2008/3/30

本島美和 & 碓氷悠太 カルメン by 石井潤 新国バレエ 3/29 B  演奏会

最後に、音楽の話をして、まとめにかかろうと思う。

既に述べたように、全体としては、ビゼーの音楽性を大事にした緻密な編曲であり、バレエを支えるのに十分な威力を備えていた。とりわけ、「ジョゼ」の幻想の部分は、哀しく、悲劇を予告する部分であるが、ただただ哀切なだけではなく、カルメンが惹かれたジョゼの真っすぐな愛情を活写しており、うまくピースが組みあわされている。「カルメン」以外からの挿入も効果的で、一般的には有名とはいえないが、ビゼーの作品のなかでも特に繊細な詩情をたたえた『真珠とり』からの引用は、ややもすると一本調子なカルメンの世界に、立体感をもたらしている。

石井は、そうした音楽に寄り添った振付をしており、この点で、やはりバレエ公演のほうが、本来は音楽中心であるはずのオペラよりも、繊細な絆で音楽と結びついているようで、考えさせるものがある。歴史的なアシュトンもそうだが、ドミニク・ウォルシュにしても石井にしても、音楽と踊りの関係性から逸脱して、振りがつけられるなどという発想はない。この点でみたときに、オペラ演出家のセンスの悪さというのは際立っている。さて、踊り手は、そうした意図を十分すぎるほど汲み取って、真摯なダンスを披露してくれた。

例えば、ミカエラなどというのは、オペラの観客の趣向を満たすため、ソプラノのリリカルな役柄を舞台に出現させるために付け加えたとされるロールで、このように、歌すらない状況ではキャラクター作りが難しい(ヒントが少なすぎる)と思うが、西山裕子は、それでもカルメンには及びもつかないものの、一途にジョゼに迫っていく若い女性として、ミカエラの純情を丁寧に表現している。踊り手では、技術的に安定しているものの、闘牛士のトレウバエフは、やや表情に欠けた。エスカミーリョとしてはそれも良いが、そのように演じている訳ではなかろう。

音楽面で拙いのは、既に述べたように、序盤のストーリー・テリングが流れ重視になり、オペラであれば、カルメンの歌を中心に、微妙にキャラクターが色づけられていき、官能性も高まっていくのを、一気呵成に描きすぎたことである。例えば、第1幕のカルメンの「セギディーリャ」は、もしかしたら有名な「ハバネラ」以上に官能的な部分で、この2つがセットで、カルメンという女性の魅力が形づくられるのだ。音楽的にも、このセギディーリャは抜きん出て印象的である。それを引き離して、今回は第2幕のエスカミーリョの場面で使っている。音楽的にもやや控えめな使い方で、勿体ない。このセギディーリャを溜めとして使い、カルメンとジョゼの関係を示すときの武器として使えば、序盤のやや忙しない、ドライな感じというのもすこし緩和できたかもしれない

また、第2幕の最初に、『アルルの女』のファランドールが来ているのも、私としては興を削がれた。演奏自体はいいし、雰囲気にあっていないわけでもなく、もちろん、ファランドールの音楽はとても好きだけれども、ここに置くのはデリカシーがない。なにしろ、第2幕の冒頭である。ここはやはり、カルメンのナンバーが置かれるべきだ。とはいえ、ファランドールに始まり、有名な闘牛士のクプレがあり、セギディーリャで、カルメン・ジョゼ・エスカミーリョの三角関係を描き出した、第2幕最初の「エスカミーリョ凱旋」の場自体は、なかなか見ごたえがあった。

つづく第2場は、2人の男との関係に板ばさみになり、過酷な運命が暗示される「カルメンの夢」だが、ここを第1幕のジョゼとミカエラの二重唱が彩るのはアイロニカルで、興味ぶかい発想だ。この部分で、カルメンが男たちに拒否されるように叩きつけられる振付は、やはり芸がなく、もうすこしどうにかならないものかと思う。

フィナーレは、やはり声がほしくなる部分だ。音楽的には、オペラの終幕で使われる部分を中心に、うまく組み上げているものの、闘牛の熱狂と、カルメンとジョゼのドラマの、最後の暗い盛り上がりが対比される部分としては、十分なプレゼンスがない。そこをオペラでは、声で埋めているわけだが、バレエではそうもいかない。2人の服装もすこし違和感があり、カルメンの黒いドレスの弊については既に述べたが、ジョゼのだらしなく着崩したシャツも感心しない。前の場で印象的だった、銃はどこにいったのか?

