2007/11/7

批判的ヴェリズモ レオンカヴァッロ〜歌劇 『道化師』 B  クラシック曲目分析室

【ネッダを愛する男たち】

この劇の本当の中心にいるのは、カーニオでも、トーニオでもない。ネッダである。なぜならば、彼女は、カーニオ、トーニオ、シルヴィオという三人の男性の愛情を、一心に集めるからだ。とはいえ、三人の男の愛情は、まったく比較ができないほど、相異なっている。例えば、カーニオはネッダを一から扶育してきたという自負があり、その収穫を独り占めせんとする想いは、誰よりも強い。ネッダへの愛情というよりも、権利があると思っているのだ。

これに対して、トーニオはすこし屈折した愛情を抱いている。彼は足が非自由であり、そのことで誰からも馬鹿にされている。彼はそのコンプレックスを、ネッダを手に入れることで埋めようと考えているのだ。彼はどんな手を使っても、ネッダを支配したいと考え、はじめは力に頼ろうとするが、それさえも駄目だとわかると、策略によってカーニオを動かすことで、ネッダに復讐しようと試みる。トーニオの愛情は、自らの抱くコンプレップスを逆撫でして、侮辱したネッダへの憎悪に変わる。

【シルヴィオの限界】

シルヴィオは一見、紳士的にネッダの想いに寄り添うかに見えるが、彼もまた、ネッダに匹敵する存在なのかどうか疑問である。確かに、第1幕第3景で、2人がキスをする場面を頂点とするやりとりは、全編を通してもっとも甘い部分に当たるし、何よりもまず、音楽がそのことを語っている。薄い膜を引くように、2人の愛のやりとりにオブリガードをつけた作曲者は、いざキスの場面では一時停止させて、念を押してさえいる。しかし、例えば次のような歌詞に、私は注目する。この部分は、薄い伴奏の下で、2人の声がきれいにハモるようになっており、ぼんやり聞いている分にはとても美しい。しかも、ここでレオンカヴァッロは、ハーモニーだけではなく、言葉の響きの上でもハーモニーが生じるような仕掛けを使っている。

 ネッダ Si guarda e mi bacia!

 シルヴィオ Si ti guardo e ti bacio!

「私のことをみて、口づけをなさって!」「君を見つめて、口づけするよ!」というやりとりなのであるが、これをレオンカヴァッロはひとつに重ねて歌わせている。オペラ的には、別に珍しいやり方ではないが、どこか気になる。このあと2人は、’Tamo!(愛してる!)’という同一の歌詞を歌うが、響きはやや不協和になり、そのまま第4場に入って、トーニオがカーニオを制して、身を潜める部分の暗い音楽に直接していく。

シルヴィオは、ネッダの不満を知っており、カーニオの要求するネッダの役割から、彼女を救出するという名分がある。つまり彼は、カーニオの独善的な権利を否定し、ネッダがアリアで歌うような、彼女本来の人格を回復するという役割を担おうとしているのだ。しかし、結末がすべてを物語っている。彼は、そのことの重大さにすこしも気づいていない。シルヴィオの愛情は恐らく、カーニオの異常なまでの意識を覆し得るものではないのだ。農夫たちが、トーニオがネッダを誘惑するつもりだと冗談を言ったとき、我を忘れて厳しい言葉を吐いたカーニオを、ネッダは恐れる。シルヴィオが彼女と同じように、自分のしようとしていることが、カーニオにどのような怒りをもたらすのか、気づいていれば、情事はもっと慎重に進められるか、もしくは、彼女の身の安全を思えば、涙を呑んで諦めるという判断さえあったはずだ。そうしたものを感じ取れないところに、ネッダを愛することに対する、シルヴィオの限界がある。

【ネッダについて】

それでは、ネッダとは、いかなる女性であろうか。彼女は、カルメンにちかい。彼女の歌うアリア「鳥の歌」は、カルメンの歌う名アリア=ハバネラ「恋は野の鳥」を連想させるだろう。ネッダは、明らかに自由を求めている。それは、カーニオが嫌だからというよりは、むしろ生得的な要素が強い。そうでなければ、コメディアの最後の部分で、完全に逆上したカーニオに向かって、母の名にかけても名前はいえない・・・と力強く言い放てるものではない。この部分まで、ネッダは粘りづよく耐えている。その点では、カルメンとは異なる面もある。カルメンは、耐えるということは知らない。ところが、ここでネッダのほうも完全にキレる。そして、まるで「トリスタン」第2幕で、朝が来ても開きなおって逃げようともしない、イゾルデの姿を思わせる音楽がつくなか、昂然とカーニオに反論するネッダの様子が描かれる。ここで、ネッダはカルメン的な女性からイゾルデ的な女性へと、一気に駆け上がったといえるだろう。ただし、目の前にいたのは、マルケ王のような人徳者ではなかった。

なお、カルメンはメッツォの役であり、イゾルデはソプラノだが、やはり重い役に属する。ネッダもソプラノだが、声質的には、これらの役と同等の重みが求められる。有名なアリアや、コメディアの場面では、より軽めの声づくりもあうだろうが、このような要素も考えると、それは正しいアプローチではないように思われる。このような点にも、レオンカヴァッロの計算は及んでいるのだ。
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