2007/7/14

ヴードゥーの儀礼音楽 <東京の夏>音楽祭 参加企画 7/14  演奏会

この公演は「クラシック音楽」の範疇には入らないが、ヴードゥーの儀礼音楽なるものを視聴してきたので、書き留めておこう。なお、この企画はアリオン音楽財団の主催による、<東京の夏>音楽祭2007に参加する、メイン企画のうちのひとつである。今年は「島へ−海を渡る音」がテーマで、シシリー、アイスランド、青ヶ島、ザンジバール、キューバ、パラオ/小笠原などの伝統的な神事に関する音楽や、その現代化されたものが紹介される。

ヴードゥーは、アフリカからハイチ(元はフランス植民地)へ連れてこられた人たちが、それぞれのルーツから持ち寄った信仰や芸能の要素をあわせて、こころの拠りどころとした庶民信仰として紹介されている。祭壇には十字架が祭られており、キリスト教との混交もみられる。ヴードゥーというと「ゾンビ」が有名で、我々の抱くイメージとしては、米国の映画などに取り込まれた情報から受ける、なんだか得体の知れないオカルティックなものに偏っている。しかし、それは、ニューオーリンズやニューヨークなどに移民した黒人コミュニティの信仰を、多分に歪めてみた白人サイドからの偏見であるようだ。

今回、東京でみることのできたパフォーマンスが、現地でおこなわれるヴードゥーの儀礼の、どれぐらいの範囲をカヴァーしていたかは不明だ。ヴードゥーのことをほとんど知らない人たちが、フロアのほぼすべてを占める場所でおこなわれたこともあり、若干、ワークショップのような感じもあった2時間である。儀式の間には、マスター・ドラマーのフリースナー・オーグスティンが会場内から英語のできる日本人を見つけ出し、ここはこういう意味がある、ここではこうしてくれなどという感じで、注釈つきで儀礼は進んでいった。

SF=オカルト目当てのお客さんには、拍子抜けであったろう。確かに、ゾンビらしきものは登場した。儀式のクライマックスを飾るゲデ王国の精霊による、死と生のイニシエーションだ。死んだ人間にして、墓地の主である精霊のバロン・サムジは、いったん死んで横になる。彼のことを、オーグスティンに選ばれて舞台に上がった観客たちや、司祭が蘇らせるのだ。しかし、蘇った精霊は、映画のなかの「ゾンビ」のように我々を脅かすものではなく、コミカルなダンスで、我々を魅了するだけなのだ。そこには、オカルト映画の描くような暗さよりも、我々が生きていることの喜びこそが表現されている。

途中、この儀礼の本質を感じさせる出来事が起こった。それは、植民者に勇ましくも向かっていったナゴ王国の戦士たち(オグゥ)を追憶するイニシエーションでのことだ。オーグスティンは、また例によって、会場から観客たちを舞台上に連れていって、イニシエーションに参加させる。そのうちに、彼がひとりの女性を連れてきたのだ。その女性は太ももにテーピングをしていて、どうやら足を痛めているようである。恭しく舞台上に彼女を導いたオーグスティンは、列の先頭に彼女を連れてきて、オグゥに引き合わせた。オグゥは女性の患部に刀を当てると、丁寧な手つきで、快復を祈るような儀式をしたのだ。

次のペトロ王国の愛の女王、精霊エジリ・ダントの憑依では、マリー司祭が女性のお腹に手を当てて、良い子を授かるようにとの願いが込められた。このようにヴードゥーの儀礼は、空想映画が描くような世界とはまったく別もので、我々がお地蔵さんに手をあわせてお願いするような、そんな素朴な想いを精霊たちが汲んでくれるのである。だが、その前提として、彼らは精霊たちへの感謝を、一時も忘れることはない。

もっともつよい力をもつ精霊、ダンバラの憑依する秘儀が、前半のハイライトだ。わが国の天皇が即位の儀式をおこなうときのように、秘儀をおこなう本人には白い布が被せられる。あとで、介添えの女性までもがダンバラの力に感染し、激しく痙攣するような蛇の動きで、観るものを驚かせる。太鼓のアシストで憑依から抜けた人たちは、一様に憔悴しきっており、それは演技しているようには見えない。前半は無言の祈りから始まり、やや儀礼重視の内容。とはいえ、観ている者も精霊や司祭と一体化するために、手拍子でこころを合わせなくてはならない。太鼓の音とリズムにあわせて、非常に凝縮したギリシア悲劇をみるような感じでもある。後半にいくにしたがって、精霊や司祭と、我々との交歓が主となっていく感じだった。

