2007/7/22

江村哲二氏を讃えて 地平線のクオリア  CDs

なにを今更・・・ということになりそうですが、作曲家の江村哲二氏が亡くなられたことを知りました。6月11日、膵臓がんにより47年の生涯を閉じられたということです。これを知ったのは、CDショップで、江村氏の「地平線のクオリア」ほかの録音を見つけたときです。「早すぎる死」という紹介がついていて、ぎょっとしました。まだ作曲家としては、中堅どころになったばかりの江村氏が、亡くなられたと知ったのは、そのときのことだったのです。

人間、どこでなにがあるか、わからないものです。誰もがエリオット・カーターのように、90代まで作曲ができるわけではないのです。そのことはわかりきったことなのですが、ついつい、誰もが楽天的に自分のことを考えてしまうものではないでしょうか。江村氏はきっと、その辺にかなりシビアな考えをお持ちだったと考えますが、それでも氏のような澄みきった知性にも、見えないものがあるということなのですね。

江村氏は、細川俊夫などと並ぶ中堅どころに位置づけられていました。大野和士氏が頻繁に取り上げているほか、かつては岩城宏之氏に認められ、OEKのコンポーザー・イン・レジデンスも務めています。昨年からは過去の受賞者として芥川作曲賞の審査委員も務め、今年もまた、その任を拝命していたはずです。またサイトウキネンでも武満氏の祈念コンサートに寄せて、江村氏の「奇妙な誘惑」が演奏されることになっていました。氏は独学で作曲法を習得し、その自由なバックグラウンドにもかかわらず、新しい音楽スタイルの追求に厳しい態度をとっていました。ときには口さがない批判も辞さず、妥協のない性分をしきりに発揮していた人です。

では、氏の音楽はどうなのでしょうか。作品集「地平線のクオリア」に収録されているのは、2005年初演の外題作品を除くと、1991年から1996年の間に、氏が世の中に認められていく過程での作品がメインです。彼の音楽を聴いていると、独学とはいえ、いろいろな作曲家を本当によく研究していたことがわかります。もっとも大きな影響を受けたのは、やはり、武満徹の作品でしょう。というのは、彼の追憶のために書かれた「地平線のクオリア」が収録されているせいかもしれません。彼は、それらの作品をどのようにして超越していけばいいのか、真面目すぎるほど悩んだ人なのではないでしょうか。

地平線のクオリアは、武満作品へのオマージュとして、これほど見事な作品があるだろうかというほど、緻密な作品です。こころ洗われるような美しい響きだが、ただきれいな音楽ではなく、なにか霊的なものを感じさせるほどに、不思議な緊張感に満ちています。武満さんならば、もっとイメージを引き伸ばしたかもしれませんが、そこは追憶とはいえ、江村作品なのです。シャープな曲想がふんだんに埋め込まれ、よく計算された角度で突き合わされていく。オマージュとは言いながら、最後は、そのベースから徐々に飛翔していこうとする姿勢が、よくわかるでしょう。

2曲目の「プリマヴェーラ」は、新ウィーン楽派を思わせる作風で、おシャレな1曲と言えます。ルトスワフスキ国際作曲コンクールで第1位となった「インテクステリア第5番」は、若き江村が心血を注いだと思われる厳しい作品。芥川作曲賞を授けられたヴァイオリン協奏曲第2番「インテクステリア」は、ヴァイオリン独奏という「中心」を生むことによって、オーケストラの内包する個をむしろ炙り出した、アイディア作品といえるかもしれません。

いずれの楽曲も厚く塗り込めるような書き方ではなく、適度にイメージが整理され、シンプルな語法で書かれているのが特長です。そして、なによりも響きが美しい。ほとんど潔癖ともいえる、このような清潔さが江村氏の真骨頂であるともいえるのですが、彼の悩んだのもまた、そこということになるのではないでしょうか。

