2008/1/27

河合優子 ピアノ・リサイタル ショパン・ナショナルエディションによる全曲演奏 X 1/26  演奏会

河合優子による、ショパンのピアノ曲の全曲演奏会シリーズは、非常にエキサイティングな展開が続いている。2005年7月にはじまったシリーズは、5回目を迎えるのに、変ロ長調のソナタで私を魅了した河合優子というピアニストは、三鷹でのコンサートも含めると、これで4回目だというのに、まだまだ底をみせないのだ。

この日のローズウッド・スタインウェイの具合は、やや硬めであろうか。なにしろ、このピアノ、河合以外に、弾いている人を見たことがない。なんでも、随分と歴史のあるピアノだそうで、伝統の名器というとドッシリ安定感のある音を期待しがちだが、このピアノはなかなかの暴れ馬とみた。瀬川宏という有名な調律師が来て、ようやく面倒をみられる相手なのであろう。そんな難しいピアノを使っていることもあるのか、河合のパフォーマンスは毎回、趣がちがう。今回、敢えて「硬め」と評したのは、打鍵によってピアノに伝わる圧力に、やや重さが感じられたせいである。

もちろん、楽器の問題だけでなく、解釈の問題でもあるだろう。ある意味では当然だが、彼女の演奏は、曲目の性格(そこには作曲した時期なども含まれる)によって、大きく変容するように見受けられる。同じショパンであるのに、まったくアプローチが違い、まるで別の人が弾いているかのような部分さえあるのだ。今回のメインとなるプレリュードについては、劇的な要素と、フォルムをめぐる淡々とした視点が、いろいろなバランスで組み合わされた演奏だった。前半の曲目でも、ベートーベンの「月光」(第1楽章)や、ノクターンでは、内省的なものながら、深いドラマが脈打っており、逆に。マズルカではカラッとした造形美を出していた。プレリュードは、これらの象徴を行き来する形で演奏された。

最初のベートーベンは、あくまでショパンの今日のプログラムを演奏するための助走として聴くべきだ。この曲は「嬰ハ短調のノクターンと共通する雰囲気があり、インスピレーションが湧」くということで選ばれた。敢えて拍節感を犠牲にして、沁みだす感情を思いきって強調しているのだが、ノクターンでもそれを(意識的に)引きずっている感じがした。op.27の2つのノクターンは、妙な言い方になるが、優しさのなかにある厳しさに包まれた演奏だ。極端すぎるほどのソフト・タッチは、聴き手をたちどころに懐のなかに入れてしまうが、近づいたと思ったその瞬間、冷淡なまでに厳しい張りつめた音楽が遮って、あっという間に気も遠くなるほど離れているという具合である。つづくop.30の4つのマズルカは、すこし淡白なほどだが、こういう曲目でこそ、河合の本領はもっとも発揮されるのかもしれない。「英雄ポロネーズ」を思い起こさせるロ短調(op.30-2)の優美さと、線香花火のような不思議な盛衰を見せる嬰ハ短調(op.30-4)の演奏が印象的だった。

プログラムなどへの表記はないが、河合は24のプレリュードを6曲ずつ、4つのグループにわけて演奏したように見える。実際にそういう意図があったかどうかはわからないが、そう思って聴くと、結構うまく嵌まっているように聴けたということだ。ショパンのプレリュードは、構造的には長・短調を交互に配しながら5度で循環していく形式をとっており、12番まで順次、シャープがひとつずつ増えていく一方、13番の嬰へ短調以降はフラット系にかわり、それが一つずつ減っていくという形をとっていることは周知のとおり。そこと関連づけて述べられる見識はないが、結局、6曲ごとにプレゼンスのつよいフィナーレが置かれ、次の展開を導くような要素が改めて出現するというイメージが、私の前に現前したということだ。下知識としては、このプレリュードが大バッハのいわゆる「平均律」へのオマージュを含んでいる点も大事である。

とりわけ、有名な「雨だれ」含むところの第3グループ、すなわち、嬰ヘ長調の13番からヘ短調の18番までに集められた表現力の輝きは、この演奏会の白眉をなす。だが、その流れは、ちょうど半ばを締めることになる12番の演奏の、深い彫りこみあってこそだったと付け加えておくことも必要だろう。すこし呼吸を置いてはじめたレントの13番は、例の6曲ずつの構成を私に確信させたナンバーだった。ごく短いが、葬送ソナタの終楽章を思わせる不思議な吸引力をもった14番を、驚くほどの濃厚さで描いたあと、やはり、「雨だれ」は名曲と感じさせる15番の演奏が充実していた。

