2008/4/18

青いサカナ団 5月に2年連続の新作を発表  期待のコンサート

神田慶一と青いサカナ団の活動については、私は、彼らと出会った数年前から、いつも関心を払ってきたが、彼らの演奏をはじめて聴いたのは、意外にもオペラではなかった。マーラーの「巨人」や、相田久美子のピアノ独奏によるラヴェルのコンチェルトが演奏された、記念のコンサートだったから。だが、私はここで神田慶一という「指揮者」に、最初の、しかし強烈な信頼を覚えたのである。青いサカナ団の公演に足を運ぶ楽しみは、まずもって、この類稀なる才能の閃きを聴くことができる、本当に数少ない機会だからだ。彼のオペラをはじめて見たのは、「僕は夢を見た、こんな満開の桜の樹の下で」の再演。私はそのとき、実に深く涙した。現代人の胸に、鋭く突き刺さる神田の描く詩情が、ダイレクトに胸のうちに響いてきたのだ。

トリスタンとイゾルデ、トゥーランドットというオーソドックスな演目も、素晴らしかった。東京文化会館の主催による「日本オペラ絵巻」。近年、見逃したのは、東京室内歌劇場「ザ・ゲイシャ」だけだ。

さて今回、青いサカナ団は昨年の「アゲハの恋」につづき、神田の新しい作品を披露する。「マーマレード・タウンとパールの森」・・・なんだかおとぎ話のような、島田雅彦の小説のようなタイトルだが、「携帯電話やインターネットなどの通信手段とその便利さの影に隠れてしまう個人の孤独感。そしてマスコミやゲーム等のメディアによって形作られる『首尾よく作られた(ウェルメイドな)ファンタジー世界』に対しての批判」をテーマとするとは、HPで神田自身が語ることである。物語は、ひとりの女性がビルから身を投げるところから始まるらしい。ところが、女は大地に叩き付けられる代わりに、アナザー・ワールドへの扉を開いてしまう。

アゲハや桜の樹も、そうだったが、神田はこうした異世界での「夢」のなかに、なにかを詰め込んでいくのが好きなようだ。月子と呼ばれていた主役の女性は、この世界ではディアナと呼ばれることになるらしい。アポロが登場し、ゼウス、クロノス、ヘラ、バッカースなど、ギリシア神話でお馴染みの名前が並んでいるが、神田のことだから、2回か3回、メタモルフォーズさせてから、舞台に上げるのだと思う。神話好きな人たちは、その点を折り込んで観にこないと、かなり期待はずれなものになるかもしれない。

さて、神田のオペラというのは、私から言わせれば、1つのジャンルのようなものになりつつある。まず、ジャンルにボーダーがない。逆にいえば、オペラ・ファン、ミュージカル・ファン、クラシック音楽・ファン、演劇・ファン、文学・ファンといった、どこにも焦点があっていないということでもある。登場人物は多いが、主要な役柄はさほど多くない。大体は1組のオトコとオンナの関係が中心に置かれ、そこを取り巻く無数に大事な役柄がいくつもある。切迫した状況のなかで、主役がふっと異世界に連れ去られる。そこでは、その人が本質的に抱いていたにもかかわらず、実際には形にならなかったし、しようともしなかった世界が、堂々と展開する。幻想なのだが、その人にとって本質的な世界だけに、いきなり大きく拓けてしまうのである。これが面白い。

音楽も、ボーダーレスだ。プッチーニやワーグナーに強い影響を受けてはいるが、そのことを本人がしっかり意識していて、そこから逃れられないことを前提に、ありったけの批評眼を駆使して、異化していくような手法をとっているのだ。オリジナルとはいえないかもしれないが、その手法の鋭さはあくまで独創的だといえる。前作の「アゲハ」ではミュージカルのような要素を取り入れながら、やはりオペラとしか言い得ない音楽の優雅さを編み上げ、亡くなった木下順二「鶴女房」の筋書きを見事に異化して、「夕鶴」よりも艶やかなこころの物語として仕上げた。そして、アゲハの歌は、いまでも耳を離れないのだ。さて、今回はいかに・・・。

キャストは、月子=ディアナ役に、森美代子が抜擢された。神田にも縁の深い東京文化会館の主催するコンクールで、昨年、第2位と聴衆賞を受ける。2006年の日伊声楽コンコルソで入賞の経験あり。日生劇場の「利口な女ぎつねの物語」にも出演し、なかなか評判が良い。アポロ役は、アゲハの相手役も務めた秋谷直之。声は大きくないし、技術的にも問題があるが、とてもしっかりした表現をする。アゲハのキャストから横滑りしたキャストが多い中、ヘラ役に森永朝子が当てられたのが注目だろう。

