2008/1/13

J.コウト わが祖国(全曲) プラハ交響楽団 1/13  演奏会

イルジー・コウトの指揮で、スメタナの「わが祖国」の全曲演奏が聴けるということで、サントリーホールに足を運んだ。プラハ交響楽団は、先週から「新世界より」などのコンサートを国内各所で演奏しており、今後も日程が残っている。「わが祖国」はいわばスペシャル・プログラムであり、ここのほか、もう1回だけ武蔵野市民文化会館での公演があるのみではなかろうか。コウトはスラヴ系の音楽のほか、ドイツ音楽もキッチリ演奏できる世界的な指揮者であるが、日本での人気はもうひとつ伸びない。

さて、スラヴ系のオケが来ると、いやあ、やっぱりボヘミアの土の香りがするとか、くすんだ音色だとか、判で押したような形容がつくものだが、私はあまり好きではない。だから、敢えて角度を変えて言うのではないが、プラハ響はモダンなフォルムをもったオーケストラだったといえる。その印象は、コウトの音楽づくりの新鮮さから来たものでもあるが、いまは桂冠されているセルジュ・ボドが2001年から5年間、手塩にかけて再建し、いまのようになったオケ自体のキャラクターが滲み出ているのは当然というところだろう。

その彼らが弾く「わが祖国」は、ある意味で、肩の力の抜けたパフォーマンスだったのではないだろうか。お国ものに対する気負いは、まったく感じられない。なるほどコウトは、彼らにしかわからないような、独特の歌いまわしを十二分に把握してはいるが、まずは、楽曲の骨組みを丁寧に組み上げていくことを優先している。例えば、最初の〈ヴィシェフラド〉では、ウィーンナー・ワルツのように尾っぽを少し引っ張り気味にするなど、表面的にスコアを勉強するだけでは出てこない発想が、自然に織り込まれている。〈シャールカ〉のしまいの、ただ殺伐としているだけではなく、野の獣たちが自由に跳ねまわるような、開放的な躍動感の宿った響きなども、ほかのオケではなかなか体験できない。しかし、全体を通してみると、ごくごくオーソドックスな印象を受けるのではないか。そのことが、この演奏を駄目にするどころか、かえって活き活きしたものにしていることに注目したい。

オーソドックスであることは、ひとつの価値である。飾り気はないものの、〈ボヘミアの森と草原から〉の野性味あふれる響きはどうだろうか。〈ブラニーク〉で新しいコラールが現れるとき、まるで、いま、このとき、ボヘミアの民衆のエネルギーが、この歌を呼び出したような印象を与えるのも、彼らならではのものなのかもしれない。例えば、アーノンクール&ウィーン・フィルにも、この曲の録音があるが、いかに技術的に力強い成果を示していても、そうしたものまではカヴァーしきれるものではない。しかし、類似性はあるのだ。肩肘張らず、悠々として、自分たちの表現に徹する姿勢は、まったく厭味がなく、本当のプロの仕事という感じがする。その意味での厳しさは、ウィーンからもそう隔たらない土地で揉まれている、プラハ響の財産だ。しかも、音色が明るい。

配置は、チェロとバスが第1ヴァイオリンの隣に来る対向両翼型であり、響きはよく刈り込んである。ビエロフラーヴェクにしろ、コウトにしろ、巨匠時代よりもさらに伝統的な、こうしたデザインのほうが、自分たちの音楽により相応しいとみているようだ。私の見解では、サウンド自体の特徴はウィーン・フィルにちかい。ヴィシェフラドが見守り、ヴルダヴァが血脈のように流れる土地で、もうひとつのドイツ、もうひとつのウィーンが、ぐっと立ち上がったようなイメージを感じさせる演奏であった。弦・管とも高いレヴェルでバランスよく、抜きん出て上手なオケではないが、よく勘所がわかっている。だからこそ、肩の力を抜くことができるのだ。

どちらかというと弦のベースが美しく、まろやかで温かみがあるが、この曲では、敢えてブラス・セクションを押し出しており、自由に歌わせていた。コウトは相手が手兵であることもあり、ほとんど振っていないような部分も散見した。そのなかで、よく聴きあって、アンサンブルしているオケの自主性はさすがというべきか。木管は非常にストレート、金管は温厚な部分もあるが、元気がいい。コウトの場合は、音楽の変わり目などにおける切れ味が爽快だった。

終演後の反応も上々。このオーケストラは、聴衆のオヴェーションの間は、ずっと立っているようにしているらしい。客入りは7割程度だが、熱心な聴き手だったように思う。新春から、これだけのものを聴かせてもらえれば、文句はあるまい。武蔵野で聴かれる方があれば、楽しみにしてよいのではなかろうか。
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