2008/4/13

エリシュカ ドヴォルザーク 交響曲第6番 札幌交響楽団 508回定期 4/11  演奏会

【はるばる来たぜ、サッポロ!】

札幌交響楽団の演奏を聴きに、北の大地まで出かけてきました。目的は、以前からご紹介しているエピソードで、札響の首席客演指揮者に任命され、今シーズンの開幕を飾ったラドミル・エリシュカの指揮に接するためです。KITARAというホールにも興味があったし、ドヴォルザークの6番については、このページでも分析を入れましたが、かなりの思い入れがあります。エリシュカが日本に来て、あのKITARAで、ドヴォルザークの6番を振るなんて、神さまが私を札幌に手招きしてくれたとしか思えません!

さて、結論からいうと、本当に行ってよかった。神さまというのはいるものです。というか、私以上に神さまに感謝しているのは、札響のメンバーなのかも! 本当に、東京でもなかなか味わえない特別なコンサートでした。

【タラス・ブーリバは札響の伸びしろ示す】

前プロのヤナーチェクの狂詩曲「タラス・ブーリバ」。これは、曲が難しいです。しかし、札響はよくカヴァーして、楽曲のキャラクターをしっかり伝えてくれたのではないでしょうか。第1楽章でオルガンが祈りの声を上げる場面は、教会で振っていたこともあるというエリシュカの導きもあり、静かで信仰心に満ちたものになりましたし、第2楽章のリズムのくっきりした演奏。これも、エリシュカの特徴でもあります。第3楽章の最後で全奏になる部分の響きの勇壮さなど、印象に残る部分もありました。ただ、全体に楽曲を掴みきっていない印象は拭えず、アタックが縮こまって小さくなっているように感じられます。このあたりは、札響の伸びしろということになると思います。

【この上なく繊細な詩情、伊藤恵のモーツァルト】

エリシュカのコンサートで、協奏曲はいらないのではないかとも思いましたが、伊藤恵のピアノ独奏による、モーツァルトの24番は稀にみる良い演奏になりました。繊細な詩情を浮かび上がらせる伊藤のピアニズムを、この日のエリシュカと札響ほど完璧に引き出した演奏を、私は知りません。フルネのときは、伊藤が奥さんのように寄り添う演奏でした。この前の、紀尾井ホールでの広上との演奏(20番)は、協奏曲の名人である広上だけに、伊藤の清楚なピアニズムが十分に堪能できたものの、楽曲全体のイメージについては、指揮者が握っていました。今回こそ、伊藤が思い描いたモーツァルトの世界が、そのまま鳴り響いていたのです。

エリシュカは、伊藤の描きたいイメージを瞬時に読みとって、その艶やかな表現力をゆったりと引き伸ばし、オーケストラが、絶対にそれを踏みつぶさないようにしました。伊藤の表現は、詩的で情感に満ち、ひとつひとつの音が生きているのです。全体としては、優しくその響きを大切にし、ときには、外核を踏み固めるようにしてソリストを支え、それらの塩加減がなんともいえない演奏だったのです。札響のメンバーも、指揮者に無理やり抑えられるのではなく、本当に自然な形で美しいダイアローグを織りなしていったので、協奏曲を聴いているというよりは、室内楽のようなイメージで受け取ることができます。少ない編成の中で、木管が繊細に歌っていたのも印象的。弦は透明感があり、推進力に満ちています。札響はじめてですが、驚くほど巧かったのは、いつものことなのか。エリシュカだからなのか。たった1箇所だけ、最後の最後でピアノのパッセージを受け取って、轟然とした響きが立ち上がる部分だけがオケの優位で、そこの響きの濃厚な印象もこころに残ります。

全体としては、まるで伊藤が隅から隅まで自分で織り上げたような曲づくりで統一感があり、響きは基本的に少なめですが、随所に意識的なヴィブラートが加えられています。チェコ人のモーツァルトは重くなりがちで好きではないのですが、エリシュカの演奏はその一歩手前、ギリギリのところでうまいバランスを得ているようです。音色もヤナーチェクとはまったく異なり、エリシュカのひきだしの多さを確認することになりました。なんといっても、伊藤の独奏の美しさだけではなく、表面的ではない表現の中心にまで掘り下げてからオーケストラの響きをつくっているのだけれど、多分、それは予定調和的なものでないと言いきれるのは、第1楽章のはじめのほうからピアノの弾きだしを経て、少しずつ・・・しかし、劇的にアジャストされていく響きの変容を確認しているからです。

