2008/4/21

大阪センチュリー響の危機について  ニュース

【大阪センチュリー響に突きつけられた危機】

小泉和裕を新しいシェフに迎えた大阪センチュリー交響楽団が、いま、危機に陥っている。府政改革を進める橋下知事指揮下のプロジェクト・チームから、全予算の約半分を府からの補助に頼る点を厳しく指摘され、同団を運営する文化振興財団への年間3億9千万円の補助金を09年度から廃止し、「自立化を図る」ことが示されたものだ。これに対し、オーケストラは事務局・団員をあげて反発、7万を超える署名を集めて府に提出。同団の演奏会に出演したピアニストのブーニンも、オーケストラの火を消さないようにと、メッセージを送ったという。この決定は、非常に厳しいものである。府としては「自立化」を促すとはいうものの、結局のところ、このような激変を躊躇わないということは、潰れて構わないという意思表示であろう。猶予もなく、翌年から、いきなり全額カットというのは、オーケストラに致命的な打撃を与えることになる。

このオーケストラは、まだ若い。1989年に振興財団ができ、その年の12月に発足してから、19年目の危機である。むしろ、そこを衝かれたのかもしれない。私は、このオーケストラについて、あまりにも無知だったので、とにかく調べてみた。

【年間のプログラム】

まずは、オーケストラのメイン・コンテンツたるプログラムを見てみよう。今シーズンからスタートした小泉体制は、従来、年間8回だった演奏会を増やし、10回にした。初年度は、ペンデレツキ(自作自演)、デュティユーなどの同時代作品、後期ロマン派の巨魁・ヒンデミット、デュリフレの「レクイエム」(フォル・ジュルネで活躍のトヌ・カリユステ指揮)などにも手を広げ、独墺系、人気曲と組み合わせる意欲的なプログラミングを打ち出している。ドビュッシーのカンタータ「放蕩息子」などという珍しいプログラムも光る。

【社会貢献活動】

次に、社会貢献活動は、どうなっているかに興味を向けてみる。どうやら、彼らの活動の柱は4つあるようだ。

T 星空ファミリーコンサート

「夏休み最後の土・日曜日の夕暮れ時から服部緑地野外音楽堂で開催する毎夏恒例のコンサート」「プログラムは、クラシックはもちろん、ポップスやスクリーンミュージックまでと多彩」「お客様に参加していただくコーナー、合唱団や地元ブラスバンドと の共演など」「毎年3,000人を超える多くの来場者」があるという。

U 府立病院コンサート

府立の「病院のロビーにおいて室内楽の演奏を行う」。院内での演奏であることから、オーケストラ演奏はできないが、「弦楽四重奏、木管五重奏、金管アンサンブル等を、成人病センター、急性期・総合医療センター、母子保健総合医療センター、精神医療センター、呼吸器アレルギー医療センターにおいて演奏」しているという。素晴らしい!

V オーケストラ体感コンサート

「客席にじっと座って演奏を聴くコンサートから一歩踏み込み、来場者は楽器に触れて音を出したり、オーケストラの中で演奏を聴いたり、指揮をしたりと、オーケストラのあらゆる面を体験する」稀有な機会を提供する。「毎年度当初に応募を募り、学校、学年単位での参加」を呼びかけている。会場は、府営公園服部緑地内にあるオーケストラの練習場だ。同様に、「ベートーヴェンの『運命』をテーマとした大人向けのコンサートもあり、こちらも随時開催して好評を得て」いるということだ。

W 府立特別支援コンサート

「堺市にある国際障害者交流センター(ビッグ・ アイ)に大阪府内の支援学校の生徒、児童の皆さんを学校単位で招待し、コンサートを開催」。「学校同士の交流の場ともなっている恒例コンサート」は、平成16年から5回の実績がある。参加校は7−9で、毎年1000名前後の子どもたちを集めている。

880万人を越える大阪の人口からすれば、これらの活動の恩恵を受けた人たちは、決して多いとはいえない。しかし、こうした活動をほとんどやっていない楽団もあるなかで、アウトリーチには積極的とみられるのではなかろうか。そのほか、外部からの要請に応えられるように、コミュニケーション系の、特別なコンサート・プランが用意されていうのも珍しいことだと思う。

