2008/2/24

新国  黒船  千秋楽 2/24  演奏会

新国立劇場が、山田耕筰の歌劇「黒船」を上演した。3幕5場のグランド・オペラであるが、成立事情が複雑である。1929年に序景が生まれ、国内外で初演もおこなわれたにもかかわらず、その後、山田は完成を放棄した。長いブランクを経て、1940年の「皇紀2600年奉祝公演」に間にあわせる形で、一応の完成をみたのであった。題名も最初の「黒船」が、やがて「夜明け」に改められたと簡素化して説明されるが、これもそう単純な話ではないようだ。

長木誠司らの著作によれば、最初のころの作品と、後期のそれでは全く性格が異なっているため、別個の作品とみるべきとも主張されているぐらいである。ただし、今回の上演ではそれらを一応、ひとつづきの作品として扱い、従来の上演史からすると、カットされることも多かったという序景の部分も含めて、山田の遺した部分をすべて演奏するという形をとった。だが、やはりというべきか、作品の一貫性という点からみると、この10年以上にわたる、連続しない創作の営みが与えた影響は無視できない。序景の完成度は、見るべきものがある。冒頭の盆踊りに始まり、日本的なイディオムを織り込みながら、全体としてはガッチリしたドイツオペラの系譜を引いており、歌唱部分に限っては、イタリアのベル・カント唱法と日本語を喋るときの抑揚が折衷的に組み合わされている。これらがバランスよく組み合わされ、いかにも見やすい。

しかし、第1幕後半から第3幕前半では、R.シュトラウスの「インテルメッツォ」のようなスタイルが導入されたりするほか、響きも尖鋭なものが選ばれるようになり、日本的なイディオムは必要最小限に抑えられる。最後の場に入って、思い出したような最初のスタイルが戻るような感じもするが、最終的には、当初は「蝶々夫人」を越える作品となることを期待された作品であったことに対するイロニーでもあるかのように、結局は、プッチーニ的なものに回帰していくような感じもするのだ。より安定したものに支えられるかのような、両端の部分が作品としてはよくまとまっている。

なるほど、言葉はよく聞こえるようにできており、日本語の抑揚などに忠実とされる山田の特徴が、よく表れた作品でもあろう。だが、私はそこにこそ、山田の限界をみる想いがした。例えば、同じフレーズを口に出すにしても、そこに込められる感情などによっては、抑揚やアクセント、リズムなどにいくつものパターンがあり、それによって、微妙なニュアンスがついていく。山田のやり方では、その微妙な変化を表現するためには、強弱だけに頼らざるを得ない。そのため、台詞まわしが平凡で面白みがなく、歌の魅力がなかなか持続しないのだ。とりわけ、第1幕から第2幕でその特徴が顕著であり、この部分になると、歌手たちの苦労は明らかである。そこへもっていくと、歌手がうたう部分が少なく、管弦楽の壮麗な絵巻に身を任せられる序景や、ドラマもクライマックスを迎え、起伏の多い最後の場では、その弊も少ない。

今回の上演に関しては、キャストも十全ではない。私が納得するレヴェルで歌ってくれたのは、お吉の釜洞祐子と、伊佐新次郎の大島幾雄だけである。領事役が重要だが、村上敏明はやや不調で、特に中低音ではいつもの伸びがない。終幕での真っすぐな訴えかけだけが秀逸で、ここはさすがにぐっと来たが、それ以外の部分は抑え気味。また、これと対になる志士の吉田役、星野淳は存在感が希薄だ。最後、切腹の場面は、厭でも吉田が目立つけれども、それまでの活躍が弱いので説得力がない。冒頭の盆唄と終幕の舟唄でおいしいところを歌う福井敬や、奉行役の谷友博、お吉の相談役の姐さん役、永田直美、奉行たちに取り入る志士側に親密な芸妓、お松役の青山恵子など、それぞれにまずまずというに及ばないレヴェル。領事の配下の書記官は音程も妖しく、明らかに不適であった。

一方、芸術監督の若杉弘に率いられた東京交響楽団は、久しぶりに、新国ピット内で満足のいく出来だった。さすがは、幾多の日本人作品を扱ってきた伝統をもつだけに、オケの響きからは力強い共感が感じられ、特に金管の柔らかい響きが特筆に価する。弦も艶やかな響きを随所に聞かせており、尺八とやりとりするフルート・相澤の妙技なども楽しませてもらった。尺八は、日本音楽集団などでも活躍する、スペシャリストの三橋貴風が吹いた。