【新しい発見!?】

メインは、既に述べたようにドヴォルザークの6番。この演奏の素晴らしさについて、なんと表現すべきかがよくわかりません。最初の細かい刻みから、管の呼び交わし、そして弦が入ってくるときの響きで、驚きました。大げさにいえば、スカイマークに乗って私がやってきたのは、札幌ではなく、プラハ・・・いや、ブルーノだったのではないかという、そんなチェコのオーケストラの響きがしたからです。刻みは跳躍感に満ち、管の呼び交わしは響きが明るく、長閑。その陽光のなかに、そよそよと吹いてくる風のような弦の響き。この雰囲気が途切れないのです。この日の演奏を語るに、このことが本当に重要だと思います。

私はこの曲を本当に愛していたために、隅から隅まで、よく知っているように勘違いしていました。しかし、エリシュカの演奏は、そのようなイメージがいかに幼いものであり、知らず知らずのうちに、その特徴を単純化していたことに気づかせてくれました。

このページで何度か述べてきたように、この曲はバランスが大事です。管と弦が助けあって響くときに、いちばん美しく聴こえるように、精緻なデザインが施されています。単にハーモニーをつくるというだけでなく、追いつ追われつ、拾い起こしたり拾い起こされたりして、全体をきれいに編み上げていくのです。それはバランスの問題だけではなく、例えば、ウィーン的な要素とスラヴ的な要素という曲想的なものにも反映され、これらが複雑に、いや、シンプルに組み合わされて、楽曲は鮮やかなフォルムを描いていきます。そして、また、それが崩れたときの響きの恐ろしいまでの底深さとが対比され、結局は、最後の楽章のクライマックスに現れるユニゾンを最高の到達点とし、響きの解決に、平和への想いを託して、ドヴォルザークは祝祭的なフィナーレをつくります。スラヴを代表する踊りの要素が横溢するものの、そこにブラームスの交響曲第2番を連想させるフォルムを下地として使うことで、幾重にもメッセージを重ねているように思えます。ドヴォルザークとブラームスの友情を通して、独墺的なフォルムの重みを挿入しながら、それらの融合を図るとともに、一方では、そうした壁を庶民のエネルギーで乗り越えていこうとする意志が明確です。

確かに、この日の演奏も響きと響きの結びつきが柔らかく、次はどのように響きが繋ぎあわされていくのかと、楽しみになる演奏でもありました。この点、札響のパフォーマンスには満足です。しかし、私の発想が完全に切り替わったのは、第1楽章のおわりのほうで、唯一、弦だけのアンサンブルが整然と書き込まれ、しかも、美しく響く部分があることに気づいたことです。先程の原則でいけば、ここでは不穏な響きになるはずなのに、そうはならない。そこには、秘密がありました。本来ならば、金管を重ねるように書かれるべき部分に、実際の響きはない。ないけれども、聴こえているのです。それは本当に金管が入ってくるときの、鮮やかな溶けあいで明らかになります。これこそ、エリシュカが教えてくれたものでした。ドヴォルザークはここで、金管を敢えて抜きましたが、そのことがかえって、弦と管の絆の深さを教えてくれるのです。それが、この楽章のフィナーレの昂揚に、一味を添えるかのようです。

同じような発見は、第3楽章にあります。非常に賑やかな楽想ですが、ここで抜かれている楽器がひとつあります。トロンボーンです。そこに気づいたとき、私は、ドヴォルザークの思慮深さに、改めて感嘆させられました。多分、ここでトロンボーンのつよい響きが挿入されると、弦や木管のプレゼンスを押しつぶしてしまうことになりかねないのです。なお、第3楽章は、全体的にゆったりしたテンポが選ばれています。舞曲のリズムを、この速さで整然と刻んでいくのは難しいと思われた最初の部分に対し、トリオの歌い方にぴったりと来たことで一味、次いで、A部が再帰したとき、ついさっきまで困難としか思えなかったテンポに、不思議とはまるフォルムの面白さでもう一味。ほんの僅かなアクセルの加減なのですが、ここの処理も印象的です。フリアントの部分で印象的なのは、すこし静かになる部分で高声部がメロディを奏でるとき、ヴィオラが入れる合いの手でしょうか。そこへ頻りと指示を送っていましたが、なるほど、ここがぐっと浮かび上がると、アンサンブル全体がしゃきっとするようでした。