エスカミーリョと背中あわせで、ジョゼが姿をあらわし、2人が前になり後ろになりして、カルメンに向かっていく発想は面白い。だが、一方で、この2人があまり接近してしまうと、カルメンがジョゼを選ぶということに、面白みがなくなってしまうのだ。ジョゼを選ぶということは、死を選ぶことである。カルメンは、自らそれを選ぶ。運命として! その点のイメージが、振付・演出から十分に伝わってこないのは問題かもしれない。

いつも思うが、カルメンというのは、非常に錯綜したドラマだ。一見して単純なようだが、よくよく考えていくと、わかりにくい面ばかりなのである。そこを一応はクリアーしたうえで、最後には、涙を流させるようなものに仕上がったということだけみれば、及第点というべきなのであろう。「オルフェオとエウリディーチェ」のような優れたプロダクションからみると、やや完成度は劣る。だが、それはそれで、これから育てていけばいい問題なのかもしれない。

まとめると、主要二役を中心に引き締まったパフォーマンスがみられ、特に内面への掘り下げが深く、リリックな共感に満たされたことが印象的な公演であった。
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2008/3/29

本島美和 & 碓氷悠太 カルメン by 石井潤 新国バレエ 3/29 A  演奏会

前の記事につづき、新国バレエ「カルメン」について深彫りする。

まず、振付について。私は2回しかプロのバレエ公演を見たことがないし、あまり偉そうなことはいえないが、このプロダクションは、よくできている部分と、そうでない部分の差が激しい。思わず失笑を漏らさずにいられないような部分と、例の「ジョゼの夢」のような完璧な美しさと、エスプリに満ちみちた部分が交代でやってくるのだ。後者が印象的であるがために、プロダクション全体としては、とても良いものをみたという印象が残る。だが、最後に舞台上に出てきた石井に対して、「ブラーヴォ!」という賞賛を送る気にはなれなかった。

前半は本来、台詞の部分を別にすれば、古今に例をみないような魅力的な音楽が、ぎっしりつづいている。序曲、前奏曲、ハバネラ、女工たちとカルメンが騒ぎを起こす場面、ミカエラとジョゼの二重唱、セギディーリャ、第1幕フィナーレと、揺るぎない名旋律の連続だ。そこに歌が重ねられ、カルメンを中心とした人物描写が進んでいく。だが、今回はこれをバラバラにして、進行する。言っておくが、バーカーの編曲は手が込んでいて、基本的にはよくできている。しかし、ジョゼとカルメンの出会い、そして、ジョゼが彼女を逃がしてしまうまでの場面は、感心しない。早送りのように、説明的なストーリー・テリングが流れてしまうからだ。振付も単純に筋を追いすぎて、ダンスとしての面白みが十分に出ていないように思われる。

石井潤の振付は、尖鋭な表情づけは随所に印象的であるものの、無駄が多く、全体を貫く哲学は弱い。例えば、いちばん肝心の、カルメンが一体、ジョゼとエスカミーリョのどちらを愛していたかという問題は、最後までよくわからない。多分、ジョゼなのではあろうが、でも、凄い剣幕で周囲を圧倒し、カルメンの亡骸を引きずっていくフィナーレからは、カルメンがどうこうというよりは、ジョゼの一方的な想いだけしか伝わってこないのだ。また、ジョゼもジョゼで、ミカエラとの関係を十分に清算できておらず、山のアジトでは、現れたミカエラがジョゼに縋りよるのを煙たがっているようでもありながら(カヴァレリアのサントゥッツァとトゥリッドゥの関係を思わせる)、煮えきらない態度からは、完全には思いを断ち切っていない感じすら受ける。

ここで登場するミカエラは、オペラでは母の死を命がけで報せにきて、ジョゼを連れ帰る役割だが、バレエではそこを説明できないので、彼女の出現は、ただ空気を読めない世間知らずのお嬢さんの登場にしかみえない。これは可哀想だ。本来ならば、ジョゼこそが出来のわるい兄であり、ミカエラがよく出来た妹みたいな恋人関係であったはずなのに!