原作/脚本/作曲/指揮/演出は、すべて神田が兼ねる。八木清市の美術、大石真一郎の照明というチームは、アゲハと同様。衣裳が、桜井麗に変わった。昨年は主役の設定にあわせて、本物のギタリストをピットに入れたのが目玉のひとつだったが、今回は、スタッフ・チームに「仮面製作」などというのがあるのが、注目に値する。会場は、新国立劇場の小劇場だが、「アゲハ」のときは、音響がいまいちと感じた。5月24日と25日の両日公演。管弦楽は青いサカナ管弦楽団。
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2008/4/13

パトリシア・プティボン ソプラノ・リサイタル @東京オペラシティ 4/12  演奏会

札幌への強行軍のため、ずっと以前から楽しみにしていたプティボンのリサイタルであるが、やはり前日の余韻が抜けない。このコンサートと、翌日の親戚のお祝いのために、帰ってはきたのだが! 普通だったら、良いリサイタルだったと思うはずだ。すこし羽目を外しすぎな部分もあるが、圧倒的なテクニックをみせてくれたし、随分と声が育ってきているのも確認できた。やはり、彼女は素晴らしい歌い手だし、これからの成長も大いに期待できる。

アンコールで、オランピアを歌ったけれど、コロラはやらなかった。客席をゲラゲラ笑わせる、悪戯っぽいパフォーマンスだったが、そのくせ最高音がぴったり当たったりして、決めることころは決めるのだから凄い。でも、あれはただのおふざけではなくて、これからの彼女の進むべき道をちょっと垣間見せてくれたのかもしれない。ひょっとしたらジークリンデでも歌うつもりかと思ったが、ルルだそうだ。あのプティボンがねえ・・・。でも、確かに、声は下目にアジャストされつつあり、キャバレー・ソング風の歌いくちや、カルメンでも思わせるような妖艶さまで見せていたから、なるほどという感じだ!

ときに諸君、次のように書いている人を見つけたら、その批評家の不明を笑おうではないか! 曰く「今回のリサイタルでは、徹頭徹尾、聴き手を楽しませることに専心したプティボンだ。たおやかで、清楚な美しい声の響きを犠牲にして、キャバレー歌手を演じた。もはや西洋に芸術はないのだ。」また曰く「日本人は芸術、芸術などというが、下らない話だ。ひたすら娯楽、娯楽、娯楽。それでよいではないか。プティボンは、ただ客引きパンダのように、いろいろな仕掛けを並べただけだ。それに客席は熱狂した。それでいいのだ。」

次のようにいう批評家は、まだマシなほうである。曰く「プティボンは、ただ歌うだけでは、もはや聴き手はついて来ないと考えているのだ。彼女が創意工夫を凝らして、素晴らしい歌に肉づけして歌ってみたことは、まことに意義ぶかい。」また曰く「彼女の想いは、芸術の大衆化という焦点にまとまる。彼女はプログラムを厳選し、有名ではなくとも繊細なポエジーに満ちた作品を歌った。それらに少しばかりの工夫を凝らせば、客席を楽しませられるはずだと考えたのだ。」

また次のようにいう評論家は、正直ではあるが、参考にはならない。曰く「私には、プティボンが何をしたいのか、よくわからなかった」また曰く「彼女は本当に、『永遠の不思議少女』だった。その奇想天外な発想はばからしくもあるが、同時に、彼女の卓越した表現の柔らかさを示しており、この不思議なソプラノ歌手の、最大の魅力を形成している。」または、少しポエティックになって、このように言ってみる。「彼女が見せるパフォーマンスは理解不能だ。しかし、その謎めいた部分から薫る、美しくもカラフルな果実は、かの禁断の果実なのか。」

ばかばかしい!

私は、このように書く。プティボンは本当に知性に溢れた歌手だった。少しやりすぎる部分はあるが、アメリカのショー・マン・シップ、ラテン系の明るさ、そして、皮肉好きなフランス気質を、そのパフォーマンスのなかに詰め込んだリサイタルは、夢のようだ。確かに、もうすこしじっくりと、彼女の歌を聴きたいという想いは禁じ得ない。だが、プティボンが随所にみせたテクニックの凄さは、断片的だけれどもはっきりとわかったはずだ。

アンチ・オペラともいえる「フィガロ」の2つの歌は独特で、あまりにも完璧な歌のおかげで、ぐうの音も出ないほどに衝撃的だった。すなわち、バルバリーナのカヴァティーナ「失くしてしまった」と、つづくスザンナのアリア「恋人よ、早くここへ」を連続して歌ったのだが、照明を真っ暗にして、ピアノだけに薄いスポットを当てる。歌手は見えない。手もとにもつカラフルに色の変わるライトだけが、あやしく光っている。バルバリーナは暗闇で鍵を探すのだから、それでもいいのだが、スザンナはそういう場面ではない。照明こそ少し明るくなったが、相変わらずプティボンはシルエットだ。先ほどのライトを傘に装着し、それをひらひらとはためかせながら歌うのだ。ライトが少しだけ明るくなり、スザンナたちの運命に薄い光がさした。これだけで、立派な演出になっているのに、その道のプロである演出家たちのアイディアというのは、これよりはるかに饒舌で、かつ効果がない。これは、やられた!