第4楽章では、ここまで述べてきたような仕掛けでいっぱいですが、それらはどこかイメージが拡散しています。例えば、最近のビエロフラーヴェク(BBC響)の録音では驚くべき緻密さで、これらのアイディアはきれいに結びあわされています。エリシュカはしかし、そんな神業を信じていません。ドヴォルザークは中間のユニゾンに至るまで、どこかに必ず隙をつくって、右に揺らし左に傾けたりして、推進力にしているのです。エリシュカの場合、まず、その部分の凋琢がとても丁寧で、構造的にしっかりしています。それだからこそ、全体として組み上げたときに、どこかにひずみが聴こえるのです。ところが、ユニゾンの部分で束ねられた響きは、その後、どこをとっても響きに無理がないようになり、たとえ弦と管のどちらかが浮かび上がる部分でも、もう片方の存在感が決してなくなっていない。静まっているほうは、あたかも他方の演奏に耳を傾けているような感じに聴こえます。その喜びに呼応するように高揚していく響きを、ぐっとテンポを抑えて受け止め、最後の高速なフレーズに流し込んでいくあたりの、手さばきの凄さ!

第4楽章に関しては、ドイツ人のような演奏です。ブラームスの影響がよく言われますが、それを敢えて強調するというよりは、きっちりやれば、自然とそうなるということです。ドヴォルザークはこっそり引用したのではなく、堂々と、ブラームスとの友情を歌ったのでしょう。先のビエロフラーヴェクが勢いで突破していくのと比べると、エリシュカの芸の細やかさは歴然としていますね。拍節感をしっかりと守り、かつ、情熱的に歌う。その間に、まったく齟齬がないのです。

白眉は、第2楽章です。各パーツの磨き込みがいきわたっており、全体が深い緊張感で結ばれ、響きを受け渡しながら去っていくまでのやりとりが、本当に丁寧なのです。オケも頑張っているし、エリシュカとはこういう音楽をつくる人なのだということが、よくわかる楽章だったように思います。もうひとついえば、このコンビがいかなる絆を育んでいるかの証となる楽章であり、この人のためならば、どんな困難だって乗り越えてみせるというメッセージと、彼らのためなら一身を擲とうというエリシュカの想いが、あの静かな楽章のなかで、めらめらと燃え上がっていました。あまり具体的ではないですが、それを書く気がしないし、文字にできるものでもない。私はただ、このパフォーマンスを息を詰めて見守るよりほか、ありませんでした。

【まとめ・・・エリシュカを讃えて】

エリシュカは、この曲を大事なときにもってくる、特別な曲としているようです。それは多分、彼の回り道した人生と切っても切り離せない愛着でしょう。このシンフォニーは作曲当時、チェコのほか、ロンドンなどではつよく支持され、数多く演奏されたという楽曲です。しかし、ドヴォルザークが多分、もっともつよく演奏したいと願っていたウィーンでは、結局、演奏することができなかったのです。私はエリシュカのことを、悲劇的なヒーローのようには描きたくはないけれど、もしも彼が順調に、それこそビエロフラーヴェクのような人生を送っていたならば、この素晴らしい札響との出会いもなかったでしょう。人間万事塞翁が馬。とにかく、このような演奏がこの日、聴けたということを素直に喜びたいのです。

エリシュカは、それはチェコの作曲家の作品には、使命のようなものを感じているのだろうけれど、それしか弾けないというわけでもなく、拍節感など、ドイツ的な基本をしっかり身につけており、読みも深そうです。また、音色も豊富で、既に述べたようにひきだしの多い指揮者でした。ヤナーチェク・モーツァルト・ドヴォルザークと、それぞれにまったく響きが違いましたね。私が言うべきことではないけれど、これは、紛れもなく本物の、そして際立って優れた・・・というのが薄っぺらなら、骨の髄まで鍛え上げられた指揮者と言っておきましょうか。

私は貧乏人であるし、そうそう札幌まではいけないけれども、エリシュカが来るときだけは、何としても行きたい。チェコと比べれば、札幌のなんと近いことでしょうか! そして、そのときエリシュカが祖国の作品を取り上げるならば、少しばかり繊細な感覚の持ち主ならば、チェコ旅行をするのとなんら変わりない感動があるはずです。こんな人を逸早く捉まえた、札響の英断を喜びたいです!

