2007/7/6

アルミンク 新日本フィル ユニークな『第九』を上梓  CDs

クリスティアン・アルミンクと新日本フィルが、最新版のベーレンライター版スコアの指示に忠実と謳った、ベートーベンの交響曲第9番「合唱付」の録音(フォンテック)をリリースした。この演奏は、昨年6月の演奏会のライヴであり、アルミンクの契約が3年で打ち切られた場合は、最後のコンサートとなるはずの特別な時期に当たっていた。もっとも、その頃には既に、アルミンクの続投が発表されていたと記憶しており、素晴らしかった3年間の進境を中締めして、新しい3年の船出を、期待のうちに祝うような雰囲気だったものと推察する。

さて、この演奏は一見、素っ気ない感じである。揺るぎない流れがキビキビと織り込まれていくのだが、演奏時間も短く、特に第2楽章を10分強で駆け抜けていることが大きく貢献し、全体で45分程度というコンパクトな「第九」となった。しかし、アルミンクの演奏には、ノリントンによる全集のような攻撃性が全くなく、意外にも、自然な風合いのサウンドが印象的である。山谷もしっかりついており、「第九」らしいエモーショナルな部分も失われていないが、とにかく、デフォルメーション的な要素がまるで見られないのである。

アルミンクの演奏は、実演でいえば、下野竜也、ゲルト・アルブレヒト、スタニスラフ・スクロヴァチェフスキなど、現在、最前線のスタイルを組み込んだタイプの演奏の、もっとも典型的なもののひとつである。このようなスタイルの録音は、多分、わが国のオーケストラによる数少ない録音資源のなかでは唯一のものであると同時に、ガーディナー、ノリントンなどのあとを襲うような意味あいから見ると、世界的にも注目されるべき録音であろう。現時点でもっとも現代的なスタイルを追及した、いささか大げさに言えば、演奏史に残る一枚でもあるかもしれないのだ。

まず、冒頭部分を聴いて、これが日本のオーケストラなのかと舌を巻く人も多いはずだ。アルミンク自身やブリュッヘンの手によって、新日本フィルはピリオド的な、響きの抑えられた清潔なストリングスを獲得したことが、ここではっきりとわかる。だが、そのことを見せびらかしていくと、ノリントンのように攻撃的な演奏になってしまう。それはそれで、ベートーベンの室内楽により顕著に見られるような、ロック的な要素を垣間見せるものであり、悪くはないのだ。しかしアルミンクは、より歌うことに関心がある。

歌うといっても、朗々とこぶしを回すわけではないのだ。おわりの第4楽章を見てみよう。そこは「合唱付」の部分でもあるので、アルミンクのイメージした「歌う」ことが、どういうことなのかが端的に表れている。それは要するに、言葉にとって自然な形で、音楽が節に寄り添うというような歌なのである。

この「自然な」というキーワードこそ、アルミンクの演奏を象徴するものとなろう。アルミンクが追い求めた「忠実さ」というのは、結局は、スコアで書かれた指示に対して不自然なことを止めて、流れの中で自然な響きを取り出していく、ということに他ならない。「第九」は多くの指揮者たちが工夫を凝らし、それが格好よすぎて、むしろ自然だとさえ考えられるようになった部分が、いくつもある。そして、そうした手練手管は、ベートーベン自身のイメージにも上塗りされて、どんどんと厚化粧になってきたのだ。アルミンクの演奏を聴くと、そのことがよくわかるだろう。しかし、よく聴いていくと、アルミンク独特の押し出しもみられ、決して、そうした従来型の演奏の「アンチ・テーゼ」という感じはしない。噛めば噛むほど、味が出るアルミンクの演奏は、何度聴いても飽きることがない。

とにかく品のいい演奏で、突っ込みどころが多いはずの演奏なのに、アラが少ないのが興味ぶかい。歌手陣にはビッグ・ネームこそないものの、録音では穴がなかったように聴こえるし、晋友会による合唱もいつになく好調だ。唯一、終楽章のテノール独唱の部分で、すこし言葉が流れてしまったことだけが気になった。テノールの歌い損ないかもしれないが、全体的にも、若干、走りすぎたのかもしれない。コーダも溜めがなくて、滔々とした急流の川の流れのように絶え間がない演奏だが、ここではむしろ、下手に溜めるよりも、こうしたほうがはるかにポジティヴな効果があるように感じられる。終演後、熱狂的な聴衆の反応まで収められているのは、ライヴ盤ならではのことである。
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