ちなみに、オペラではエスカミーリョがまず去って、次に、ミカエラとジョゼが去り、カルメンは山に残って、あとから闘牛に向かうのだが、このプロダクションでは、カルメンとエスカミーリョが、手を組んで山を下っていく。ジョゼと闘牛士の決闘は、ふつうはジョゼが勝ちを占めて相手を傷つけてしまい、これがかえって、彼の男を下げることに繋がるのだが、ここでは闘牛士の優勢でおわる。意味のない改変だ。また、エスカミーリョはマントこそ被っているが、中身は、闘牛の格好そのままでやってくるというのも滑稽きわまりない。

また、マイムの場面は、闘牛場ちかくのカッフェで、客たちが闘牛の物真似をして楽しむ場面として挿入されているようだが、あまり大きな意味がないわりに長めで、相撲の弓取式のようなもの、男たちが加わってからは、ラグビーのオール・ブラックスの「ハカ」のようなパフォーマンスにも見えたが、いずれにしても独創的でも何でもない部分をわざわざ導入して、尺がもったいないように思われるのだ。

フィナーレでは、カルメンにフォーマルな服装をさせている。カラーは、運命を暗示する黒だが、この組み合わせがやや鈍重に見えるため、折角の本島のうごきの鋭さが、強調できないようになっている。最後、斃れたカルメンを引きずるジョゼのうごきは、はじめ、やや強引な印象を受けるが、最終的には成功した。ジョゼの気迫に呑まれ、カルメンの亡骸から彼を引き離していたエスカミーリョたちも、徐々に退いていく。減衰していく音楽とともに、ジョゼの重い足取りが、すべての狂いを象徴するかのようだ。この部分は見どころだ。

もうひとつ、問題がある。それは、しばしば動きが直接的すぎて、ひねりがないことだ。例えば、女工と喧嘩するカルメンのバイオレンスが、リアルそのもので描き出されることは、品がないの一言だろう。ここに限らず、バイオレンス・シーンの直截な表現には嫌気がする。序盤の展開でも、起こったことをそのまま描写するのではなく、もうひとつ、ひねったアイディアがほしい。かと思えば、やたらとグラフィカルなシーンが現れたりして、取り止めがない。そのような意味では、アイディアの絞り込みも必要だ。リーリャス・バスティアでは、昂揚する2人のこころが、女性の開脚などを使ったエロティックな描写で直裁に語られるが、このあたりも一工夫がほしいところ。

悪いことを言い出せばキリがないが、こうした弱点を補って余りあるソリストたちの熱のこもった演技がこころを打ったから、このプロダクションはプロダクションとして成立しているのではないか。ときに、石井の振付の、もうひとつの美点を語ろう。それは、ソロと群舞の結びつき方だろう。そこが非常に自由で、絆が深いというのが特徴的だ。例えば、リーリャス・バスティアのクライマックスでは、群舞のなかに入り込んでいくカルメンのダンスが、群舞のアクセントになるとともに、かえって群れの中だからこそ、浮かび上がってくるカルメンその人の存在の強さを、効果的にアピールする。これは技ありだ。ただし、これはカルメンを引き立てるために、群舞のダンサーを落とす意味でもあり、彼らにとって苦々しい事態でもあろう。

だが、良くも悪くも、そうした手法が石井の強烈な個性に繋がっている。このプロダクションに関する限り、コール・ド・バレエについては、揃っているとかいないとか、そのレヴェルで論じるベきではない。まず揃えるのはとても難しい振付が多く、逆に、揃っていても面白くない部分が散見される。揃っていようがいまいが、その内側から湧き上がってくる意志のようなものを、客席に届けるために何ができるか、それが石井のもっとも重視するところであり、いろいろとケチのつけようはあっても、この部分で揺るぎないコンセプトを示したことについては、まるで反論の余地もないのだ。幕が開くと、いきなりリフトが組まれており、そこからだらだらと女性が滑り落ちてくる、冒頭の表現が印象的だ。こんなの、合うわけがない!

最後、音楽についてBで書くことにする。
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