英語の発音はやや訛りがきついようだが、幸い、声の美しさと誠実な歌いまわしのおかげで、さほど不快には思われない。アンコールで歌った「さくら、さくら」が、確かに日本語としてはインチキであっても、本当に胸に刺さる美しさだったのと同じだ。コープランドではおふざけもあったが、キラキラ、チーンと楽器を鳴らしながら、物凄い緊張感でうたうララバイ「小さな馬たち」なんて、背中がぞっとするぐらいに美しい。目下、プティボンお嬢様は打楽器に興味津々のようで、先の「さくら、さくら」で小さなシロフォンを使ったり、筒に小豆かなにか知らないが、何かを入れ、それをひっくり返すことでサラサラと鳴らして、こころが砕けていくような雰囲気を醸し出していた。パーカッションの扱いが、とてもよく訓練されているように見えたのは、一朝一夕で出来あがったパフォーマンスではないことの証だろう。

さて、やはりプティボンといえば、フランスの語の発音の美しさだ。別にフランス人だから、母国語は特別だというのではない。デセイだのなんだの、フランス人ならみな同じという気はさらさらない。プティボンだから言うのだ。彼女の発音の美しさは、実に音楽的なもので、声の音色というか、そのような要素では右に出る者がないほど、洗練されたものなのだから。最初のアーンをはじめ、ロザンタール、プーランク、サティ、アブルケールなどで、彼女が聴かせてくれた言葉の味わいというのは、ちょっと他では味わえない。

アーンの3曲目「葡萄摘みの3日間」が、この日の白眉だ。歌詞は、多分、片想いと思われる男性が、憧れの女の人に告白することもできないまま、彼女が突如として亡くなってしまうまでの3日間の、ほんの断片を描いているようだ。繊細で、か細い歌のラインが指定されているが、ある意味では難しい、この精密な構成を完璧に歌い上げたのは賞賛に値する。我々が声楽をやっていたとき、二期会の所属であるヴォイトレの先生は、天井から釣られるようにリラックスして歌えといっていた。それが誰もできなかったのだが、プティボン、正しく釣られている。そうか、こういうことであったのかと、いまさらわかっても遅い!

超のつくほどの名曲「愛の小径」、そして、「ヴィオロン」というプーランクのプログラムは、言葉の美しさを楽しむには、これ以上もない素晴らしい素材。特に、後者は、先ほどの「葡萄摘み」とどちらが一番かと迷うほど、優れた歌唱だ。言葉の発音から紡ぎだされる雰囲気が、そのまま声という形をとり、我々に語りかけてくる。これはスペイン語だが、コレ「ラバ引きたちの人生」は、「ラバ引きたちの人生は/そりゃ辛い人生/昼はミサに行かれず/夜はまるで眠れず」というアイロニカルな歌詞だが、ここに起伏の激しいすごい音楽がついているので、どう反応していいかわからない。ソット・ヴォーチェの美しさを堪能した。

ちなみに、偉そうなことを書いてはいるが、フランス語はまったくわからないことを、念のため付記しておこうか。

なお。ピアニストのマチェイ・ピクルスキの音楽性の高さにも驚いた。カラフルで、繊細な表現力をもつ、優れたピアニストだった。プティボンのコメディにもつきあい、よく息があっている。彼のことを気に入った聴衆も多いのではないか。

それにしても、プティボンのパフォーマンスは本当によく考えられている。先程、いろいろな批評を想定して、簡単な風刺をやってみたけれど、実際は、どこをどう切り取っても楽しめるように、考えてのやり方だろう。パーカッションについて喋ったが、動物の鳴き真似も、コントも、ショー・ガールのような振る舞いも、全部本気でやっているから、笑えるのだ。しっかり練習して、舞台でやれるレヴェルになっている。そういう意味で、オペラのことなんて何も知らない子どもたちから、口うるさいオペラ通まで、ちゃんと説得できる内容であったと思う。要は、自分の受け取りたいように受け取ればいい。そういうパフォーマンスをつくった人が凄い!

4月12日、東京オペラシティにて。
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