮かび上がらせる伊藤のピアニズムを、この日のエリシュカと札響ほど完璧に引き出した演奏を、私は知りません。フルネのときは、伊藤が奥さんのように寄り添う演奏でした。この前の、紀尾井ホールでの広上との演奏(20番)は、協奏曲の名人である広上だけに、伊藤の清楚なピアニズムが十分に堪能できたものの、楽曲全体のイメージについては、指揮者が握っていました。今回こそ、伊藤が思い描いたモーツァルトの世界が、そのまま鳴り響いていたのです。

エリシュカは、伊藤の描きたいイメージを瞬時に読みとって、その艶やかな表現力をゆったりと引き伸ばし、オーケストラが、絶対にそれを踏みつぶさないようにしました。伊藤の表現は、詩的で情感に満ち、ひとつひとつの音が生きているのです。全体としては、優しくその響きを大切にし、ときには、外核を踏み固めるようにしてソリストを支え、それらの塩加減がなんともいえない演奏だったのです。札響のメンバーも、指揮者に無理やり抑えられるのではなく、本当に自然な形で美しいダイアローグを織りなしていったので、協奏曲を聴いているというよりは、室内楽のようなイメージで受け取ることができます。少ない編成の中で、木管が繊細に歌っていたのも印象的。弦は透明感があり、推進力に満ちています。札響はじめてですが、驚くほど巧かったのは、いつものことなのか。エリシュカだからなのか。たった1箇所だけ、最後の最後でピアノのパッセージを受け取って、轟然とした響きが立ち上がる部分だけがオケの優位で、そこの響きの濃厚な印象もこころに残ります。

全体としては、まるで伊藤が隅から隅まで自分で織り上げたような曲づくりで統一感があり、響きは基本的に少なめですが、随所に意識的なヴィブラートが加えられています。チェコ人のモーツァルトは重くなりがちで好きではないのですが、エリシュカの演奏はその一歩手前、ギリギリのところでうまいバランスを得ているようです。音色もヤナーチェクとはまったく異なり、エリシュカのひきだしの多さを確認することになりました。なんといっても、伊藤の独奏の美しさだけではなく、表面的ではない表現の中心にまで掘り下げてからオーケストラの響きをつくっているのだけれど、多分、それは予定調和的なものでないと言いきれるのは、第1楽章のはじめのほうからピアノの弾きだしを経て、少しずつ・・・しかし、劇的にアジャストされていく響きの変容を確認しているからです。

【新しい発見!?】

メインは、既に述べたようにドヴォルザークの6番。この演奏の素晴らしさについて、なんと表現すべきかがよくわかりません。最初の細かい刻みから、管の呼び交わし、そして弦が入ってくるときの響きで、驚きました。大げさにいえば、スカイマークに乗って私がやってきたのは、札幌ではなく、プラハ・・・いや、ブルーノだったのではないかという、そんなチェコのオーケストラの響きがしたからです。刻みは跳躍感に満ち、管の呼び交わしは響きが明るく、長閑。その陽光のなかに、そよそよと吹いてくる風のような弦の響き。この雰囲気が途切れないのです。この日の演奏を語るに、このことが本当に重要だと思います。

私はこの曲を本当に愛していたために、隅から隅まで、よく知っているように勘違いしていました。しかし、エリシュカの演奏は、そのようなイメージがいかに幼いものであり、知らず知らずのうちに、その特徴を単純化していたことに気づかせてくれました。

このページで何度か述べてきたように、この曲はバランスが大事です。管と弦が助けあって響くときに、いちばん美しく聴こえるように、精緻なデザインが施されています。単にハーモニーをつくるというだけでなく、追いつ追われつ、拾い起こしたり拾い起こされたりして、全体をきれいに編み上げていくのです。それはバランスの問題だけではなく、例えば、ウィーン的な要素とスラヴ的な要素という曲想的なものにも反映され、これらが複雑に、いや、シンプルに組み合わされて、楽曲は鮮やかなフォルムを描いていきます。そして、また、それが崩れたときの響きの恐ろしいまでの底深さとが対比され、結局は、最後の楽章のクライマックスに現れるユニゾンを最高の到達点とし、響きの解決に、平和への想いを託して、ドヴォルザークは祝祭的なフィナーレをつくります。スラヴを代表する踊りの要素が横溢するものの、そこにブラームスの交響曲第2番を連想させるフォルムを下地として使うことで、幾重にもメッセージを重ねているように思えます。ドヴォルザークとブラームスの友情を通して、独墺的なフォルムの重みを挿入しながら、それらの融合を図るとともに、一方では、そうした壁を庶民のエネルギーで乗り越えていこうとする意志が明確です。