個人的には、序景から第1幕までが印象ぶかい。山田が作曲した1929年には、まだまだ関東大震災の記憶が残っており、それが安政大地震のあとの作品世界に重ねられている。高杉晋作らが起こした下田領事館焼討事件を模した火事の場面で、恐ろしかった災害の記憶を呼び覚ました人々の動揺を表した音楽など、鳥肌が立つほどだ。こうした部分と、日本の伝統的なうたいなどを模しながら、シンプルな語法で、繊細に交わされる奉行らとお吉のやりとりなどが、実にうまく組み合わされている。序盤の釜洞は声量こそ控えめだが、非常に艶やかな歌いくちが魅力的だ。お吉と吉田の出会いが、パントマイムだけで表現されるなどの面白さもある。序盤は空間も多く、そこに日本的な行間を感じる。

栗山昌良の演出は決して優れたものではないが、ほとんど知られていない作品の紹介としては、こんなものであろう。天井から降りてくるスクリーンに、条約の書面のようなものが写し出されたり、丘なりになっている部分にプロジェクタで「尊王攘夷」などと投影されるばかばかしいアイディアもあるが、全体的にはそれなりにまとめている。いろいろ細かいことで言いたいこともあるが、一番いけないのは、人物の位置が遠すぎて、それぞれの関係が表現できていないことだ。

逆に良かったのは、第1幕で、伊佐がお吉の唄に小判を懐紙に包んで渡すところや、最後の切腹の場面の細かい所作の美しさである。第1幕の伊佐の所作はとても印象的で、このあと、彼がもっと存在感を発揮するような感じだったが、その後は影が薄くなっていくので、そういうところにも作品の一貫性の不徹底は窺われる。そのなかでも、大島の演技は、人癖あるが筋のとおった伊佐という切れ者をイメージさせて、秀逸。正座を含め座った状態での歌が多かったが、それぞれ声の張りが素晴らしい。切腹の場面は、腹に脇差を突き立てるところまでは描かず、その直前で幕が下りるようになっている。この部分、領事の所感に原作者のノエルの想いが反映されており、結局、日本の夜明けや平和に対する願いの述べられる部分で、犠牲になっていく志士の姿を最期まで描かないのは、ひとつの見識である。

あまりにも予定調和的で、都合のいい筋書きなどに問題はあるが、「蝶々夫人」「さまよえるオランダ人」「仮面舞踏会(ヴェルディ)」などのイディオムなど織り込みながら、最終的には独創的な日本オペラの「夜明け」を、苦労しながら織り上げた山田の作品は、今後も繰りかえし取り上げる価値があるだろう。今回は大ホールでやったが、やや編成を削っても、中劇場などのほうがコンパクトで、作品本来の味わいを堪能できるのかもしれない。
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2008/2/24

幸田浩子 初のソロ・アルバム モーツァルト・アリア集  CDs

ソプラノの幸田浩子さんが、ようやくというべきなのか、DENON(コロムビア)から録音デビューを果たしました。できれば、2、3年前に1回入れておきたかったですね。彼女のキャリア初期の頂点を迎え、新国「ホフマン物語」のオランピア役やガーシュイン「キャンディード」のクネコンデ役で、揺るぎない評価を得た彼女の黄金時代。抜けの良い高音の軽妙な響きが、信じられないくらいに美しく、酒脱だったものです。その後、彼女の声はやや成熟し、一昨年の7月末、小森輝彦とのデュオで歌ったリゴレット役で、そのことが確かめられました。このあたりまで、私は彼女のことを知っていますが、それから少しご無沙汰しました。しかし、このアルバムも、その延長線上にしっかり位置づけることができるでしょう。

デュオ・リサイタルのとき、「今後は、ピチピチして若々しい彼女の声も、いささか熟成に向かっていく方向にあるらしい」という見立てをしたのは、当たらずともというところだったようです。それは私の感覚が鋭いなどということではなく、自分の声をどうもっていくか、あるいは、つくっていくかということに対して、彼女が明確なヴィジョンをもって歌っていたことの表れであろうと思います。いつまでも、可愛らしいツェルリーナでいるわけにもいかないでしょう。今回のアルバムは、幸田浩子の本当にスイートな時期の記録ではなく、これから彼女がなにを目指し、どんな方向に進んでいくのか、その前の磨きかけの原石の美しさを披露するもののように思えます。

アルバムは、モーツァルトのもっとも素晴らしいモテットにして、かつ、最難曲のうちに入れるべきと考えられる「エクスルターテ・ユビラーテ」に始まります。ここで我々は、以前よりもずっと重みのある中低音を開拓しつつある、幸田さんの姿に気づくはずですが、最初の1曲は少し硬さも残っていますね。レチタティーボは、その部分がしっかりした支えとなり、緊張感に満ちて素晴らしい。〈聖処女の冠よ〉〈アレルヤ〉は、現時点での彼女の到達点を示す基準点であり、「かつての彼女」(抜けのよい清々しい高音)と「現在の彼女」(ふくよかで艶のある中低音の開拓)のバランスがうまくいっています。特に、〈聖処女〉しまいの淑やかな弱奏から、気品ある〈アレルヤ〉が立ち上がる受け渡しの部分が秀逸です。

