2007/11/2

批判的ヴェリズモ レオンカヴァッロ〜歌劇「道化師」 A  クラシック曲目分析室

親記事を書いたのは、もう2ヶ月も前のことだった。レオンカヴァッロの「道化師」について、書きたいと思っていたのだ。そのときの私は、こう述べている。

この作品は従来のヴェリズモ・オペラの道具立てを借りて、人間のありのままの姿を見つめようとするヴェリズモ劇の、本来の形を取り戻そうとしたような作品なのだ。

正しく、このことを証明するようなことを書きたいのであるが、そのテーマの難しさに尻ごみした2ヶ月であったのかもしれない。

【観客のみたかったものを、作者はずらした!】

いちばん本質的なことを言おう。レオンカヴァッロは、この作品で、観客のみたかったものをずらして、まったく別の次元にもっていこうとしたのだ。怒りに駆られたカーニオが、現実の不倫と劇中の情事の区別がつかなくなり、ネッダを殺害してしまうところまでは、まだしもである。だが、その直後が問題だ。すべてを仕組んだトーニオがツカツカと進み出たかと思うと、’La commedia e finita!(喜劇はおわりました!)’ と叫ぶところは、グロテスク極まりないもので、この台詞までを観客が期待していたとは思いにくい。

不貞の妻が、逆上した夫に刺されるのは、まあ、愉快であるかもしれない。また、現実とつくりごとの区別がつかなくなった男を笑うのも、悪くないだろう。だが、このトーニオの策略は、あまりにもエゲつない。しかも、その成就を喜劇と称し、その完成に一人陶酔しているかのような態度は、なかなか受け容れられるものではないだろう。ここで気づくべきなのは、トーニオが、カーニオやネッダだけを笑い者にしたのではない、という事実だ。なぜならば、レオンカヴァッロは、劇中劇の場面で、カーニオ一座を囲む人たちの姿を描き、実際にブラーヴォなどと言わせて、多いに参加させているからだ。トーニオは、この悲劇を観ている人たちが、むしろ、喜劇の役者たちであることを痛烈に皮肉っている。ということは、そういう劇を観ている我々もまた、トーニオのアイロニーから逃れられないということになるのかもしれない。そもそもトーニオは冒頭の口上で、我々に呼びかけるように歌うのであるから、初めから、そういうことを企図して作品が構成されているのは、容易に気づき得ることであろう。

では、レオンカヴァッロがなぜ、そのような仕掛けをしたのかということを考えねばなるまい。アイロニーとは、ただ冷笑するのが目的ではない。そこに大事な要素があるからこそ、皮肉な言い方をすることで、受け手に対して気づきを喚起しようとするのだ。とするならば、ここで作曲者がなにを気づかせるために、トーニオにあんな不敵な役割を与えたかということを考えればよいのである。そのヒントは口上にある。

「みなさんは、私たちのあわれな道化師の装いよりも、私たちの魂についてお考えになるでしょう。」

このことを実現するために、レオンカヴァッロは、実に様々な仕掛けを弄していったのだ。トーニオの幕切れの台詞は、この口上のあとの、’Andiam,Incominciate!(さあ、はじまりだ!)’ に対応したものだ。作曲者はここで、観客たちに我に返ってもらい、あの口上の文句に立ち返ってほしいと願ったのである。彼が描きたかったのは、現実の事件に取材したという、あわれな道化師の問題ではないのだ。人間がいかに喜び、傷つき、愛しあい、憎しみあうのかという、我々のこころに迫った作品でありたかったのだ。その下地には、その方面での人類の最高傑作のひとつである「トリスタンとイゾルデ」がある。そのことは、またあとにも述べる。

結局のところ、トーニオは、深い夢の世界から我々を呼び覚ますための、目覚まし時計のような働きをするのだ。このような装置は、「カヴァレリア・ルスティカーナ」にはない。我々はどうしても、「道化師のあわれな衣装」のほうに目が行ってしまうものだが、レオンカヴァッロは、そこにトーニオという強力なキャラクターを置くことで、なにか違うというメッセージを観客たちに送っているのである。

こうしたメッセージを、もうすこし掘り下げてみたいのだ。
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