確かに、この日の演奏も響きと響きの結びつきが柔らかく、次はどのように響きが繋ぎあわされていくのかと、楽しみになる演奏でもありました。この点、札響のパフォーマンスには満足です。しかし、私の発想が完全に切り替わったのは、第1楽章のおわりのほうで、唯一、弦だけのアンサンブルが整然と書き込まれ、しかも、美しく響く部分があることに気づいたことです。先程の原則でいけば、ここでは不穏な響きになるはずなのに、そうはならない。そこには、秘密がありました。本来ならば、金管を重ねるように書かれるべき部分に、実際の響きはない。ないけれども、聴こえているのです。それは本当に金管が入ってくるときの、鮮やかな溶けあいで明らかになります。これこそ、エリシュカが教えてくれたものでした。ドヴォルザークはここで、金管を敢えて抜きましたが、そのことがかえって、弦と管の絆の深さを教えてくれるのです。それが、この楽章のフィナーレの昂揚に、一味を添えるかのようです。

同じような発見は、第3楽章にあります。非常に賑やかな楽想ですが、ここで抜かれている楽器がひとつあります。トロンボーンです。そこに気づいたとき、私は、ドヴォルザークの思慮深さに、改めて感嘆させられました。多分、ここでトロンボーンのつよい響きが挿入されると、弦や木管のプレゼンスを押しつぶしてしまうことになりかねないのです。なお、第3楽章は、全体的にゆったりしたテンポが選ばれています。舞曲のリズムを、この速さで整然と刻んでいくのは難しいと思われた最初の部分に対し、トリオの歌い方にぴったりと来たことで一味、次いで、A部が再帰したとき、ついさっきまで困難としか思えなかったテンポに、不思議とはまるフォルムの面白さでもう一味。ほんの僅かなアクセルの加減なのですが、ここの処理も印象的です。フリアントの部分で印象的なのは、すこし静かになる部分で高声部がメロディを奏でるとき、ヴィオラが入れる合いの手でしょうか。そこへ頻りと指示を送っていましたが、なるほど、ここがぐっと浮かび上がると、アンサンブル全体がしゃきっとするようでした。

第4楽章では、ここまで述べてきたような仕掛けでいっぱいですが、それらはどこかイメージが拡散しています。例えば、最近のビエロフラーヴェク(BBC響)の録音では驚くべき緻密さで、これらのアイディアはきれいに結びあわされています。エリシュカはしかし、そんな神業を信じていません。ドヴォルザークは中間のユニゾンに至るまで、どこかに必ず隙をつくって、右に揺らし左に傾けたりして、推進力にしているのです。エリシュカの場合、まず、その部分の凋琢がとても丁寧で、構造的にしっかりしています。それだからこそ、全体として組み上げたときに、どこかにひずみが聴こえるのです。ところが、ユニゾンの部分で束ねられた響きは、その後、どこをとっても響きに無理がないようになり、たとえ弦と管のどちらかが浮かび上がる部分でも、もう片方の存在感が決してなくなっていない。静まっているほうは、あたかも他方の演奏に耳を傾けているような感じに聴こえます。その喜びに呼応するように高揚していく響きを、ぐっとテンポを抑えて受け止め、最後の高速なフレーズに流し込んでいくあたりの、手さばきの凄さ!

