2007/11/11

ヴィンシャーマン 水戸室内管 バッハづくし 11/10  演奏会

かつてアンジェイ・ヤシンスキのピアノ・リサイタルを訪れたとき、プログラムに寄せられていた弟子のクシシュトフ・ヤヴォンスキの言葉は印象的だ。彼はヤシンスキのピアノの最大の魅力はコミュニケーション力の強さにあるといい、ヤシンスキの演奏を聴く者は、彼がピアノを通じてコンタクトしてくるのに逆らえず、その温かみから逃れることができないのだという趣旨のことを、書いていた。

確かに、ヤヴォンスキの言うとおりであったから、私はヤシンスキのピアノの音色もさることながら、彼の人格的な大きさというものを忘れることができない。それと似たような感覚を、弟子のツィメルマンの演奏で味わったが、こちらは、より意味深長な含みを忍ばせていた。そして、今回もそうである。水戸室内管を指揮したヘルムート・ヴィンシャーマンは、正しく彼の全存在をバッハの曲目に託して、水戸の聴衆たちと共有した。最期の管弦楽組曲第5番の終楽章、おしまいの音が切れるか切れないかといううちに、ヴィンシャーマンは大喜びで手を打って、トランペットとティンパニーを指さした。アンコールの曲目もおわると、彼はこの1日の思い出を確かめるように、ソロを務めた奏者たちの1人1人と握手を交わし、しまいには親指を一本立てて、オケ全体を賞賛。さらに向きなおり、聴衆にも同じようにしてみせ、手を広げて、さあ、来ないかというように誘うと、数人の聴衆が応えて握手を交わしたりもした。

宮本文昭のオーボエの師匠として日本では有名だが、なるほど、この名匠を育てた大先生は只者ではなかった。野尻(旧姓)翠を妻とし、大の親日家でもあるという。ドイツでは、「ドイツ・バッハ・ゾリステン」を40年にもわたって率いてきた、バッハ演奏の長老として誰もが認める存在だ。しかし、まったく権威的なところがなく、我々が出会ったヴィンシャーマンは、バッハの音楽に何もかもを捧げ、その音楽のいのちを我々と共有したいと願う、愛情に満ちた人間であった。だが、それにしても大きい。とてつもなく大きな存在だ。

【バッハ辞典ともいえるヴィンシャーマン編のゴールトベルク変奏曲】

この演奏会は、おもに、この「ゴールトベルク変奏曲」のためにあった。目立ちたがらないクリスティーネ・ショルンスハイムのチェンバロに舌を巻いたブランデンブルク協奏曲第5番は、正しく前菜だった。ゴールトベルクを鍋料理のようにみんなで囲み、ほんのデザートに管弦楽組曲第3番が置かれたのだ。この「ゴールトベルク変奏曲」はヴィンシャーマン自らが管弦楽版に編曲したもので、弦のほかに、管楽器を入れたのが画期的であったという。最終変奏の〈クゥオドリベット〉では、原素材に当たる古い民謡の歌詞をつけて、混声合唱に歌わせるというアイディアが光る。

ヴィンシャーマンの編曲は換骨奪胎といってよいので、原曲からみれば、やや脱線的な印象もある。しかし、バッハの音楽に無上の愛情を注ぐ彼の仕事だけあって、最初からそういう編曲があったかのような自然さは驚くべきものであるし、さらに、バッハの音楽についての百科辞典的な、多彩な語法が織り込まれているのも特筆に値しよう。クォドリベットの工夫では、本来の鍵盤楽器のための作品に、バッハのもうひとつの重要なフィールドである声楽作品を載せ、鮮やかな対比を楽しませる。そして、最後にチェンバロ独奏で演奏される主題回帰の、あまりの美しさといったら!

演奏自体、相当にレヴェルの高いものであったことは疑いない。第15変奏を境に、休憩を挟んで、最後まで演奏されたが、特に後半の充実は目を瞠るものがあるだろう。編曲の魅力的なことは、序盤から明らかだった。ショルンスハイムの主題演奏のあと、全奏による第1変奏がまずもって美しい響き。つづく第2変奏の、オーボエ、ダモーレ、ファゴットの三重奏で、完全に釣り込まれていた。とりわけ、ダーグ・イェンセンのファゴットは、しっかりした膨らみのあるフォルムと、驚くべき技巧の冴えで、まず耳を惹く。彼のパフォーマンスは演奏会全体を通して抜群だが、この曲で特に輝いていた。ダモーレの荒絵里子も、丁寧な音づくりでアンサンブルに貢献した。序盤のいくつかのナンバーで、しっかり流れをつくったのは大きい。