江村氏は、優れた若手の作曲家としては珍しく、日本をベースとしつづけた作曲家でした。細川俊夫も、望月京も、野平一郎もみな、外国に作曲のフィールドを求め、打って出たのですが、江村氏は、日本に留まりつづけました。現代音楽にとって、もっともフレンドリーな聴き手のいる、つまりは商業的に成功しやすいアメリカに対しては、つよく警戒していました。かといって、例えば、ブーレーズの一派が幅を利かせるようなヨーロッパの環境にも、気を許していませんでした。そして、また、この日本にいることによる、閉鎖的で、怠惰な雰囲気にも無批判ではなかったのです。

江村氏には、ブログがあります。その最後の記事は、亡くなる日から2週間も隔たらない5月31日。「視差について」。

(前略)これだけでも一曲のオーケストラ作品が書けそうであった。作品のテーマというものは、日常の路上にいくらでもあるのだ。それに感じるか否かだけであるということをその一瞬に悟った。/月は必ず追いかけてくる。小学生のころ、それが不思議であった。自分の進路方向の変位に比べて、そこから月までの距離が無限大程の大きさであるから故であることの、視差という意味がわからなかった。/しかし、我々の日常の視差は、ひとりひとりすべて僅かに異なる。その視差に出会い、そしてそれにあはと気付くか否かによって、生まれ出てくるものは無限大程の大きさの差となって現れてくる。

このような発想のシンプルさにこそ、江村氏の作品を聴くときの鍵があるのかもしれません。故人は、ここでいう「視差」を、作品として提示したかったのでしょうか。それにしても、時間が足りなかったですね。遅くなりましたが、氏の冥福をお祈りいたします。


【江村哲二作品集 地平線のクオリア】

1、地平線のクオリア〜武満徹の追憶のために
 (大野和士指揮/新日本フィル)
2、プリマヴェーラ〜ソプラノとオーケストラのための
 (小松一彦指揮/新日本フィル/S:豊田喜代美)
3、インテクステリア第5番
 (A.ストラスジンスキ指揮/ワルシャワ国立フィル)
4、ヴァイオリン協奏曲第2番「インテクステリア」
 (小松一彦指揮/東京フィル/vn:高田あずみ)


ALM RECORDS (コジマ録音)
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2007/7/22

下野竜也 紀尾井シンフォニエッタ東京 メンデルスゾーン交響曲第3番  演奏会

紀尾井シンフォニエッタ東京(KST)を、下野竜也が指揮したの演奏会を視聴した。KSTはヨーロッパ風の楽季を採っているため、このコンサートがシーズン最後となるが、そこに下野のような若手が登場するのも興味ぶかいこと。だが、彼は国内の多くの楽団に積極的に客演し、そのほとんどから再登場を要請されているわけだし、ここ紀尾井ホールを舞台とした「ヴィオラ・スペース」でも、繰り返して指揮をしているのだから、この起用は、至極順当なものである。

最後に演奏されたメンデルスゾーンの交響曲第3番「スコットランド」の演奏に注目したい。

この曲には、どのようなイメージをお持ちだろうか? 私は冒頭のくすんだ響きが好きだった。しかし、下野の演奏を聴くまでは、表情の変化が多彩な分だけ、イメージがだらだらと羅列されて続くという感じもしていたのである。その点に、下野はいくつかの解決法を与えているように思う。まず、フレーズひとつひとつの性格を明らかにし、それらをしっかりと束ねていくこと。コントラバスとティンパニーの役割をうまく位置づけ、それらに通奏低音のような使命を与えたことも、このことに大きく貢献しただろう。タイプこそ違うが、河原泰則・吉田秀というわが国を代表するバス奏者が並び、ティンパニーには名手の近藤高顕を得ていることは、この楽曲を表現するときのポイントになり得る。

