2007/7/22

下野竜也 紀尾井シンフォニエッタ東京 メンデルスゾーン交響曲第3番  演奏会

紀尾井シンフォニエッタ東京(KST)を、下野竜也が指揮したの演奏会を視聴した。KSTはヨーロッパ風の楽季を採っているため、このコンサートがシーズン最後となるが、そこに下野のような若手が登場するのも興味ぶかいこと。だが、彼は国内の多くの楽団に積極的に客演し、そのほとんどから再登場を要請されているわけだし、ここ紀尾井ホールを舞台とした「ヴィオラ・スペース」でも、繰り返して指揮をしているのだから、この起用は、至極順当なものである。

最後に演奏されたメンデルスゾーンの交響曲第3番「スコットランド」の演奏に注目したい。

この曲には、どのようなイメージをお持ちだろうか? 私は冒頭のくすんだ響きが好きだった。しかし、下野の演奏を聴くまでは、表情の変化が多彩な分だけ、イメージがだらだらと羅列されて続くという感じもしていたのである。その点に、下野はいくつかの解決法を与えているように思う。まず、フレーズひとつひとつの性格を明らかにし、それらをしっかりと束ねていくこと。コントラバスとティンパニーの役割をうまく位置づけ、それらに通奏低音のような使命を与えたことも、このことに大きく貢献しただろう。タイプこそ違うが、河原泰則・吉田秀というわが国を代表するバス奏者が並び、ティンパニーには名手の近藤高顕を得ていることは、この楽曲を表現するときのポイントになり得る。

こうして鋭く輪郭を抉ってみると、モーツァルトにも比される天才肌のメンデルスゾーンが、筆入れから10年以上もかけたとされる音楽に、なるほど、思いも寄らなかった深い陰翳がついてくることになった。この交響曲は生前の出版にあわせて「第3番」とされているが、実質的にはもっとも遅く仕上がった作品であり、そのことを鮮やかに思い起こさせる、重みが加わった演奏である。

しかしながら、そのことによって、例えば、メンデルスゾーンとベートーベンの違いがなくなってしまったということはない。ときどき、例のバスとティンパニーでぐっと体重を乗せたかと思うと、適度なところでさっと引き上げて、今度は、そのエネルギーを撹拌し、木管の甘い歌声を軽く旋回させたりする。クラリネット、オーボエ、ホルンなど、一本一本の楽器の魅力を最大限に引き出して、無駄なく生かしきっている点は、ライヴならではわかる魅力だ。

昨今は、いくつかの在京オケの精度が大きく向上し、KSTも、コンパクトなアンサンブルによる精度的な優位性だけでは、魅力をアピールしにくくなっている。いまの彼らをめぐって、我々が特別と考えるのは、おもに次のような要素ではなかろうか。

@一本一本の楽器の研ぎ澄まされた音色。特に木管。
A自主的な運営体制。自由なプログラム。
Bオケと、ソリスト/指揮者との独特なコミュニケーション。
C若々しく思いきった音楽づくり。

今回の演奏も、録音して聴いてみたならば、全体としては、やや精度を欠く点があったかもしれない。しかし、よく耳を澄まして聴いていると、細かい声部にチャーミングな役割が与えられており、KSTでしか聴くことのできない、独特の演奏だったと気づくことができるだろう。例えば、ホルンにしても、目立つ部分で吹き損なう場面があっても、私の印象に残ったのは、そういう部分よりも、バックで細かい連続タンギングを決めながら、アンサンブルのなかに、ナチュラルに溶け込んでいるような場面なのだ。

この前の印象的なメンコン(チュマチェンコ独奏)とは、また違うが、新たなメンデルスゾーンの表情を拝めた好演奏だった。最後、少しデクレッシェンドしながら、ふうわりと上昇していくような弾きおわりを見上げて、ほんの僅かな余韻が築かれたときの、会場の一体感についても付記しておきたい。

ベルリン・フィルの首席ヴィオラ奏者の清水直子を迎えた、ヒンデミットの「白鳥を焼く男」も、面白い演奏だった。これはまた、メンデルスゾーン以上に無駄のない素材の生かし方。編成が小さい分だけ、そこに含まれる楽器がいかに活躍し、均等に役割を与えられているかがよくわかる。「スコットランド」同様、そういったミクロな部分において、下野の演奏は味わいがある。独奏の清水は、ほとんど弾きっぱなしのヴィオラ・パートを、終始、淡彩の美しい音色でアピールした。控えめだが、墨絵のような奥ゆかしい表現の美。重音のきれいな分離も、聴きどころだった。終演後は、いつまでも鳴り止みそうにない拍手を、客席側が自制した感がある。

冒頭に演奏された序曲「レオノーレ」第1番は、このオペラのための他の序曲と比べると、コンサート・ピースとしては、やや渋い選択となる。下野は、その特徴をそのまま生かして、これから始まることの前置きとして使った。歌劇のときと同じスタイルで、最後にぴたりと止めた演奏が興を誘った。