ここで河合は、生ぬるいイメージをまったく排除し、一音一音に厳しすぎるほどの気迫を漲らせた。ニックネームのもととなったと思われる同音連打のベースが、重く、厳しく刻まれた。それは中間のいかにも重苦しい部分よりも、むしろ、そこから抜けてくるときの優しげな表情に、ぐっとのしかかってくるようだった。そして、連打が外れたときの、絵も言われぬ緊張感は何なのであろう? だが、そこに浸りこむことは、すべての構想を崩すことになる。まだ6曲のうちの3曲目でしかないのだ。ほぼアタッカで、けたたましく16番が始まる。

その16番は細かい音符ばかりだが、河合の演奏はドッシリとしている。17番が、実質的なクライマックスを成す。その部分を左右の見事なバランスで、優美に描き上げていた。あとを弾くような尾っぽの響きがきれいだが、同時に、幹と枝を丁寧に選り分けた精妙な打鍵も秀逸だ。万感の情を込めて、ショパンの愛をイメージさせる。18番は、第3グループの締めでありながら、6番や12番とは違う特質をもつ。それは、その大事なグループを力強く閉じるとともに、そこから一段のぼった最後のグループを呼び出す働きである。ほとんど続けて立ち上がったへ短調の19番以降、第4のグループは大きなコーダのようなものだと感じた。

第4のグループは、20番のような暗鬱なものも含めて、どこか天上の音楽という雰囲気で、夢のような美しさ、もしくは最後には希望が生まれるというのを志向していたと考えるし、それはかなり成功しているのではないか。それを象徴するのは、まったく対象的な23番と24番である。23番は、ショパンなりにバッハに近づいた天上の世界の音楽だ。だが、そこに安らぐショパンではない。そこで束の間の安らぎを得た彼は、最後の同音連打に表れるように、もう理屈ではない使命感のようなものを抱いて、再び地上に降り立つ。エウリディーチェを失いながらも、地上に帰ってきたオルフェウスのように! 誤解を恐れずにいうならば、24番の演奏は本当に理屈ではなく、上手下手さえ二の次という、正しくアレグロ・アパショナートというに相応しい演奏だったと思う。

さて、エチュードとプレリュードのヤマを乗り越えたところで、次回は、独奏版のピアノ協奏曲に移る。既に、1番は三鷹で聴いているわけだが、次回は、番号とは別に、成立が早い第2番を先に弾くということである。コマーシャル面が弱く、興行的には成功していないが、粘り強くつづけられるプロジェクトに敬意を払いたい。
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2008/1/26

新国 新シーズンはパンチに欠けるラインナップ  演奏会

食事の摂り方の好みを話題にする場合、好きなものを最初に食べるか、最後に食べるかで意見がわかれる。だが、真ん中に食べるという選択肢はない。尊敬する人物を10人挙げろといわれた場合、最初の数人はポンポンと挙がり、中盤にかかっては、ああでもないこうでもないとやりだすものの、最後の数人は初めから決めていたようにスンナリと名前が挙がる。とかく、真ん中のほうは数合わせになりやすいものだ。

【オペラ部門】

新国の新シーズンが、正しくそれである。若杉体制3年のうち中間年のラインナップは、あたまと尻尾でアイディアを使いすぎたことで、若杉の言う「オペラ十八番」のうち、そこからあぶれたものを拾い集めるような感じになったのではないか。特にシーズン前半が、「トゥーランドット」「リゴレット」「ドン・ジョヴァンニ」「マダム・バタフライ」「こうもり」と、独墺伊の人気作品ばかりが集まって、これが新しきナショナル・シアターの演目であるとは、世界に向けていかにも情けないばかりだ。ここでの貯金を、後半につぎ込むというわけであろうか。ハーフ・リングの2演目に加え、「マクベス夫人」「チェネレントラ」(豪華キャスト)「修禅寺物語」というラインナップは、決して悪くはないのだけれど・・・。

ただ、その後半戦にしても、いろいろとケチの付けどころはある。まず、ワーグナーの「ラインの黄金」と「ワルキューレ」では、指揮にダン・エッティンガーという選択を、どれだけの人たちが歓迎するであろうか。ベルリンではバレンボイムの留守居役をしっかり務めてはいるし、安定感のある指揮者だとは思う。しかし、それだけで「リング」の長丁場がもつのであろうか? 2作品のヴォータンは、ラシライネン。「ワルキューレ」ジークムントはヴォットリヒ、フンディンクはリドルと、バイロイト常連組はしっかりと歌いきるだろうが、あまり大きなエクスタシーは感じられそうもなくて、やや保守的な印象も与える。加えて、装置製作済みの再演でありながら、今シーズンでは唯一の「ランク1」はS席で26,000円強と高い。また前回の「トーキョーリング」の成功を下支えした管弦楽(N響)が、いつもの東京フィルに変わることもある。前回の指揮者は準・メルクルだから、指揮者とオケが格落ちになるのもマイナス材料だ。