こうして鋭く輪郭を抉ってみると、モーツァルトにも比される天才肌のメンデルスゾーンが、筆入れから10年以上もかけたとされる音楽に、なるほど、思いも寄らなかった深い陰翳がついてくることになった。この交響曲は生前の出版にあわせて「第3番」とされているが、実質的にはもっとも遅く仕上がった作品であり、そのことを鮮やかに思い起こさせる、重みが加わった演奏である。

しかしながら、そのことによって、例えば、メンデルスゾーンとベートーベンの違いがなくなってしまったということはない。ときどき、例のバスとティンパニーでぐっと体重を乗せたかと思うと、適度なところでさっと引き上げて、今度は、そのエネルギーを撹拌し、木管の甘い歌声を軽く旋回させたりする。クラリネット、オーボエ、ホルンなど、一本一本の楽器の魅力を最大限に引き出して、無駄なく生かしきっている点は、ライヴならではわかる魅力だ。

昨今は、いくつかの在京オケの精度が大きく向上し、KSTも、コンパクトなアンサンブルによる精度的な優位性だけでは、魅力をアピールしにくくなっている。いまの彼らをめぐって、我々が特別と考えるのは、おもに次のような要素ではなかろうか。

@一本一本の楽器の研ぎ澄まされた音色。特に木管。
A自主的な運営体制。自由なプログラム。
Bオケと、ソリスト/指揮者との独特なコミュニケーション。
C若々しく思いきった音楽づくり。

今回の演奏も、録音して聴いてみたならば、全体としては、やや精度を欠く点があったかもしれない。しかし、よく耳を澄まして聴いていると、細かい声部にチャーミングな役割が与えられており、KSTでしか聴くことのできない、独特の演奏だったと気づくことができるだろう。例えば、ホルンにしても、目立つ部分で吹き損なう場面があっても、私の印象に残ったのは、そういう部分よりも、バックで細かい連続タンギングを決めながら、アンサンブルのなかに、ナチュラルに溶け込んでいるような場面なのだ。

この前の印象的なメンコン(チュマチェンコ独奏)とは、また違うが、新たなメンデルスゾーンの表情を拝めた好演奏だった。最後、少しデクレッシェンドしながら、ふうわりと上昇していくような弾きおわりを見上げて、ほんの僅かな余韻が築かれたときの、会場の一体感についても付記しておきたい。

ベルリン・フィルの首席ヴィオラ奏者の清水直子を迎えた、ヒンデミットの「白鳥を焼く男」も、面白い演奏だった。これはまた、メンデルスゾーン以上に無駄のない素材の生かし方。編成が小さい分だけ、そこに含まれる楽器がいかに活躍し、均等に役割を与えられているかがよくわかる。「スコットランド」同様、そういったミクロな部分において、下野の演奏は味わいがある。独奏の清水は、ほとんど弾きっぱなしのヴィオラ・パートを、終始、淡彩の美しい音色でアピールした。控えめだが、墨絵のような奥ゆかしい表現の美。重音のきれいな分離も、聴きどころだった。終演後は、いつまでも鳴り止みそうにない拍手を、客席側が自制した感がある。

冒頭に演奏された序曲「レオノーレ」第1番は、このオペラのための他の序曲と比べると、コンサート・ピースとしては、やや渋い選択となる。下野は、その特徴をそのまま生かして、これから始まることの前置きとして使った。歌劇のときと同じスタイルで、最後にぴたりと止めた演奏が興を誘った。

シーズン最後にふさわしい充実した演奏で、世界中の優れたアンサンブル・リーダーが客演する、楽しみな来シーズンに想いを致すことになった。なお、コンマスは、豊嶋泰嗣。ヴァイオリンとヴィオラには、男性が僅かに3人というアンサンブルであった。

【プログラム】2007年7月21日

1、ベートーベン 序曲「レオノーレ」第1番
2、ヒンデミット 白鳥を焼く男
 (ヴィオラ:清水 直子)
3、メンデルスゾーン 交響曲第3番「スコットランド」

 コンサートマスター:豊嶋泰嗣

 於:紀尾井ホール
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