パーカッションは、ハイチ革命の宗教的指導者の名前をとった「マカンダル」。こうした音楽による録音もあり、ニューヨーク州の芸術評議会のメンバーであるほか、連邦政府をはじめとする多くの公的基金から活動に助成を受けるほか、フロリダ大のレジデントを務め、カーネギーホール主催の特別プログラムで中心的な役割を果たすなど、ステータスは高いようだ。ただ、日本では知名度がないというだけ。

人間の声とドラミング、クラッピングだけで進むので、ポップスやロックのようにはいかないが、それだけのシンプルな素材で、ここまで観客を酔わせるのも凄いことだろう。まずは、良いものを拝ませていただいたという印象だ!

【公演データ】2007年7月14日

 司祭(マンボ):マリー・カーメル

 リード・ドラム:フリースナー・オーグスティン

 マカンダル(パーカッション、ダンス、ヴォーカル)

 於:草月ホール(青山)
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2007/7/8

読売日響 P.カリニャーニが代演  期待のコンサート

読売日響の7月のコンサートを任せられる予定だった、ラファエル・フリューベック・デ=ブルゴスが「病気療養のため」スケジュールどおりに来日できなくなり、代演の指揮者が立てられた。昨日(7日)、ミハイル・アグレストがR.コルサコフの「シェヘラザード」などを振り、インターネットでチェックする限りは、まずまずの評判ではなかろうか。

さて、次の2つのシリーズでは、いよいよパオロ・カリニャーニが読売日響の指揮台に再登場する。彼が初来日したのは、2005年の1月、紀尾井シンフォニエッタの公演で、ペルゴレージ「スターバト・マテル」、ストラヴィンスキー「プルチネッラ」などを振って、アンサンブルの力を最大限に引き出すとともに、これらの曲目の本質的な部分に気づかせてくれる鋭い表現力と、知的なプログラミングで圧倒的な評判を呼んだ。これを受けたものか、2006年には読売日響のシーズン演奏会にも初登場し、ヴェルディやベルクのオペラに関係するプログラムや、モーツァルト、ショパン、ベルリオーズなどの曲目を指揮した。

私は、これらのうち紀尾井シンフォニエッタでの演奏と、ショパンのコンチェルトとイタオペのピースによる演奏会を聴いたが、いずれも独特なる演奏で、作曲家の意図したものから逸脱しない範囲において、思いきった音楽づくりをおこなうカリニャーニの手腕に瞠目させられた。ただし、前回の読売日響との演奏に関しては、まだまだ煮込み不足という部分も少なくなく、プログラムが多彩すぎたのではないかという印象も残っている。

今回、いささか急な決定であるとはいえ、「展覧会の絵」「春の祭典」などというプログラムで、彼の指揮ぶりを拝めることになったのは、少なくとも私にとっては福音である。私は17日に、ハルサイほかの演奏会を視聴する予定。クラシック界では、こうした交代劇は珍しくないが、ラファエル・フリューベックの代役として、彼のような逸材、しかも、自分たちの楽団と関係をもった人材を、しっかり確保してくる読売日響のマネジメント能力に、まずは敬意を表したい。

パオロ・カリニャーニはまだ40代半ばだが、フランクフルト歌劇場の音楽総監督としての実績が高く評価され、その水準を一気にトップ・レヴェルに引き上げた。在任期間が長くなったことから、自ら、その任を離れる決断をし、現在は充電期間というところであろう。今後、数年間のうちには、再び大きなポストを得ることになるのではないかと予想する。

なお、ラファエル・フリューベックであるが、指揮者交代の報が届いてから、しばらくは、地方公演での来日予定が残されていたが、こちらも結局は、カリニャーニに代わった。クラシック・オペラでは、公演の半年前に「病気のため」交代するというような、不可解なことをいって平気という独特のルールがあるようだが、氏は読売日響との関係も大事にしてくれており、今回も止むを得ない健康状態にあるものと思われる。一刻も早い、快復をお祈りしたい。
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