2008/2/11

新国 サロメ 千秋楽(2/11)  演奏会

新国の故エファーディンク演出「サロメ」は、2000年のプレミエからこれで4度目の上演となり、よく知られたプロダクションということになりそうだ。私は初めてだが、ヨカナーンの封じ込められた古井戸がどんと中央を占め、後方に王たちの天幕。ちらりと見えるなかの模様は、ふうわりした大きな赤いソファー、豪華な調度で飾られた空間である。王族と、上級士官(?)のナラボートの衣裳は現代的なものだが、アラビアか中央アジアの王侯風のもの。警護する兵たちは迷彩の軍服に機関銃、青のヘルメットという感じである。新奇な発想はなく、コンサヴァである。

まずは、前のエントリーの疑問がひとつ解決したことを報告しておこう。それは、サロメがなぜ、ヨカナーンを愛してしまったかについてだ。簡単なことであった。それは、共感である。古井戸の暗闇のなかに閉じ込められたヨカナーンの境遇は、驚くほどサロメ自身に似通っている。彼女は、そう思ったのだ。エファーディンクは、古井戸の蓋に、まるで羊水のなかの赤ん坊のように寝転ぶサロメの姿を描いた。彼らは、井戸の内外にわかれてはいるが、逃れられない暗闇のなかに生きている。その共感が、サロメをして、自分の分身たるヨカナーンへの愛情を募らせたのだ。

このあたり,前半のエファーディンク演出は、シンプルではあるものの効果的だったと思う。言葉少なだが、雄弁という感じ。ところで、この古井戸であるが、偶然ではあろうが、同じ新国のプロダクションである、M.A.マレッリ演出「フィデリオ」で、フロレスタンと囚人たちが閉じ込められていた牢獄に似ている(制作年からいって、エファーディンクが先)。そのことで思いついたのだが、この劇は、「フィデリオ」によく似ているのかもしれない。ヨカナーンをフロレスタンになぞらえ、サロメをレオノーレと重ねる。ピッツァロは、ヘロデ王である。表には出てこないが、イエスがフェルナンドの役割を果たすだろう。だが、もちろんのことだが、少しずれている。言うまでもなく、この物語のフロレスタンは救出を必要としておらず、殊にレオノーレの行動を支持しないからだ。

ベートーベンの作品では、レオノーレの輝きが夫・フロレスタンを照らす。それは愛情を越えた愛情と、我々の目に映る。だが、預言者・ヨカナーンが、サロメに照らされることなどあり得ない。一方で、サロメは彼のことを照らしたと思っているのだが、サロメ自身もいうように、ヨカナーンは少しも彼女のことをみていないのである。ヨカナーンからみれば、サロメの愛は、いったん制せられるべき欲望であるとしか思えないのだろう。だから、イエスのもとを訪れ、修行するように導こうとする。もちろん、そんなことは「フィデリオ」の世界にはない話だ。このずれが、イロニーになっている。

もうひとつ、「さまよえるオランダ人」の構図もある。ヨカナーンをダッチマンになぞらえ、サロメをゼンタの位置においてみよう。ご丁寧にも、ナラボートがエリックの役を演じている。今回、水口聡が演じたこともあり、この役に当てられたイタリー的な役割がはっきりする。サロメは、夢で知っていたかどうかはわからないが、とにかくヨカナーンのような存在を待っていた。ナラボートがこころを寄せていることはわかっているけれど、彼女のこころの穴を埋めるのは彼の存在ではない。これでヨカナーンがサロメを必要としていればよかったのだが、このダッチマンはゼンタによる救済を必要としていない。ここに悲劇が起きるのだ。

筋的なものだけではなく、声の使い方からいっても、これらの作品は重なりあうところがある。だが、大事なところでずれていて、そのイロニーが重大な問題を引き起こすのである。ゼンタがダッチマンの首を胴から切り離し、レオノーレが、つれないフロレスタンを殺して自由にしたと思い込むのだ。もうひとつ、「ローエングリン」との対比も面白いだろう。ヨカナーンはローエングリンであり、ゴットフレートだ。サロメは、エルザに譬えられる。そして、これも小山由美が演じているせいだろうか、ヘロディアスは彼女の得意なオルトルートを思わせる。ヘロデ王はテルラムント。そして、イエスこそが、神聖ローマ帝の役割だ。サロメは自らの愛情のために、結局、ローエングリンを追い出すことになってしまう。サロメのもとに帰ってきたゴットフレートは、胴体から切り離されて首になっている。