【オーケストラの抱える問題点】

大きな問題点は、楽団の予算が府からの補助に頼りすぎている点である。大阪には他に3つのオーケストラがあり、それらと比べて、センチュリー響への補助は飛び抜けた額である。センチュリー響は、もっとも後発のグループであることもあり、大フィルのような老舗的な人気もなく、関西フィルやシンフォニカーについているようなビッグ・スポンサーもいない。その代わり、府から大きな補助を得て、アウトリーチなどに力を入れているという感じなのだ。確かに、スポンサー獲得の努力を怠り、あまつさえ、財団は公務員たちのメシのタネになっているのではないかという、穿った見方もまったく無視するわけにはいかない。

しかし、センチュリー響は既に、平成15年度から給与の10%カットおよび定昇の停止を受け入れており、自らの身を切っている。「1回230万円の収入となる依頼公演などを年70回こなしながら協賛企業を募ることで、19年度は事業収入を前年比約40%増やし、運営費に占める補助金の割合を52%まで低下させた」(産経新聞)という努力も払われており、その上で、既に示したような活動をおこなっているのだから、ただ無駄遣いというのは、あまりに忍びないところだ。

【対岸の火事ではない】

結局のところ、依存度が高いなどというのは、オーケストラを潰すための方便にすぎないと、私は確信した。

なるほど、巨大な借財に悩む大阪の財政は、既に破綻の一歩手前である。文化が大事だからということで、オケを聖域化することなどは考えられない。だが、よく考えてみよう。この3.9億というのは、府財政をどれだけ圧迫するのだろうか。6.4兆からある府の長期債務からすると、こんな塵芥のような文化予算を削ることに、何の意味があるのだろうか。塵も積もれば山となるものだが、たったこれだけの節約のために、19年培ってきた財産を一気に水泡に帰すというのならば、その価値の重みについて、あまりにもデリカシーがないというべきだろう。

とても、対岸の火事とは思えないのだ。オーケストラなど、所詮は西洋からの借り物であり、そんなものを守ることに何の価値があるかという、もっともな意見もある。だが、理屈はともかくとして、借り物であろうが何であろうが、我々はそれを大事に育ててきたし、今後もそうしたいと願う。また裕福になったら、一からつくればいいという質のものではないと、我々はよく知っているはずだろう。確かに、依存度は高い。だが、それは下がってきているし、若い団体ながらも努力しているグループなのだ。そこを、なぜ認めようとしないのか? オケを潰す理由など、いくらでも見つかる。そういうものを自分から見つけたがる、冷ややかな音楽愛好家を私は信用しない。彼らのような態度をとっていれば、日本からいくつのオーケストラが消えていくか知れないからだ。ここで手をこまねいていれば、第2、第3のセンチュリー響が、どこに現れるかわからない!

【センチュリー響に対して要求したいこと】

センチュリー響に対しては、2つのことを要求したい。まずは、情報の公開である。彼らは、補助金廃止の反対を訴える署名活動を求めている。だが、私が不満なのは、その補助が絶対に必要であることの根拠が、十分に示されていないことだ。なるほど、オケの財政の半ばが、府の補助に依存していることはわかった。だが、その補助というのは、どこに、どのように使わているのであろうか。その使途やバランスは、本当に適正なのであろうか。特に、運営財団の職員がどのような報酬を得ているかに注目が集まるのではないか。

実のところ、このオケはまだいいほうなので、決算と予算の状況は財団のHPで確認できる。だが、その詳細は十分にわからず、例えば、「交響楽団管理費」と「交響楽団活動推進費」で6億ちかい支出があるが、これは何なのであろうか。楽器の維持費とかにしても、ここまでかからないように思うし・・・。こういうことを、我々にもわかるように、この際、しっかり説明すべきと思うし、それがあれば、また支援もしやすいというものだ。オケのコストなんて、ほとんど人件費と思っていたが、意外とそれは多くなく、管理費を含めても1.2億程度に止まる。他に、どんな支出が必要なのだろうか。楽器の管理費、ホール代、広報費、渉外費、アウトリーチの交通費など、いろいろあるのだろうけれど!