このアルバムの優れている点は、言葉と表現に対する幸田さんの拘りが、隅々まで行き届いている点です。言語はイタリアとドイツですが、それぞれのお国柄からすると対照的に、イタリア語ではフォルムがカチッカチッと決まっており、二期会員らしい言葉への執着が聴き取れる一方で、ドイツ語ではぐっと情熱的で、一語一語に体重が乗っている感じがします。これは、歌っている曲目にもよるでしょう。

スザンナとツェルリーナに対して、コンスタンツェと夜の女王という対照的なレパートリーが並ぶのも、このディスクの面白さです。スザンナやツェルリーナでは、かつてよりも女の芯の強さみたいなものが、よりはっきりと前面に出てきています。とりわけ「薬屋の歌」の最後の艶かしさは、男性のファンには堪らない部分でしょう。思わせぶりな伴奏の助けもあり、とても官能的に仕上がっています。コンスタンツェや夜の女王では、彼女たちのなかにある迷いや、悲哀のようなものを、表面的な強さと対置して、見事に、奥ゆかしく表現しています。コンスタンツェのアリア「あらゆる苦しみ」は、モーツァルトの書いたアリアのなかでも、特に難しいアリアのうちに入るでしょう。技術的なものや音域の問題もあるが、まず歌詞からして歌いにくいのです。完璧とはいわないものの、幸田さんは大事なキーワードを上手に織り込みながら、自在なディクションで、コンスタンツェの強さと弱さを同時に表現し得ています。夜の女王は、やや迫力不足でしょうか。

幸田さんは演技の人という感じがしていたけれど、歌曲風の歌いまわしが特徴的な、「劇場支配人」のアリア〈若いあなた!〉が、意外に良いのですね。楽曲への共感がよりナチュラルで、楽しそうに歌えています。こういうときの幸田さんは、本当にいい。アルバムの終盤には、そうした曲目が並んでいます。モーツァルトの大曲「ミサ曲ハ短調」のクレドにあるソプラノ独唱〈精霊によりて処女マリアより御体を受け〉は、宗教曲というよりは、女としての聖母への共感が、優しく滲み出ています。これは、夜の女王の、隠された母親としての顔とも共通し、このパートをモーツァルトのコンスタンツェ夫人が歌ったされる伝承から考えても、プログラム構成としても興味ぶかいところがあります。

最後は、名曲中の名曲「アヴェ・ヴェルム・コルプス」で、しっとりと締めています。技巧的なコンサート・アリア K.418 などと比べて、いまの彼女は、こうした曲目をゆったり歌いきることに賭けているように思えます。全体的に若いアーティストが陥りがちな、スポーティな表現ではなく、今回は(オケがつくといっても)1人だけの歌なのだし、たっぷりと自分の感情をのせて聴いてもらいたいという意図が明確です。その分、時折、かつてのような切れ味の鋭さが犠牲になっている感があるものの、全体としては、とても味わい深い録音に仕上がっていると考えます。本来、幸田さんは相手役を得て、どんどん輝きを増すところにも魅力があるのですが、それは次回以降の楽しみとしておきましょう。

伴奏は、先ごろ新日本フィルにも客演し、わが国にも若干の足跡を印していったチェコの若手指揮者、ヤークブ・フルシャが指揮するプラハ・フィルハーモニア。ビエロフラーヴェクが育て、いまはフルシャが受け継いでいるが、ケラスやファウストの録音のバックでも活躍する、国で随一のハイテク集団です。ただ、今回の録音では、音色などの美しさでは聴きどころもあり、温かみのある響きが優しげなのに、全体にやや重めであるのは気になるところです。

ここのところ、こうしたソロ・アルバムが流行っており、バルットリ、カサロヴァ、ヴィリャゾン、ダムラウ、ジェンキンス、ヘイリーなど、数多くリリースされています。日本人では、ほかに森麻季といったところが期待されているようです。フリットーリはともかくとしても、ただ叫ぶばかりで聴いてられないダムラウや、勘違いしたカサロヴァのインチキなオッフェンバックと比べると、自分が大事に育ててきたところを真摯に歌った幸田さんの録音は、とにもかくにも繰り返し聴くに堪えるものに仕上がっていますし、彼女のこれまで、いま、そして、未来を貫くプロの仕事として評価することができます。それは同時に、良くも悪くも一回きりの、ヴィジュアル系アーティストとの違いも示していますね。
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