【補足・・・KITARAと札響について】

余談ながら、はじめてのホール KITARAについても、すこし述べます。まず目前に立ってみて驚いたのは、その大きさです。さすが北海道だけあって、スケールが凄い。ここに、小ホールも入っているんですね。大ホールは2000席です。席数が多いのですが、かなり親密なレイアウトになっていて、いちばん奥であっても、舞台がはるか遠くという感じはしません。基本的なつくりはミューザ川崎に似ていて、無駄な響きが生じず、演奏家のしたいことが素直に伝わる音響デザインもよく似ています。ゆったりしたロビーはとても広く、アメニティが美しい。バーが1階・2階の3箇所に設置されていて、ゴージャスです。札響のコンサートはボランティアも多く、たくさんのグッズを売ったりしていて賑やか。札響はプログラムに会員の名前を載せていますが、これが凄い数です。ちゃんと数えていませんが、ざっと見たところ、2日間で最高4000名は入る聴衆のうち、およそ半数ぐらいが会員で占められることになりそうです。開演前にはいつも、室内楽のプレ・コンサートが催されているそうで、この日はやたら難しい曲を弾いていましたね。こんな居心地のよいホールは少ないと思います。


【プログラム】 2008年4月11日

1、ヤナーチェク 狂詩曲「タラス・ブーリバ」
2、モーツァルト ピアノ協奏曲第24番
 (pf:伊藤 恵)
3、ドヴォルザーク 交響曲第6番

 コンサートマスター:伊藤 亮太郎

 於:札幌コンサートホール KITARA
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2008/4/5

スクロヴァチェフスキ ブル2 読売日本交響楽団 芸劇マチネ 4/5  演奏会

読売日本交響楽団の新シーズンが、常任指揮者・スクロヴァチェフスキの指揮で、幕を開けた。ミスターSは、加齢による衰えも感じさせず、自作品の演奏と傾倒するブルックナーができるとあって、元気いっぱい。張りきったステージである。

まず、親交のあるベテラン・ピアニストにして、米国の名門、カーティス音楽院の院長まで務めた大先生でもあるゲイリー・グラフマンを独奏ピアノに迎えての、スクロヴァチェフスキの近作「コンチェルト・ニコロ」の演奏である。グラフマンはキャリアの頂点で、ピアニストにとっての致命傷である指の捻挫により右手の自由を失い、教職に転じることになった。世界の人気者、ラン・ランの師として有名であるが、左手だけによる曲目を同時代の作曲家に委嘱しはじめ、演奏する活動も再開した。スクロヴァチェフスキのこの作品は、2003年に初演されたもの。

作品はなにか新しい奇想が感じられるわけでもないが、そのわりに、響きには新鮮さが感じられる。新しいものを付け加えていこうとか、そういった野心とは別に、彼の理想とする響きを真っすぐに追い求め、細かく織り込んでいこうとするイメージが明確だ。独奏はさほど華やかでもないが、グラフマンの左手が奏でる低音の厳しさと、明確な拍節感の印象的な中高音部の響きを、ダイレクトに想定したものと思われる。スクロヴァの作品は、以前に演奏された作品もそうだが、アイディアを凝りに凝って織り込んでいくうちに、やや長めになる傾向があるようだ。だが、この作品はその初期作品と比べると、ずっとスッキリしていて、見晴らしがいい。ペットからトロへ、フルートからオーボエへ、といった受け渡しの面白さや、弦の組織の繊細さなどに見るべきものがある。随所に印象的なティンパニーや、パーカッションの響きが、優しく練り込まれているのが、落ち着きを与える。ゲスト出演した菅原淳の、きっちりしたティンパニーの響きのせいでもあるが! グラフマンのピアノも堂々たるもので、仮に右手を失っていなかったら、今日、間違いなくトップ・ピアニストの最前列に名まえを連ねていたであろう。