少しずつ組み合わせを変えながら、変奏は進む。後半は、冒頭の第16変奏の〈序曲〉が、全体を象徴するような明るいフォルムで、しっかりと始まり、つづく、オーボエ、ダモーレ、ファゴットの三重奏が、またも心臓部分の働きをする。この3本と、イングリッシュ・ホルンの組み合わせによる木管による重奏は、キャラクターが似通っているものの、装飾や音色の微妙なあやを丁寧に表現し、ひとつの聴きどころとなっている。後半は弦のほうにも音色に余裕が生まれ、第25変奏のヴァイオリン、ヴィオラ、チェロのソロによる三重奏が、ひとつのクライマックスを築いている。変奏が進むごとに全体のコミュニケーションが、より強固に結びつけられていき、力強いアンサンブルが完成に向かっていく。

注目の〈クォドリベット〉は、ヴィンシャーマンとはかつて共演暦もあるという、盛岡バッハ・カンタータ・フェラインが、無欲な美しいフォルムの歌唱で、正しくバッハの曲にすべてを捧げるかのような身を低くしたパフォーマンスにより、感動を呼ぶ。主題回帰では、今回の一連のながれが重く蓄積したものか、かの有名なメロディが、これまでにもなくスッキリと胸に染み込んできて、しみじみと泣けた。まるで、マタイの最後のコラールを聴き終えたときのように!

【ヴィンシャーマンの祝福を受けた管弦楽組曲第3番】

最後の管弦楽組曲第3番は、ヴィンシャーマンの拍手を受けた演奏だけに、名演である。特に、杉木峯夫を中心とするトランペットの響きは、古楽器ではないにも関わらず、あの鄙びた響きを忠実に表現するととともに、アンサンブルのなかに、柔らかく滲み出していくのである。弦をコアにもつアンサンブルの、音色の美しさは出色。もっとも弱い楽器をもしっかり聴いて、濁りのない響きを作り上げたのは、オーボエ出身のヴィンシャーマンの卓越した聴く力の導きなのであろうか(オーボエの弟子、指揮者・宮本文昭もやはり耳がよかったのを思い出す)。

チェンバロの響きに巻きつくようにして、弦楽アンサンブルが美しい〈エア〉となって絡みついた第2曲は、前半の明るめの響きからすると、後半、いつの間にか陰がつき、その微細な音色の変化に、ハッとさせられる。こんなにも優美で、深い感情を織り上げた〈エア〉は、初めてである。〈ガヴォット〉と〈ブーレ〉は、アウフタクトを利用した跳躍感の清冽なガヴォットに対し、ブーレーの軽快な跳躍感の対比が面白い。ジーグは終曲でもあり、前の舞曲よりも落ち着いた雰囲気があり、とりわけ、金管の典雅な響きが、アクセントになっている。最後は、しっかりと手のうちにしまい込むような丁寧な弾きおわりであり、おわりかけで、ヴィンシャーマンがいきなり拍手をしだしたのは、最初に報告したとおりである。特別な演奏会になったと思う。


【プログラム】 2007年11月10日

1、バッハ ブランデンブルク協奏曲第5番
2、バッハ/ヴィンシャーマン ゴールトベルク変奏曲(管弦楽曲版)
3、バッハ 管弦楽組曲第3番

 於:水戸芸術館
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2007/11/7

批判的ヴェリズモ レオンカヴァッロ〜歌劇 『道化師』 B  クラシック曲目分析室

【ネッダを愛する男たち】

この劇の本当の中心にいるのは、カーニオでも、トーニオでもない。ネッダである。なぜならば、彼女は、カーニオ、トーニオ、シルヴィオという三人の男性の愛情を、一心に集めるからだ。とはいえ、三人の男の愛情は、まったく比較ができないほど、相異なっている。例えば、カーニオはネッダを一から扶育してきたという自負があり、その収穫を独り占めせんとする想いは、誰よりも強い。ネッダへの愛情というよりも、権利があると思っているのだ。

