2007/8/22

批判的ヴェリズモ レオンカヴァッロ〜歌劇「道化師」  クラシック曲目分析室

レオンカヴァッロの歌劇「道化師」は、マスカーニの「カヴァレリア・ルスティカーナ」と並んで、ヴェリズモ・オペラを代表する演目として知られ、両者の設定も似ていることから、2本立てで上演されることが多いのは周知のとおりだ。だが、典型的なヴェリズモである「カヴァレリア」と比較すると、「道化師」はもうひとつ奥がある。だが、そのことは、あまり意識されていないので、私が書く意味があると考えた。

ヴェリズモ=写実主義とは、日常のなかで起こりそうなことを題材にした作品を指し、ギリシア悲劇を中心とする古典上の物語や、歴史上の事件や通り一遍の宮廷劇ではなく、市井の人たちが共感しやすい身近な事件を、舞台上で引き起こして見せることである。いろいろ難しい議論はあるが、大体、そういうところでいいだろう。だが、早い話にすれば、よく練られた文学的な話よりも、三面記事的な話のほうが面白いということだろう。だが、優れた作品は、その点を逆手にとって、人間のもつ暗部をも正面から見つめ、捉えようとした。人間は弱く、傷つきやすい。一度、歯車が狂えば、どんな間違いをも犯しかねない。浮気、密告(陰口)、恨みつらみ、嫉み、暴力、殺人・・・。そういう瞬間にこそ、人間の素の姿が浮き上がると考えたのだろう。ただ、今日的な評価からいっても、ヴェリズモはしょせん三面記事の延長線上だという見られ方が主流であるし、大体において、そうなのであろう。

今日、有名なヴェリズモ・オペラとしては、上記の2作品のほか、チレアの「アドリアーナ・ルクヴルール」があり、プッチーニの一部の作品をそうみる拡大解釈も許されている。これらのうち、マスカーニはコテコテのヴェリズモ、レオンカヴァッロは批判的なヴェリズモ、プッチーニは反ヴェリズモ、チレアはヴェリズモを越えたヴェリズモであると見ている。レオンカヴァッロの「道化師」は、一見、妻であるネッダの浮気に怒った、夫・カーニオの復讐劇だとみることができる。もっとも有名なナンバーは、信頼していた妻の浮気という衝撃的な事実を胸のうちに抱えながら、他人を笑わせる道化師として扮装しなければならない、自らの悲哀を歌ったカーニオのアリア「衣裳をつけろ」であるから、それも当然だろう。

しかし、それだけではないのだ。この作品には、ミルフィーユのように、いろいろな層が重ねられている、例えば、愛情の関係だけをみても、カーニオ(夫)対ネッダ(妻)という構図に加えて、トーニオとネッダ、シルヴィオとネッダという関係が、入り混じっている。ネッダをめぐって、ふられたトーニオが、シルヴィオとネッダの関係を摘発し、カーニオに見せる。カーニオが怒って、ネッダを殺害するというねじれが、実は生じているのである。演出にもよるが、多分、大体の観衆はカーニオに同情する。女性ファンなど、一部の人たちは、カーニオを批判して、ネッダにつくかもしれない。どちらでもいい。さらに、すこしだけ慎重な人たちならば、トーニオの悪巧みに批判の矢先を向けるかもわからない。

いずれにしても、一面的な見方だ。私はもうすこし面的、立体的に作品を眺めてみようと思うのだが、いかがであろうか。結論だけ先に述べておくが、この作品は従来のヴェリズモ・オペラの道具立てを借りて、人間のありのままの姿を見つめようとするヴェリズモ劇の、本来の形を取り戻そうとしたような作品なのだ。レオンカヴァッロは通俗的な、ただの三文オペラの作曲家ではなく、深い知性に裏打ちされた策士であり、ヴェリズモ全盛期にあって、ヴェリズモの流れを変えようとした革新的な作曲家である。そして、そのために、パロディ的な要素もたくさん使って、自らの音楽的、オペラ的な知性を、この作品に残らず注ぎ込んだ。

あとのエントリーで、その根拠を述べていく予定である。
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