ようやく登場のロシアものには歓迎すべきところだが、「ムツェンスク郡のマクベス夫人」では、寝取られ亭主のジノーヴィ役に内山信吾が当てられているのが問題だろう。わるい歌手ではないのだが、ロシア勢の歌うセルゲイやボリスと並んだときに、彼のもつ声の特徴が十分に生きてくるのかは難しいところではないか。カテリーナ役のステファニー・フリーデは、「西部の娘」の公演で好評を得ての再起用となる。まあ、やってくれることにこそ意義がある公演だが、指揮者に若杉弘というのも、歓迎してよいものかどうかわからない。

前回の来日リサイタルで、ツケを務めたD.サイラスを伴ってカサロヴァが乗り込んでくるチェネレントラは、マニーフィコ役のデ・シモーネも、録音でカサロヴァの相手役を務めたことがあり、あたかもカサロヴァ祭りというところだ。シラグーザがラミーロ役で登場するのは福音だが、私にとってのカサロヴァは、中の上くらいの存在でしかない。サイラスは英国ROHなどで活躍する指揮者だが、あまり芳しい評判は聞かないようだ。

指揮者陣も、やや貧弱な印象を与える。「トゥーランドット」を振るアッレマンディは、二期会にも登場して優れた演奏を聴かせたものだが、好悪わかれるベテランのダニエレ・カッレガーリのあとは、まだ30代前半のコンスタンティン・トリンクス、カルロ・モンタナーロと無名というべき指揮者が続く。無名=才能がないということにはならないが、うまく当たれば儲けものというところで、もうこれは祈るしかない。その後も、アレクサンダー・ジョエル、ダン・エッティンガー、デイヴィッド・サイラスと、大きな期待はかけられない顔ぶれが並んでいる。

演目を国別に分けてみると、独墺4/伊4で8割を占めており、そのほかに日1、露1で、フランス、東欧、英国などの作品はひとつもない。しかも、作曲家の名前を並べてみると、独墺はワーグナー、J.シュトラウスU、モーツァルト、伊はプッチーニ、ヴェルディ、ロッシーニという顔ぶれで、偏っている印象は拭えないだろう。それぞれの時代で中心的な役割を演じた作曲家ばかりが選ばれ、これらの周辺で時代を彩る群像がまったく落とされているのは、すこし残念だ。年間10プログラムだから、できることは限られている。でも、工夫のしようはないわけではない。例えば、「リゴレット」の代わりに「シモン・ボッカネグラ」を置き、「バタフライ」の代わりにマスネ「ウェルテル」でも置いてみたら、さほど方向性を変えないでも、ぐっと引き締まったプログラムになるのではないか。こうもりの代わりに、オッフェンバック「ジェロレスタン大公妃殿下」とか・・・。

歌手陣については、わりと頑張って集めてきたという感じがする。バレエ公演と同じで、歌手さえ集めてしまえば・・・という思惑が、すこし垣間見える感じがするのは、私だけだろうか。それはそうなのだが、ひとつひとつの公演に、もっと拘りがあってもいいと思う。ラード・アタネッリの歌うリゴレットや、ヴィオレッタが素晴らしいというノエミ・ナーデルマン(『こうもり』ロザリンデ役)に期待が寄せられる。予想どおり、日本人キャストの進出が試みられているが、顔ぶれが固定化しており、フレッシュさに欠ける。自国なのだから、もうすこしアンテナを張り巡らしてもいいはずだ。批判を込めて紹介した内山のほか、浜田理恵のリュー、高橋淳のミーメなど、健闘を祈りたいところ。

【バレエ部門】

バレエ部門は、オペラよりはコンセプトがハッキリしている。古典とコンテンポラリーをバランスよく踊っていく方向はぶれず、作品もいわゆるクラシカルな音楽に基づいたものだけでなく、自由な発想がみられる。バーミンガムで勇名を馳せるデイヴィッド・ピントレー振り付けによる、「アラジン」で幕を開けるというのが象徴的だ。

トリプル・ビルの1本として日本初演されるトワイラ・サープのプロダクションを除くと、今年は新製作が1本だけで、これまで作ってきた牧監督改訂によるプロダクションなどを中心に、それらを熟成させる方向で動いているように見える。特に、「ライモンダ」の再演は見てみたい舞台だ。このプロダクションが、2月にはアメリカに渡る。年末恒例の演目は、「シンデレラ」か「ナッツ・クラッカー」だが、来季は「シンデレラ」。アシュトンの古い振付ではあるが、新国を代表するプロダクションといえよう。前回はエマニュエル・プラッソンの指揮で、音楽面の成果が素晴らしかったのだが、お馴染みの顔役とはいえ、予定されるD.ガーフォースではそこまでは望めないかもしれない。音楽面のコンテンツをもつ新国であればこそ、バレエと音楽の親密さを取り戻す努力を願いたいものだ。それが、古典バレエ作品が生まれたときの、本来の姿なのだから。
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