2007/8/3

クラシック演奏 『インターナショナル化』の意味  クラシック・トピックス

【巨匠時代とインターナショナリズム】

クラシック音楽の演奏に対する「インターナショナル化」が進み、世界中どこへ行っても、同じ演奏しか聴けないと嘆くジャーナリストがいる。しかし、このことのどこが拙いのであるか、私にはわからない。このことはとりもなおさず、世界のオーケストラや室内楽グループの演奏の質が均衡化してきたことを示しており、その恩恵は本邦の国内オーケストラや、室内楽グループにも顕著に見られるようになってきた。そのことを否定したら、この芸術の根幹が揺らいでしまうだろう。

一方、「巨匠時代」のような明確な個性が、トップ・オーケストラからも、あるいは、ウィーンやベルリンのような土地ではない、地方のグループからも失われつつあるということが、いささかも残念でないかといえば、そんなことはない。ただ、そのほうが、音楽芸術にとっては健全なことなのかもしれない、とは思う。ここで重要なことは、2つある。まず、個性というのは、つくろうとしてつくり、演じようとして演じられるものではないこと。つまりは、その人物や風土、民族から、自然に滲み出てくるものであること。もうひとつは、古典芸術においてもっとも重要な要素は、伝統的な形式や慣習、決まりごとを正しく伝えていくことだという点である。

ベームやチェリビダッケ、カラヤンにクライバー、カラスにカップチッリ、メニューインにリヒテル、ホロヴィッツ・・・という名匠たちの時代は、さぞかしエキサイティングだったろうとは思う。しかし、その時代が永遠につづかなかったのは、故のないことではない。以前から細々とはその流れを守っていたピリオド派が、70年代ぐらいからぐっと前に出てくるのは、彼らなりの芸術的な良心が、働くべきところで働いたのだといえる。もしも彼らの運動がなければ、一見、酷いと思われる現在のクラシック音楽の状況よりも、なおさら退廃的なカオスが生まれていたにちがいないだろう。

【個性とは基本の延長線上に生まれる】

能や狂言をみると、伝統芸能における個性の問題について考えやすい。なぜなら、能楽師や狂言師の表現というのは、磨き上げられれば磨き上げられるほど、基本の部分では違いが少ないということに気づくだろうからだ。能楽や狂言の九割九分は、基本的な要素である。だが、ほとんど似通っているとしか言いようのない残りの一分で、名人は名人たるの資質をはっきりと示し、通人であれば、一声聴いて、これは誰と判別できるような個性を示すのである。

それと比べると、「巨匠」たちの演奏はあまりにも自由すぎた。彼らが楽譜どおりに演奏していないとは言わない。だが、彼らの演奏をもとにして、古典芸術に重要な伝統的な形式や慣習、決まりごとを知ることは、ちょっと難しいように思う。彼らの演奏は、その代においてのみ通用するものであって、もしも、そうした「個性的」なものばかり残ったとしたら、孫や曾孫の世代まで下ると、それこそカオスをみる想いだろう。例えば、ケンプ(いまはオピッツ)がベートーベン直系のクラスで、その演奏の伝統を一生懸命に伝えようとしても、その価値を正しく見きわめるのは、どんどん難しくなっていくにちがいない。どういう演奏が規範的なのか、わからないからだ。

【保守的な努力が個性的なものを可能にする】

個性的であることは、芸術にブレイク・スルーを与えるものであり、その新鮮さを保つには不可欠の要素だ。だが、全員が個性的であるなどというのは、理想的でも何でもない。カオスである。ピアニスト全員がグレン・グールドやヴァレリー・アファナシエフのようだったら、クラシック音楽は成り立つだろうか? 音楽家が100人いたとすれば、97、8人は、伝統を守り、後進に正しい道を伝えながら、小さな努力を続けていく役割をすることになるし、古典芸術における探求というのは、そういうレヴェルの地道な進歩の積み重ねにすぎない。だが、その僅かな違いのなかで、あれは誰だとすぐにわかるような個性は、是非とも必要なのだが。いわば、そうした小さな努力が束を成すことによって、個性的なものが生まれる土台をつくりだすのである。

【楽譜には何も書いていない】

もしも、楽譜にすべてが書いてあるというならば、いま、どのように演奏しても、あとで聖書に帰れば、問題ないということになる。だが、残念ながら、同じベートーベンの演奏であっても、ワルターにベーム、フルトヴェングラー、ガーディナー、ノリントンと、全然ちがう解釈でありながら、どれも正解といえるような世界なのである。感情の起伏が豊富そうで、いかにもアジタートとか、エスプレッシーヴォとか随所に書いていそうなショパンの楽譜だって、見れば驚くほど、表情の指示など何も書いていない。その代わり、たくさんの音譜をひとつ屋根の下に入れるようにして、相当ながいフレーズをスラーで繋いでいるのがわかる。これはご存じのように、ルバートのことを示すと一般的に解釈されているが、ショパン自身が「ルバート」と書き込んだわけではない。ショパンの楽譜をみる人ならば、こんなことは当たり前に理解できたことだから、指示は入っていないのだろう。しかし実際、そのルバートをどう弾くかでは、例えば、同じポーランド人でも、パレデフスキとエキェルでは、見解が分かれる。

そういう部分の伝統的な慣習や決まりごとを、いかに伝えていくかということにかけては、「巨匠」たちの演奏はまるで無意味だ。例えば、ノリントンによるベートーベンの演奏がインチキかどうかを調べるには、ワルターあたりまで遡らねばならない。そうすると、ほんの100年くらい前までは、ノリントンの言うことが当たり前だったと気づかないはずはないだろう。だが、それにしても、ノリントンの演奏はさらに挑戦的ではある・・・。

【本当の個性を!】

遠い昔を懐かしんでもしようがない。巨匠たちはもはや生まれてこないし、時代がそれを望んでいない。我々はより正しく、かつて守られてきた伝統に敬意を払い、そこに立ち返らねばならないことに気づきはじめた。過去の人気のある巨匠たちの演奏は、確かに凄い。だが、我々のめざすべきことの鑑にはならない。彼らの素晴らしさは、イレギュラーなもので、発展的に受け継いでいくことができない。例えば、チェリビダッケの真似を誰かがしたとして、その引き延ばされた音楽に、チェリがやったのと同等か、それ以上の説得力が生まれるであろうか。

もちろん、そうした演奏から刺激を受けることは、有害ではない。しかし、これからは伝統芸術の基本に返って、地道な努力が重ねられていくことだろう。そのことを嘆くのは筋違いだ。たとえ、そうなったとしても、我々の同時代の優れた演奏家たちは無個性というわけでもなく、面白みがないわけでもない。「インターナショナル化」というのはイメージにすぎず、その曖昧なイメージをもとに批判するようなジャーナリズムもインチキだ。今日もまた、ちゃんと個性は刻まれている。バボラークの素晴らしいホルンの音を聴いて、それとわからないなどということがあろうか!

ただ、以前より繊細な耳が必要だというだけのことである。
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