これに対して、トーニオはすこし屈折した愛情を抱いている。彼は足が非自由であり、そのことで誰からも馬鹿にされている。彼はそのコンプレックスを、ネッダを手に入れることで埋めようと考えているのだ。彼はどんな手を使っても、ネッダを支配したいと考え、はじめは力に頼ろうとするが、それさえも駄目だとわかると、策略によってカーニオを動かすことで、ネッダに復讐しようと試みる。トーニオの愛情は、自らの抱くコンプレップスを逆撫でして、侮辱したネッダへの憎悪に変わる。

【シルヴィオの限界】

シルヴィオは一見、紳士的にネッダの想いに寄り添うかに見えるが、彼もまた、ネッダに匹敵する存在なのかどうか疑問である。確かに、第1幕第3景で、2人がキスをする場面を頂点とするやりとりは、全編を通してもっとも甘い部分に当たるし、何よりもまず、音楽がそのことを語っている。薄い膜を引くように、2人の愛のやりとりにオブリガードをつけた作曲者は、いざキスの場面では一時停止させて、念を押してさえいる。しかし、例えば次のような歌詞に、私は注目する。この部分は、薄い伴奏の下で、2人の声がきれいにハモるようになっており、ぼんやり聞いている分にはとても美しい。しかも、ここでレオンカヴァッロは、ハーモニーだけではなく、言葉の響きの上でもハーモニーが生じるような仕掛けを使っている。

 ネッダ Si guarda e mi bacia!

 シルヴィオ Si ti guardo e ti bacio!

「私のことをみて、口づけをなさって!」「君を見つめて、口づけするよ!」というやりとりなのであるが、これをレオンカヴァッロはひとつに重ねて歌わせている。オペラ的には、別に珍しいやり方ではないが、どこか気になる。このあと2人は、’Tamo!(愛してる!)’という同一の歌詞を歌うが、響きはやや不協和になり、そのまま第4場に入って、トーニオがカーニオを制して、身を潜める部分の暗い音楽に直接していく。

シルヴィオは、ネッダの不満を知っており、カーニオの要求するネッダの役割から、彼女を救出するという名分がある。つまり彼は、カーニオの独善的な権利を否定し、ネッダがアリアで歌うような、彼女本来の人格を回復するという役割を担おうとしているのだ。しかし、結末がすべてを物語っている。彼は、そのことの重大さにすこしも気づいていない。シルヴィオの愛情は恐らく、カーニオの異常なまでの意識を覆し得るものではないのだ。農夫たちが、トーニオがネッダを誘惑するつもりだと冗談を言ったとき、我を忘れて厳しい言葉を吐いたカーニオを、ネッダは恐れる。シルヴィオが彼女と同じように、自分のしようとしていることが、カーニオにどのような怒りをもたらすのか、気づいていれば、情事はもっと慎重に進められるか、もしくは、彼女の身の安全を思えば、涙を呑んで諦めるという判断さえあったはずだ。そうしたものを感じ取れないところに、ネッダを愛することに対する、シルヴィオの限界がある。

【ネッダについて】

それでは、ネッダとは、いかなる女性であろうか。彼女は、カルメンにちかい。彼女の歌うアリア「鳥の歌」は、カルメンの歌う名アリア=ハバネラ「恋は野の鳥」を連想させるだろう。ネッダは、明らかに自由を求めている。それは、カーニオが嫌だからというよりは、むしろ生得的な要素が強い。そうでなければ、コメディアの最後の部分で、完全に逆上したカーニオに向かって、母の名にかけても名前はいえない・・・と力強く言い放てるものではない。この部分まで、ネッダは粘りづよく耐えている。その点では、カルメンとは異なる面もある。カルメンは、耐えるということは知らない。ところが、ここでネッダのほうも完全にキレる。そして、まるで「トリスタン」第2幕で、朝が来ても開きなおって逃げようともしない、イゾルデの姿を思わせる音楽がつくなか、昂然とカーニオに反論するネッダの様子が描かれる。ここで、ネッダはカルメン的な女性からイゾルデ的な女性へと、一気に駆け上がったといえるだろう。ただし、目の前にいたのは、マルケ王のような人徳者ではなかった。

なお、カルメンはメッツォの役であり、イゾルデはソプラノだが、やはり重い役に属する。ネッダもソプラノだが、声質的には、これらの役と同等の重みが求められる。有名なアリアや、コメディアの場面では、より軽めの声づくりもあうだろうが、このような要素も考えると、それは正しいアプローチではないように思われる。このような点にも、レオンカヴァッロの計算は及んでいるのだ。
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