2007/7/3

スポレート歌劇場 セヴィリアの理髪師 7/1  演奏会

スポレート歌劇場の「セヴィリアの理髪師」を視聴した。今回は、オーケストラ、コーラスを帯同しての公演であるが、その分、地方まわりがあるので公演数が多い。6月19日に最初の公演をおこなった新潟から、群馬、東京、神戸、名古屋、浜松・・・と連日の移動、本番がつづき、これが9つ目の公演となる。このあとも、4つの公演が控えているという強行軍であるため、さすがに、主要キャストは2−4人の体制を整えている。

とはいっても、全体としては、質のいいパフォーマンスが展開されたという印象だ。とにかく、アルマヴィーヴァのシラグーザに象徴されるように、ちょっと真似のできないイタリア人の舞台づくりだった。これだけ明るく、理屈を越えた愉悦に満ちみちた舞台というと、例えば、故人となった実相寺昭雄氏がサブカルてんこ盛りでつくった、二期会「魔笛」などが思い当たるが、それをほとんど音楽面だけで実現しているのだから、やはり本場はちがうということになる。

これで、もうすこし小ぶりの、せめて新国のような箱であったならば、どんなによかったろうかと思う。東京文化会館の大ホールは、コンティヌオの役割が残るこのオペラでは大きすぎるし、スポレート歌劇場自体が、さほど大きな劇場ではなかったのではないか。オーケストラもコーラスも小ぶりの編成。歌手たちも、巨大ホールで声を張り上げるタイプの人は選ばれていないようだ。

演出はコンサヴァティヴなもので、深みのある読み込みはなかった。作品の楽しさを前面に押し出したもので、古典的なドタバタ・ギャグは古くさいとしても、まあ、笑えないということでもない。特段の必要がないにもかかわらず、歌っている最中に、無造作に歌手を動かすのだけは止めてほしかったが(あちらを向きこちらを向きでは、声が拡散してしまう)。したがって、この作品はモーツァルトのオペラを下敷きにしながら、ロッシーニの同時代に対する風刺も含んだ作品であるが、とりあえず、そういうものにはあまり触れないで書く。

アルマヴィーヴァ役のアントニオ・シラグーザは、当代最高レヴェルのロッシーニ歌いとも言われるが、その評判は過大な評価ではなかったろう。ベルカーント歌手の要素としては、ソット・ヴォーチェ、高音の正確性と張り、独特の声のポジション、アジリタ技巧などにわかれるのだが、それらのどれもが明らかに優れているのだ。なかでも、ソット・ヴォーチェの表現力は、オーケストラもまた然りだが、シラグーザの場合はまた格別だ。ギターを弾きながら、窓外からロジーナを口説く場面や、ドン・ジョヴァンニの「窓辺に出でよ」のアリアのパロディともいえる、冒頭のセレナードで、ぐらっと来た人は多いに違いない。特に前者のシーンでは、ロジーナが自分の歌に喜んで、声を返してくれたのに狂喜乱舞して、歌い崩すところが驚きだ。それにしても、彼のような訓練の行き届いたイタリア的なテノールが歌うと、そのキャラクターへの愛着が自然とわいてくるのは面白いことだ。

ただし、シラグーザ、今回は万全とは言えないのではないか。代わる代わる歌っているといっても、今回の彼は、最後まで前半ほどの完璧なポジションは維持できなかったと、私は感じた。声量的にはフローレスほど伸びるわけでもなさそうだが、それにしても、重唱などでは、いささか控えめであったかもしれないし、本当に調子がよければ、有名な大アリアにしても、ただ歌いきったというに止まらない、さらなる高みに達せられたはずとみる。しかし、それはまた、贅沢な要求というべきであろうか。

シラグーザ(アルマヴィーヴァ)の対極で、オマール・モンタナッリ(バルトロ)と、ブラーメン・クンピコフ(バジーリオ)のコンビが、ドラマを十分に盛り上げてくれたことも強調しておかねばならない。特に感心したのは、この2人による「陰口はそよ風のように」。オーケストラとの対話も細やかに、劇全体の鍵を握る一場面を活き活きと印象づけた。モンタナッリは癖のない通りのいい低声がよく響き、機動的でキレのいい歌いくちで、人気を集めた。クンピコフはあまり魅力的な声質ではないが、どっしりした安定感のある声は立派だ。

これで、肝心のロジーナとフィガロに愛着をもつことができれば、言うことはなかったのだが、技術的によく訓練されているのはわかるが、ガナッシ(ロジーナ)とフィケーラ(フィガロ)の歌唱は、やや大味に思えた。かえって、ほんのひとつだけのアリアだけが出番とはいえ、ベルタを歌ったフェデリーカ・ジャンサンティの繊細な表現力に耳がいった。「フィガロ」のスザンナなど、もうすこし重みのある役柄で聴くと、どうなのだろうか?

ヴィート・クレメンテは東京室内歌劇場などに頻りに来演して、つづけて好評だった指揮者だったので期待していたが,若いが,安定感のある統率をみせて,見事にオーケストラを掌握していた。歌手とのコミュニケーションがいつも頭のなかにあり,どういう音が,それぞれの歌のどんな部分で共鳴し,どんな動きに対応しなくてはならないかが,しっかり頭に入っている。正しく、彼はオペラが好きで振っている指揮者だということは、誰もが気づいたはずである。

例の「陰口」の部分では,バルトロとバジーリオのやりとりに、差し挟まなければいけない音楽がぴったり合っていたし,大アリアにつけた様々な伴奏の角度は,このアリアの驚くべき多彩な表情を垣間見せるのに、一役買っている。また、リンドーロが自分を伯爵に売ろうとしていると聞いて,ロジーナが絶望してしまう場面のコンティヌオと、オーケストラの動きは,この場面が、ロッシーニにとっては賭けともいえる、大胆な試みだったことを教える。

オーケストラは室内オケの編成であることもあるが、やはりフォルテは少し弱いかもしれない。そのため、いわゆる「ロッシーニ・クレッシェンド」などはやや拍子抜けな感じでもあったが、それは指揮者のサウンド的な好みによるものでもあるだろう。少しきれいにつくりすぎる傾向はあるが,それで、作品のもっている推進力を奪ってしまうわけではない。響きの多すぎない清潔な音を鍛え上げ,柔らかく指揮者や歌手の個性に応えられる、良いオーケストラであった。また、コーラスも少数精鋭である。

パッケージとしてのまとまりは高い水準にある。演出の良し悪しはあれ、個人の考え方を越えて、全体でひとつのプロダクションにまとまっている。プロ意識が高いというべきであろうか。以前にフェニーチェ劇場が来たときにも感じたように、イタリアの劇場は、こうしたチームワークにおいては、優れているように思われる。スカラ座で、アラーニャが観客の反応に怒って劇場を飛び出したことをめぐって、リスネル総裁が激怒しているのも、このような劇場の雰囲気に逆らうものであったことが大きいのかもしれない。
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