昨日よりも、大分、理解が進んだような気がしてきた。

さて、実際の上演であるが、なかなか良かったと思う。題名役のナターリア・ウシャコワも、指揮のトーマス・レスナーも若い。ひよっこだ。だが、金の卵(ひよこ)だろう。ウシャコワは、現時点ではまだまだ線が細く、サロメを歌うのは早すぎるかもしれない。とはいえ、エロ・グロ満載のどぎつい官能劇ではなく、既にみてきたような心理劇としてみたときには、彼女のもつしなやかな表現力は武器となるだろう。私は、彼女を気に入ったのだ。無駄に大声を張り上げようとしないし、必要以上に歌わない。でも、あんな豪華なR.シュトラウスの音楽であっても、ちゃんと道を選べば客席に声が届くと知っているではないか。イメージもしっかりしている。ウシャコワの演じるサロメは、すこし夢見がちではあるが、ヨカナーンのことを真っすぐに想う少女にちがいない。

これまで、サロメ像は異常に大きく膨らまされて、聖書では名前さえ登場しない少女であったことが忘れられている。サロメは、その美しさによって全てを支配できる・・・というイメージがつよく定着しているが、本当にそんなことがあり得るだろうか。確かに、ここに描かれるサロメは、王をも動かした。しかし、その王は、マクベスのように過去の大罪に怯えている。寒い夜、王は誰も感じない不思議な風にほだされて、冠を投げ捨てた。そんな王だから、サロメにも付け入る隙があった。だが、本当はサロメの存在というのは小さい。王のような権力もなければ、ヘロディアスのような強さもない。ウシャコワの演じたサロメは、そういう名もなき小さな少女であったろう。この上もなく繊細で、ガラスのように壊れやすいサロメ像に、私は意表を衝かれたが、最後、やっと口づけできたと喜ぶサロメの姿には、真っすぐすぎるほど純潔な愛の輝きがあった。愛の真実は神の真実よりも重いと歌うサロメに、不覚にも共感してしまう。まだ未熟ながら、ウシャコワのこのような役づくりには大きな可能性を感じる。

そこにまた、シュトラウスがふっと美しい音楽を忍ばせていることにも気づかせられた。指揮者のレスナーも、非常にきびきびした音楽をつくっていたが、こういう細かいところによく目が届いて、バック・グラウンドをしっかり描き込んでいくことのできるあたり、金の卵というに如くはない。あの素晴らしい「家庭交響曲」を演奏した東響なのだから、これで満足はできないが、最終日ということでかなり手馴れてもきたのだろう。サロメを拒絶してヨカナーンが去っていくときの迫力、その前にイエスのもとにサロメを向かわせようと導こうとするときの威厳、どぎつい音楽の合間に、ふっと美しい純真な愛情をみせるサロメの心情の細かな描写、ヘロデ王を襲う神風の実感、いろいろと印象的な部分も多い。

良くも悪くも、ウシャコワがなくてはならない公演だった。シュミット、ヴェーグナー、それに小山が脇を固めたが、いずれも決め手に欠ける。シュミットはキャラクター・バリトンで、独特の声質が役柄を彩る。演出からみても適役。ただし、もうひとつパンチが効かない。ヴェーグナーは声が出るし、威厳のある聖人役としては及第点だが、サロメと絡むときに面白みがない。既に触れたように、水口のナラボート役は適役だ。あと小役ではあるが、2人のナザレ人(青戸知、青柳素晴)がイエスの噂を語る場面は印象的である。特に、青戸の成長は、ここのところ著しいものがあり、彼のかちっとはまった台詞まわしが妙に締まって聴こえた。

7つのヴェールの踊りは、コンサート・ピースとしても演奏されるので有名だが、あれはなんだろう。あそこで、R.シュトラウスが何をやらせたかったのかが、よくわからない。多分、ヨカナーンを想って踊っているのを気づかれないようにして、王を喜ばせる必要があるのだろうが、歌手がうまく踊れるのは稀であろうし、音楽的にも、プロット的にも蛇足的に思える。今回の演出でも策なしだ。踊り以降の演出は、ほとんど何もないというほどで、このプロダクションの弱点は終盤に集中している。面白いのは、サロメの想いを耳にした王が、例の古井戸の蓋にへばりついてサロメ殺害を命じる部分と、それを聞いたナラボートの小姓が、自らサロメに剣を打ち立てるフィナーレぐらいのものだ。

とんでもなく成功した、去年のチューリヒ「ばらの騎士」のような公演ではないものの、良質な公演で楽しめた。消極的な感想が多くみられるのが、かえって疑問である。カーテン・コールでは、ピョンピョン飛び跳ねて、元気のいいウシャコワの姿が印象的だった。4、5年すると、素晴らしい歌手に成長しているのではないかと期待する。それまでは、無理してサロメなんて歌わないように、慎重にステップ・アップしてほしいと願うものである。
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