これらを明らかにした上で、我々はこんなにも努力しているのに、補助金の廃止は不当ではないかということの根拠にすべきではなかろうか。

次に、補助金廃止を阻止するための署名活動だけではなく、楽団を維持するための寄付を募るべきだと思う。7万人が署名したということだから、彼らから5000円ずつ寄付してもらうと、ほぼ1年分の補助に相当する額が集まるのだ。税などの問題もあるから、単純計算でいいかどうか知らないが、とにかく、もっとも有効な対抗手段は、自前でカネを調達することだ。これをどうしてやらないのであろうか。府の姿勢からすると、補助金廃止を撤回させるのは、やはり難しいと言わねばならないだろう。とするならば、実るかどうかわからない署名活動をつづけることも大事だが、現実的に、いかにして楽団を生き残らせることができるかについて考え、具体的に行動すべきではないのか。既にパトロネージュ制度も存在するが、個人の賛助会員は1口=2万円と高いので、もう一段下の寄付のスキームを用意して、広く薄い支援を呼びかけるべきではないかと思う。

この2点について、書面にて、オーケストラに提案してみるつもりだが、微力すぎて、何の役にも立てないだろうなあ!

【大フィルの問題もある】

なお、センチュリー響以外に大フィルも、6000万円を超える補助が危うくなっていると聞く。大植英次の活躍により好調が伝えられるオーケストラだが、このカットは、やはり手厳しいものとなるのではなかろうか。目下、センチュリー響ほど切迫した危機ではないのかもしれないが、こちらも忘れるべきではない。なお、他の2つのオケへの府からの補助は微少であり、これは当面のところ問題がないが、こちらも府下の経済低迷から予断を許さない状況であることには変わりないだろう。とにかく、まずセンチュリー響の危機を乗り越えさせることで、今後の防衛戦も闘いやすくなるだろう。何事も、緒戦を重くみるべきである。ラインを突破されてはならない!
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2008/4/20

東京シンフォニエッタ カーター アスコ協奏曲 ほか 神奈川国際芸術フェスティバル 4/19  演奏会

神奈川国際芸術フェスティバルは、安い値段で、質の高いコンテンツを提供してくれるので、毎年、いちどは世話になっている。今年の最初の企画は、東京シンフォニエッタによる演奏で、「時代を超えて響く音〜モーツァルトからカーターまで〜」そして、東京シンフォニエッタ 室内オーケストラの可能性、と副題してある。プログラムは、下記のとおり。

1、ワーグナー ジークフリート牧歌
2、一柳慧 リカレンス (for cl、perc、hrp、pf、vn、vc)
3、ブーレーズ デリーヴT (for 6つの楽器)
4、武満徹 雨の呪文 (for fl、cl、hrp、pf、ヴィブラフォン)
5、モーツァルト ケーゲルシュタット・トリオ K.498
6、カーター アスコ協奏曲

なかなか入り組んだプログラムであり、どういう意図に結びつけられているのかは、私には読めない。本当にやりたかったのは、ブーレーズ、武満、カーターで、プロデューサーの一柳に敬意を払い、あとは客寄せパンダという感じにみえるが・・・。それでやっぱり、完成度もワーグナーとモーツァルトのほうはもうひとつで、あとの難しい曲目のほうが、はるかに素晴らしい出来なのだから、面白いというべきか。

一柳の作品は1979年の作品で、生年でいくと一柳がいちばん後なのだが、作品としては、ワーグナー、モーツァルトを別にすれば、もっとも古い作品になる。一貫して演奏される4つの部分でできているが、あるところまで進んだところで、ストップ・モーションがかかったようになり、その部分では素材を徹底的に味わいつくす、日本的なオスティナートが展開する。一柳らしいのは、ただ繰り返すことはせず、いろいろに変形を試みて、ひとつひとつの響きを丁寧につくりなおしていくことだ。

この前半の響きは出色で、7つの楽器の響きがよく計算されて配置されている。パート間の自由な結びつきが、ゆたかな創意によって絡められており、自らの可能性を越えていくような生気のもとになっている。弾力のある、まあるい響きが柔らかく変形をつづけ、活き活きと伸縮していく。そこが拡大的に映し出されたあとは、経過区を経て、もういちどストップ・モーションになり、オスティナートする。だが、この後半部分は、前半よりもアイディアが単調で、エネルギーが切れたところで、曲がおわる。出来の悪いミニマルで、後半はつまらない。第2楽章のパーカッションなどは、デザートに添えられた生クリームみたいなものなのだろうが、ここのパートを一人でこなした打楽器奏者はすごい。長尾洋史の弾くピアノは、短いカデンツァを含めて効果的で、自ら優れた演奏者でもある一柳らしい作品といえる。