ちなみに、この曲は「ニコロ」・パガニーニの op.1 のカプリースの終曲、つまり、ラフマニノフやルトスワフスキや、その他、いろいろな作曲家がアイディアを競った素材によっている。コンチェルトだが4楽章形式で、それらはつづけて演奏される。ヴァリュエーションのようでもある。だが、素材は細切れである。

ブルックナーの2番が、素晴らしかった。この曲は実演が初めてだが、録音で聴くかぎり、アイディアが拡散しており、ややまとまりのなさを感じることもあった。だが、スクロヴァチェフスキの手にかかると、自分の見識の甘さを嘆かざるを得ない。ここにはブルックナーの繊細な詩情が横溢しており、それが信仰という大伽藍に納められてしまう前の、生の表情を残している。そのことを象徴するのが、第2楽章の美しい演奏である。すこし目立つ瑕はあったが、ひとつひとつのエピソードをピンセットで並べるように、きれいに提示していき、慎重に流れをつくる。ぴんと張りつめた緊張がつづき、まるで室内楽のような雰囲気である。決して派手ではない。優しく、語りかけるような響きだ。

弦のピッチカートのうえに、のんびりしたホルンの響きが踊る見せ場。深い「ブルックナー休止」。管と弦のダイアローグの緊張とその弛緩、瞬間ごとに移り変わっていく、繊細な色彩感に透徹となりながら、時間を過ごす。後半は、コントラバスの深い溜息。再び休止、ほんの短いクライマックス、しまいの艶やかな収め方まで、どのエピソードも、正しく溜息が出るほどに美しく、超のつくほどに丁寧な音の扱いには恐れ入った。こんなブルックナーの演奏は、聴いたことがない! 最後、響きが消えてしまっても、指揮者が手を下ろすまで、左手をゆすっていた毛利伯郎のしぐさが印象的だ。

中間2楽章が、充実した演奏だった。完成度という点だけでいけば、第3楽章が上を行く。とにかくアンサンブルの精度がすごい。この日は、リズムの点で神が降りていたスクロヴァに導かれ、スケルッツォに相応しい跳躍感があり、ふくよかな拍節感、ごまかしのない厳密なアンサンブル。どこをとっても隙がないのだ。ところが、それは堅苦しいフォルム重視の響きではなく、とにかく歌に溢れている。スクロヴァ自身も歌っていたようだけれど! 菅原のティンパニーから導かれる、コーダの切れ味も格別だった。

ブルックナーの場合、両端はそれなりに演奏すれば、効果が上がりやすい。中間の楽章がこれだけ充実していると、演奏は高く評価できる。

両端楽章は、第1楽章はホルンの目立つ吹き損ないなどあり、やや隙があったのに対して、完全に乗りきった終楽章の響きは凄かった。コンマスの藤原浜雄を中心に、弦が激しく燃焼する読売日響というのは、なかなか見られない。うまく言葉が見つからないが、いつものスマートな合奏のエレガントさよりも、内面の掘り下げと、響きの弾力にこだわった舞踊的な響きが特徴であった。透きとおったアンサンブルの見通しのよさはそのままに、リズムと、その流れに焦点を絞り、いつまでもつづけられそうなヘルシーな響きでもあるが、その内省的な部分の濃厚さも、見逃すことはできない。第1楽章から、既に、そのような傾向は明確であった。

この演奏は、私の抱くブルックナーについてのイメージを、ぱっと解放してくれたくれた感じがする。渋めの曲目、控えめな解釈であるせいか、聴き手の反応は思ったより良くないが、私の聴くかぎり、最近の読売日響との演奏のなかでも、特筆に価する内容ではないかと思う。こんな美しいブルックナーの2番は、録音でもなかなか耳にできないだろう。忘れられない体験になりそうだ。


【プログラム】 2008年4月5日

1、スクロヴァチェフスキ コンチェルト・ニコロ
 (pf:ゲイリー・グラフマン)
2、ブルックナー 交響曲第2番

 コンサートマスター:藤原 浜雄

 於:東京芸術劇場
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