第4楽章に関しては、ドイツ人のような演奏です。ブラームスの影響がよく言われますが、それを敢えて強調するというよりは、きっちりやれば、自然とそうなるということです。ドヴォルザークはこっそり引用したのではなく、堂々と、ブラームスとの友情を歌ったのでしょう。先のビエロフラーヴェクが勢いで突破していくのと比べると、エリシュカの芸の細やかさは歴然としていますね。拍節感をしっかりと守り、かつ、情熱的に歌う。その間に、まったく齟齬がないのです。

白眉は、第2楽章です。各パーツの磨き込みがいきわたっており、全体が深い緊張感で結ばれ、響きを受け渡しながら去っていくまでのやりとりが、本当に丁寧なのです。オケも頑張っているし、エリシュカとはこういう音楽をつくる人なのだということが、よくわかる楽章だったように思います。もうひとついえば、このコンビがいかなる絆を育んでいるかの証となる楽章であり、この人のためならば、どんな困難だって乗り越えてみせるというメッセージと、彼らのためなら一身を擲とうというエリシュカの想いが、あの静かな楽章のなかで、めらめらと燃え上がっていました。あまり具体的ではないですが、それを書く気がしないし、文字にできるものでもない。私はただ、このパフォーマンスを息を詰めて見守るよりほか、ありませんでした。

【まとめ・・・エリシュカを讃えて】

エリシュカは、この曲を大事なときにもってくる、特別な曲としているようです。それは多分、彼の回り道した人生と切っても切り離せない愛着でしょう。このシンフォニーは作曲当時、チェコのほか、ロンドンなどではつよく支持され、数多く演奏されたという楽曲です。しかし、ドヴォルザークが多分、もっともつよく演奏したいと願っていたウィーンでは、結局、演奏することができなかったのです。私はエリシュカのことを、悲劇的なヒーローのようには描きたくはないけれど、もしも彼が順調に、それこそビエロフラーヴェクのような人生を送っていたならば、この素晴らしい札響との出会いもなかったでしょう。人間万事塞翁が馬。とにかく、このような演奏がこの日、聴けたということを素直に喜びたいのです。

エリシュカは、それはチェコの作曲家の作品には、使命のようなものを感じているのだろうけれど、それしか弾けないというわけでもなく、拍節感など、ドイツ的な基本をしっかり身につけており、読みも深そうです。また、音色も豊富で、既に述べたようにひきだしの多い指揮者でした。ヤナーチェク・モーツァルト・ドヴォルザークと、それぞれにまったく響きが違いましたね。私が言うべきことではないけれど、これは、紛れもなく本物の、そして際立って優れた・・・というのが薄っぺらなら、骨の髄まで鍛え上げられた指揮者と言っておきましょうか。

私は貧乏人であるし、そうそう札幌まではいけないけれども、エリシュカが来るときだけは、何としても行きたい。チェコと比べれば、札幌のなんと近いことでしょうか! そして、そのときエリシュカが祖国の作品を取り上げるならば、少しばかり繊細な感覚の持ち主ならば、チェコ旅行をするのとなんら変わりない感動があるはずです。こんな人を逸早く捉まえた、札響の英断を喜びたいです!

【補足・・・KITARAと札響について】

余談ながら、はじめてのホール KITARAについても、すこし述べます。まず目前に立ってみて驚いたのは、その大きさです。さすが北海道だけあって、スケールが凄い。ここに、小ホールも入っているんですね。大ホールは2000席です。席数が多いのですが、かなり親密なレイアウトになっていて、いちばん奥であっても、舞台がはるか遠くという感じはしません。基本的なつくりはミューザ川崎に似ていて、無駄な響きが生じず、演奏家のしたいことが素直に伝わる音響デザインもよく似ています。ゆったりしたロビーはとても広く、アメニティが美しい。バーが1階・2階の3箇所に設置されていて、ゴージャスです。札響のコンサートはボランティアも多く、たくさんのグッズを売ったりしていて賑やか。札響はプログラムに会員の名前を載せていますが、これが凄い数です。ちゃんと数えていませんが、ざっと見たところ、2日間で最高4000名は入る聴衆のうち、およそ半数ぐらいが会員で占められることになりそうです。開演前にはいつも、室内楽のプレ・コンサートが催されているそうで、この日はやたら難しい曲を弾いていましたね。こんな居心地のよいホールは少ないと思います。


【プログラム】 2008年4月11日

1、ヤナーチェク 狂詩曲「タラス・ブーリバ」
2、モーツァルト ピアノ協奏曲第24番
 (pf:伊藤 恵)
3、ドヴォルザーク 交響曲第6番

 コンサートマスター:伊藤 亮太郎

 於:札幌コンサートホール KITARA
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