あとの武満ほど露骨ではないものの、要所要所に日本的な響きが挿入されており、それが聴こえてくると、全体がとても上品に響いているように感じたのは興味ぶかいことだった。

ブーレーズのデリーヴT(1984年)は、この一柳の作品と比べると、派手さはないものの、よくまとまっている。一柳の作品と比べると構造感がしっかりしており、あとの武満と比べたときには、音色がシャープで、色彩感に満ちている。山本千鶴コンマスによる、ヴァイオリンの響きの端正な表情が、なんといっても魅力的だ。

休憩をはさんでの、武満「雨の呪文」(1982年)は、お馴染みの雰囲気で、これこそ正しく武満だというような、見本のような演奏である。ゆったりした響きに、淡く色彩が加えられ、うすく引き伸ばされ、かつ緊張している。琴を模すようなハープの響き、フルートも和笛の雰囲気を多分に呼吸する。東京シンフォニエッタは、この曲目については非常に高い共感を感じているものか、ハープの木村にしても、フルートの斉藤にしても、ただ上手にというのではなく、この曲にだけあった音色を奏でている。和楽器の笛の音を模するように、フルートに力強く息を吹き込むときの響きなどは、きれい/きたないというレヴェルを越えて、出さねばならない響きがあることを教える。ヴィブラフォンを弦でこするようなパフォーマンスもなれたもの。ピアノの内部奏法も、さっきのブーレーズと比べると、ずっと柔和に挿入されているのも、武満らしい。

武満らしい特徴が典型的に表れた作品だが、こうした音楽を聴いていると、どこか安心感があるのも確かだ。

最後、カーターの「アスコ協奏曲」は2000年に、Asko というオランダの現音アンサンブルのために書かれたものであるという。6つの部分にわかれ、それぞれ中心となる独特の組み合わせによる重奏が選ばれ、そこの各楽器が即興的に絡んでいく。作曲年からすると意外だが、露骨なものではないながらも、しっかりした拍節感があり、オケコン的な聴きやすい楽曲に仕上がっている。東京シンフォニエッタのメンバーは、例えば、クラリネットとコントラバスなど、本来は混ざりにくいと思われる響きを、柔らかな音色でカヴァーして、奥深くに隠れていた絆を掘り出してみせる。だが、それらは単に、妥協的に溶け合わせるというレヴェルではなく、ときには、お互いの張り出した部分を見せあいながらの、より高度な結びつきである。

4つ目の部分のヴァイオリン=トランペットの組み合わせは、そのことが顕著で、梅原真希子の弾くヴァイオリンの芯のつよい音色が、トランペット(坂井俊博)のツンと張り出した音色と、50m先くらいで、仲良く手をつないでいるのがわかる。最後の部分では、ファゴット(井上俊次)の妙技がいやでも耳を惹くが、実は、そこに噛みあっていく無数の響きが聴きものであり、全編の結びに相応しい威容がふうわりと膨らんで、聴き手を包み込んでしまう。最後はゆったりと響きが沈んで、余韻だけが残る。良い楽曲の常として、この作品もきわめて高い緊張感に包まれていたが、それはまた、演奏者の息を詰めたパフォーマンスから発する雰囲気でもある。板倉康明は一見、指揮者として凡庸なようだが、このようなレヴェルまでアンサンブルを育て上げていく力量には、やはり並々ならぬものがあるのであろう。

初めての楽曲ばかりなので、あまり上手に書けていないが、最後のカーターを頂点に、現代側の作品では、とても楽しめたコンサートだった。このグループは、パリのプレザンス音楽祭に招かれ、ラジオ・フランスによる新作初演など、晴れ舞台が待っているそうだ。水戸室内管も海外遠征を控えているが、こうした室内アンサンブルは国内よりも、海外でより素直に評価されているのが現状である。


 2008年4月19日

 於:神奈川県民ホール(小ホール)
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