2008/1/31

マリア・バーヨ ソプラノ・リサイタル 紀尾井ホール 1/30  演奏会

新国で「ミミ」を歌ったばかりのマリア・バーヨ(S)が、紀尾井ホールでリサイタルをおこなった。バーヨは、日本での派手な人気こそないものの、スペインを代表する歌手ということになるらしく、世界の主要な舞台に招かれる存在であるとのことだ。今回は前半に歌手の原点ともいうべきモーツァルトを置き、後半は、スペインの作曲家による歌曲のみ、という独特の構成も注目された。ピアノ伴奏は、マチエ・ピクルスキ。前置きはともかく、まずは、素晴らしいリサイタルだったと一言しておこう。

華やかなパープルのドレスで登場のバーヨ。着るものに疎い私にも、ハッキリ上等とわかる生地が、彼女の動きにあわせて、しなやかに波を打つ。無柄だが、その分、かえって気品があり、色そのものにもコクがあるし、着る者の体のラインや動きの個性が、そのまま、というよりは、より芳醇になって見る者に訴えかけてくる。後半の、豪奢なパール・イエローのドレスも素晴らしかった。

さて、歌のほうは個性的で、なんというか、とても華やか・・・というよりは、この上もなく親密な、こころの中にぱっと花咲く感じの気持ちのいい歌いくちだ。イタリー風のベルカント唱法とはちがうように思うし、もちろん、ワーグナー歌いに典型的なドイツ唱法はさらに遠い。言うなれば、あり得ないくらいに研ぎ澄まされた、民謡の歌い手という感じがするのだ。アジリタ的なことでいえば、もっと上手な人もいると思うし、そういうことには多分、あまり関心がない人だ。でも、まずはこれが驚きなのだが、声がまったく清潔であり、どの曲もよく練られていて、完成度が高い。時にはキャバレー歌手のような歌い崩しもみせるが、全体を通してみるととても緻密な歌い手であった。だが、その緻密さというのは、技術の上に技術を積み上げ、磨き上げていくような質のものではなく、彼女が体験し得たもののなかから、少しずつ自分の手で掴みとってきたものの集大成だとハッキリわかるようなものなのだ。

そのような特徴を捉えて、私はバーヨのことを「異質な技巧派」と呼んでみたい。ひとつだけ気になったのは、手振りだ。彼女は、両手の振りが声の出し方につながっているようで、どの曲でも手振りをつけて歌い、発声の似ている部分では同じような動きをする。すこしばかり煩いが、これも表現のうちとしておこう。

モーツァルトは、つとに有名な「春への憧れ」と「すみれ」で、早くもうっとりという感じだが、いまも述べたように、1曲ごとによく練られた歌の多彩な表情づけは、なかなか真似のできないところだ。「別れの歌」「鳥よ、この年ごとに」といった曲想ゆたかな曲目に利があり、その表情づけの高いセンスには驚かされた。

後半が、なんといっても素晴らしかった。オスカル・エスプラ、エドゥアルド・トルドラ、シャモン・モンサルバーチェと馴染みのない作曲家ばかりだが、バーヨの変幻自在の唱法も手伝って、スペインらしい自由な歌いくちで魅了した。エスプラ「5つのスペインの歌曲」では、バーヨの劇場人としての経験がもろに表れた。夢見るような「物売りの歌」、哀愁漂う「貧しい漁夫」の深い沈潜。これらに対して、「小歌」のような人懐こさをチャーミングに歌い上げる部分も上手に表現し、同曲ではそんな年でもすでに芽生えている女心を、鮮やかに印象づけたものだ。

トルドラからは、さらにギアがうまいところに入ったという感じがする。歌曲集「カスティーリャの6つの歌曲」から3曲が歌われたが、どれも格別の出来で、この日の白眉といえるかもしれない。「陽気な羊飼いの娘」で、溌剌とした真っすぐな女心もそのままに、爽やか発声を伸びやかに聴かせれば、「お母さん、私は一対の目を見たの」ではミステリアスな要素も交えて、芯のつよい女を演じきった。クラシカル、民謡、ジャズ、ブルース、ポップス、どれとも言えないボーダーレスな歌いくち、フォルムの柔らかさがなんとも印象的だ。アイロニカルな「誰も幸せにはなりえない」で、きっちりと締めた。

ここまでにテンションは高まり、最後のモンサルバーチェ「5つの黒人の歌」に入ると、そんな曲想ではない部分で、涙が上ってくる。とにかく、技術的なものとは無関係に、「うまい」のだ。素晴らしかったトルドラからの流れもあり、「ピアノの中のキューバ」、そして、「ハバナの小唄」あたりでの完璧な表現のデザインに、深い感動が走った。「伊達男」はユーモアたっぷりに、「黒人の子守唄」では、とても眠れない張り詰めた響きで、結びの「黒人の歌」はたっぷり伸びやかに、南国の異文化を華やかに歌い上げた。ハミングやヴォカリーズには独特のテイストがミックスされ、(はじめて聴く曲だが)彼女ならではの歌いまわしがいくつも聴かれた。歌い崩しは大胆だが、そこにはある種の可愛らしさがあり、ベースの美しさまでは損なわれていない。「コジ」のデスピーナのような、毒気のあるコミカルな役どころは天質であろう。

ここまでで、15分の休憩を挟んで7-80分であろうか。パートナーなしの声楽リサイタルならば、これに1、2曲のアンコールがついて終わり、という感じでも文句は出ないはずだ。だが、ここからのパフォーマンスも凄かった。曲数もキーシン並みに多かったが、内容もやりたい放題。敢えて詳しくは述べないことにするが、2曲目のカバジェロの曲目では、ここまで封印していた力強い歌声が開放され、再度、びっくりさせられた。ここ紀尾井ホールは、そう声を張り上げなくとも、歌手が自分らしいパフォーマンスを追い求め、理想的な声を届けることのできる条件が整っていたのだ。だが、こうして聴く伸びやかな歌声も、やはり棘のない、質のいい声だったことを強調しておきたい。また、最後から2番目に歌われたヘンデルの曲目では、その囁きかけるような、切ない響きが、体じゅうに染みわたってきたものだ。

マリア・バーヨ、なんとも面白く、素敵な歌手であった。次回の来日がいつになるのかはわからないが、もしあれば、逃すわけには行かない!
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