2008/4/1

下野竜也 白鳥の湖 ほか N響 NOMORI イベント・ウィーク 3/30  演奏会

東京のオペラの森は、初年度にオーケストラ公演を聴いて酷かったために、翌年からは敬遠していたが、そのうちに周辺企画を広げだし、メインとなるオペラの作曲家を、周辺の公演で掘り下げていくような形になりつつあるのは面白い。「NOMORI イベント・ウィーク」と称する、それらの公演のうちのひとつとして、今回のN響の企画も位置づけられる。今回のオペラは「オネーギン」であるから、チャイコフスキーのプログラムだ。指揮は下野竜也。コンマスは、篠崎史紀。

1、スラヴ行進曲 1876年
2、幻想曲「テンペスト」 1873年
3、バレエ音楽「白鳥の湖」(抜粋) 1876年

参考:歌劇「エフゲニー・オネーギン」 1877−78年

はじめにプログラムと、初演の年代を示してみた。「テンペスト」は、その後のチャイコフスキーにとって、重要なパトロンとなるフォン・メック夫人に認められた作品といわれる。それ以前に優れた作品が全くないわけではないが、このあたりから、チャイコフスキーの本格的な活動がはじまるといって差し支えない。蓋し、彼の評価を決定的とするこの日のメイン「白鳥の湖」、そして、最初のオペラ作品「オネーギン」に辿り着くまでの大事な時期が、ここで取り上げられたことになろうか。なお、1873年は交響曲第2番の初演の年であり、オネーギンの完成した1878年には、交響曲第4番が初演されている。

いきなり歴史的なことについて書きだしたのは、そういう要素が大事なコンサートだったように思ったせいである。「スラヴ行進曲」は1877年からの露土戦争の直前、トルコからの独立をめざすセルヴィアの戦傷兵に対する、チャリティーのために作曲された。下野とN響の演奏は、正にそういう背景を髣髴とさせる。厳しい緊張感が全体を覆っており、激しい全奏部分は、ほとんど戦争の実況中継ではなかろうか。弦管の押しあいがはちきれそうなほどであり、中身の詰まった演奏に感動した。というより、恐ろしい演奏だった。それは、最後の「白鳳の湖」にも重なる。

この音楽を聴いた当時の人たちは、どんな風に反応したのだろうか。男たちは愛国心を揺さぶられて、激しくわきあがり、女たちや子どもらは、きっと、泣きながらコインを投じたに違いない! 

一転して、幻想曲「テンペスト」は、柔和な演奏である。原作のテンペストには、かつて自分を裏切って追放した弟と結託して王となったナポリ王を赦し、無事に帰国させるという筋がある。そこに託されたメッセージがあるのだろう。今回のパフォーマンスは、序盤の金管が最近のN響らしく出来が悪く、海の描写が安定しないので、イメージが狂ってしまう。木管も引きずられた。中間の愛の描写から急速に持ちなおし、全体として良い演奏だった。大昔から多くの作曲家がアイディアを競った、嵐の部分のゆたかな発想をひとつひとつ丁寧に提示する一方、「2人の恋」の何も起こらない部分を粘りづよく演奏し、金管を主体とした海の描写に再起する直前のクライマックスまで、丁寧にもっていったのが印象に残る。よく辛抱した演奏。

下野は3度、呼び出されるために表に出かけたのだが、拍手は長くは続かず。これはきっと、聴衆たちが、ここで演奏者を解放するわけにはいかないと思ったからであろう!(←きわめて高等な冗句です!)

メインの「白鳥の湖」は、序奏、ワルツ、情景、4羽の白鳥、オーデットと王子のパ・ダクシオン、ハンガリーの踊り、スペインの踊り、終曲と、誰もがいつか、どこかで聞いたことのある音楽がつづいた。しっかりした手ごたえのある<序奏>から、<ワルツ>冒頭の柔らかな演奏まで締まっており、しなやかに伸びていく響きが特徴となる。なんといっても、オーボエの瑞々しい響きが耳に残る。

<4羽の白鳥>は、とても軽い演奏。<パ・ダクシオン>は序盤のハープが素晴らしかったが、ヴァイオリン・ソロが篠崎にしてはやや硬めだったのを、全体でカヴァーしていくときの一体感が、かえって印象に残ることになった。篠崎コンマスはソロで目立とうとかいうよりは、全体のアンサンブルのなかで、自分の響きをどのように位置づけるかに腐心しているかのようだった。下野も全体をバックグラウンドにせず、独奏ヴァイオリンと対等にすることで、より充実した響きのデザインを練り上げている。

後半の3つのピースは、いずれも完成度が高い。<ハンガリーの踊り><スペインの踊り>は、それぞれの特徴が明確に打ち出されており、文句のつけようがない。ハンガリーでは弦のシャープな動きが素晴らしく、スペインでは、パーカス部隊がいきいきとした活躍をみせた。つぶしたオーボエの音で始まった<終曲>は、この流れのなかでやや唐突な感じはするものの、美しく壮麗なファサード立ち上がると、細かいことはどうでもよくなる。ここも有名な旋律が明確に現れる頂点まで、よく粘って、エネルギーを温存してぶち当たる効果が凄い。クライマックスは、やや引き延ばして溜めをつくり、弦の美しい旋律で一気に解放する。後半、転調する部分からの響きの明るさが、下野の真骨頂。弦管が厳しく押しあう演奏は、愛の頂点で、悲しい運命に落下していくドラマを象徴的に物語る。弦のプレゼンスと、金管の張り詰めた響きが目立つが、響きが拡散しないように、内声の糊付けがポイントになっており、パーカッションのコートも効いている。

最後の響きをつくるときの、篠崎のダイナミックなアクションは、とにかく出しきったという満足感を表するかのようだ。燃焼度の高い演奏だが、しまいは弾きすぎず、再び涙の湖となった場景をしっかり織り込んだ、繊細なポエジーを浮かび上がらせての終演である。

ときに演奏は演奏として、「スラヴ行進曲」と「スワンレイク」は、同じ年の初演なのだと、いまにして気づく。涙の湖(白鳥の湖は、オーデットが白鳥にされてしまったのを嘆く母親の涙でできた)は、戦いに散っていった兵士と、家族たちの想いを象徴するのかもしれない。だから、序奏は、あんな胸をうつ悲しげな旋律にはじまるのか。R.シュトラウスが、「ばらの騎士」第2幕のおわりで象徴的に示しているように、宴のワルツは、ときに、その華やかさゆえに寂しい。全奏部分で、ときに恐ろしいまでにゴージャスな響きがつくのは、そういうことなのかもしれない・・・と思うと、ゾッとするのだ。

今回の演奏は、そうした視点まで守備範囲に入れての、下野の冷淡なまでの音楽づくりの厳しさと、それとは裏表に存在する生来のやさしさが、適度にブレンドされたものだったように思える。彼には、チャイコフスキーが描こうとした暗闇がしっかり見えているのだが、それをそのまま描き出すのではなく、そのとき、作曲家のなかに必ず存在したはずの、希望のようなものを膨らましたいと願う。誰にでも、「テンペスト」のプロスペローのような気高さが、きっと備わっているはずだと信ずるのだ。

その意味で、アンコールに演奏された「花のワルツ」の平和さは、何物にも代えがたいものだった。ところで、チャイコフスキーのメルヒェン・バレエ「ナッツ・クラッカー」は、なぜ書かれたのだろうか・・・そんなことも書いてみたくなるが、それはまた別の機会に!
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