2007/11/19

井上道義 ショスタコーヴィチ 9/14番 広島交響楽団 11/18  演奏会

いよいよと言うべきか、井上道義の指揮によるショスタコーヴィチ・ツィクルスの公演に馳せ参じた。ペテルブルクのドミトリーエフ響が帰って、ここからは日本のオケの出番である。先陣は、広島交響楽団(広響)だが、2005年8月の「慰霊の日」前日におこなわれた慰霊コンサート、バッハ「マタイ受難曲」の演奏に出ていた数名を除けば、まったくの初顔である。だが、終わってみれば、広響、プロとしての面目は十分躍除したと言えるのではないか。

【日比谷公会堂は初めて】

まず、会場の日比谷公会堂の印象だが、思ったよりは、ずっと素晴らしい環境だ。多くの席が2階席に被せられている1階の席を封鎖して、2階だけを使うのであれば、立派に役割を果たしてくれるだろう。響きはデッドであるが、その分、舞台がちかいので、本当に「生」の音を拾い集めるようなサウンドが楽しめる。押しつけがまましい残響が起こらず、聴き手からコミットしていくことで、初めて得られる響きなのは面白い。2階席であれば、奥側まで不公平感のない音を堪能できるであろう。ショスタコーヴィチのように、フィジカルな面がしっかりした曲目では、ここの音響は必ずしも悪くはない。ただし、昔の日本人サイズの座席は、私にはすこし窮屈だ。場所によってはギシギシ鳴る椅子も、意外に疲れないのだが。

【交響曲第9番】

さて、この日の曲目は、ショスタコーヴィチの交響曲のなかでも、もっとも聴きやすい曲と、もっとも聴きづらい曲がプログラミングされた。前半の9番は、やや硬質なアンサンブルだが、悪くはない。井上のタイトな音楽づくりはいつもながらで、広響も背筋のピンと伸びた演奏だ。ここの楽団は、確かに巧くはない。音色も硬いし、色彩感に乏しい。だが、タテの意識が非常につよく、安定感のあるアンサンブルを形成する。第1楽章のアレグロで、そのような特徴が披露された。これなら、確かにショスタコーヴィチの「9番」に期待した当時の人たちはガッカリしただろうという、マーチの単純さを敢えて前面に出している。

その後も、構成感のしっかりした演奏が続く。プレストのスケルッツォ以降が、よく出来た演奏だ。特に、金管の伸びやかなアタックは適度に抑制が効いているわりに、思いきったパフォーマンスで気に入った。木管は丁寧だが、総じて音色に膨らみと、柔らかみが足りない。最後の切り替えの部分は、井上の見通しのよいデザインが閃き、随分と速い感じもするが、圧巻の弾きおわりである。

【交響曲第14番】

対照的に、小難しいはずの14番のほうが、スッキリした演奏である。2人のソリストは、バスのセルゲイ・アレクサーシキンがどっしりしたポジションを精確に維持し、安定したパフォーマンスを続けるのに対して、ソプラノのアンナ・ジャファシンスカヤは、オペラティックに多彩な表情をつけて歌いあげる。このバランスがよく、重苦しく、息詰まるような音楽、暗くシュールレアスティックな歌詞にもかかわらず、ながく集中を保って聴き通すことができた。

ジャファシンスカヤの歌唱は、曲ごとの性格を細かく考え抜いた上でのよく練られた表現であり、彼女のなかに、この日の聴衆は何人の女たちを見たであろうか? 声質的にはドラマティックに属するのだろうが、声の広がりが上品で、歌いすぎないのである。まだ前半に属し、コントロールが完全に行き届いていた〈ローレライ〉の歌唱は、正しく崖を滑り落ちるような女のこころを丁寧に歌い上げる。鐘のあとの部分は、宙にダイヴした女の一瞬の感慨を歌ったように思え、時間が止まったような感覚がした。その残り香を引きながら、チェロの短い演奏からソプラノが歌いはじめる〈自殺者〉までのパフォーマンスは、賞賛に値する。そのナンバーは自殺という同一のテーマを扱いながらも、どこかずれている。そこをジャファシンスカヤも、丁寧に印象づけている。印象的な ’Tri lilii...(3本のゆり)’ の歌詞が、この上もなく艶かしく歌われた。

ことジャファシンスカヤのナンバーで言うと、「マダム、すいません・・・なにか落とされされましたよ」という日常的なやりとりが、「どうぞお取りになって、それは私のこころにすぎません」と切り返され、結局、死によって断たれた愛への絶望に結びついていくという部分を、オペレッタでも歌うようにシュールに表現したのも忘れがたい。

アレクサーシキンのナンバーは、どれが良いとか悪いとかいうよりは、ならして優れたパフォーマンスだ。重心の低い、どっしりした、ドイツ人のそれとも違う、深いロシアのバスの発声が、私には気持ちよかった。どれかひとつと言うならば、「おお、デーリヴィクよ、デーリヴィク!」のところが白眉であり、このナンバーだけは、暗さというよりも、「結社」の粘りづよいエネルギーをなるべく明るい発声で、誇らしげに歌ったのが印象的であった。それは「結社」への淡い共感とともに、どこか、皮肉な目をも向けた感じである。

オーケストラはやや控えめだが、例えば、〈ローレライ〉が崖に向かっていくときのトレモロ部分など、もう論理じゃないような部分も含めて、よく練り込まれたディープな表現を聴かせてくれた。井上もいうように、この曲をやるには、ドミトリーエフ響よりもふさわしい楽団であったといえる。彼らは秋山和慶の薫陶を受け、トゥービンの交響曲の日本初演を果たすなど、地方オケとしては開明的な動きが目立つのである。よく統制のとれたアンサンブルを、井上はときにはみ出させるようにもしつつ、力強く導いた。最後のナンバー〈結び〉では、武満でも聴かせてもらうような酒脱さが、逆に全体を引き締めてくれるように思った。

【まとめ】

この一連の演奏会は、会場を含めた一体感が既に醸成されつつあり、終演後は、オケマンたちが完全に下がっても、聴衆たちは当たり前のように拍手をつづけ、井上を再度ステージに呼び出すようになっている。多分、こういう感じで最後まで行くのであろう。井上、完全に聴き手の支持を得たようだが、私もそこに加わっていきたいと思う。あと1−2回、ここに来ることを予定している。財布が空っぽの貧乏人だが、カンパは、そのときにまとめて!
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