シーズン最後にふさわしい充実した演奏で、世界中の優れたアンサンブル・リーダーが客演する、楽しみな来シーズンに想いを致すことになった。なお、コンマスは、豊嶋泰嗣。ヴァイオリンとヴィオラには、男性が僅かに3人というアンサンブルであった。

【プログラム】2007年7月21日

1、ベートーベン 序曲「レオノーレ」第1番
2、ヒンデミット 白鳥を焼く男
 (ヴィオラ:清水 直子)
3、メンデルスゾーン 交響曲第3番「スコットランド」

 コンサートマスター:豊嶋泰嗣

 於:紀尾井ホール
0

2007/7/20

カリニャーニ 読売日響 春の祭典 7/17  演奏会

17日、病気療養のためキャンセルしたラファエル・フルーベック・デ=ブルゴスに代わり、パオロ・カリニャーニが客演した読売日響の「サントリー定期」を視聴した。サントリーホール改修中のため、シリーズ名とは別に、会場は東京芸術劇場である。

今回も、カリニャーニの指揮は、やはり冴えていた。短い曲だが、難しい拍子を丁寧に織り上げて、愉快な雰囲気をつくりだしたストラヴィンスキーの「サーカス・ポルカ」にはじまり、ラフマニノフのピアノ協奏曲第2番、そして、「祭り」に参加する一人一人の顔まで目に浮かんできそうな、ストラヴィンスキー「春の祭典」の活写まで、聴きごたえのある演奏ばかりであった。カリニャーニはいつものように、大体においては端正に、しかも、しっかりとカリニャーニ印のラベルを貼った上で、我々にそれぞれの音楽世界を提示した。

彼の演奏を聴いて、いつも驚かされるのは、イメージの自由さだ。今回はわりにポピュラーな曲目が並んだが、これらに対しても、カリニャーニは一から自分のイメージを作り上げてきたとわかる。例えば、ハルサイは一見、大人しめの演奏である。だが、よく聴くと、大きな振り幅が使われて、昨年の2月に下野竜也が演奏したとき(集中力の高い名演だった)と比べても、かなり踏み込んだ解釈を施している。急な代演でもあり、カリニャーニの考えたイメージが、すべて立体的に我々の前に提示されたかといえば、そうではなかったと思う。だが、この指揮者の要求は独特で癖があるのに、2度目にして、かなり高いレヴェルでコミュニケートできるようになった、この楽団も捨てたものではない。

さて、これらに輪をかけて素晴らしかったのが、辻井伸行をソリストに迎えてのラフマニノフだ。世界中で人気が高く、わが国では「のだめ」の象徴的なナンバーにして、フィギュア・スケート人気にも関連して、さらに知名度を高めた。録音やコンサートで、飽きるほど聴いている曲で、去るGWの「熱狂の日」でも、ベレゾフスキーの力演に接したばかりだ。であるにしても、今回の演奏はショッキングだった。

大げさな言い方をすれば、この辻井というピアニスト、目が見えない代わりに、なにか特別なものが見えているのかもしれない。この曲に対する一般的なイメージとしては、技巧性の高さと、いわゆる「ロシアン・ロマン」を象徴する甘い旋律美がある。それらの要素も、確かにないではなかった。しかし、なまじ目に見えていると、こうした表面的なところで止まってしまうのが、辻井の場合、さらにもうひと彫りされているのだ。彼の演奏からは、ラフマニノフの孤独が浮かび上がってくる。初演の地はNYか、どこか他のアメリカの土地だと思った(実際の初演はモスクワ)。異国の地で郷愁に駆られながら、帰ることもできないというような状態に似た孤独・・・実際、モスクワにあって、こんな孤独を感じていたとすれば、ラフマニノフのこのときの苦悩がいかばかりであったか、想像もできないほどだ。それゆえ、私の目からは涙が溢れた。

念のため言っておくが、辻井のパフォーマンスが完璧だったなどというつもりはない。ときどき恣意的なアクションもあり、それをきれいにまとめ上げてくれた指揮者の柔軟性に、彼は感謝すべきだ。いまの彼は、まだ注意ぶかく研鑽を重ねていかねばならない段階にある。

例えば、第1楽章などは、もっとメッセージを明確に伝える工夫があって然るべきだ。多分、辻井は自分のポジションがわからなくなるくらい、オーケストラが自分に被さってくることを求めた。そこから必死に抜け出てくるとき、我々はピアニストの発する音を自分から拾いにいくようになる。直向きに、自らの存在をアピールするピアノの真っすぐさに気づけば、第2楽章は楽しみだった。だが、そこに至るまでに、ちょっと説明が多すぎたきらいもある。

それにしても、第2楽章は素晴らしかった。清潔な打鍵が細かく展開していくと、ひらひらと雪が舞い降りてくるようだ。フルートをバックに逍遥するピアノの、どこまでも透明な響き。甘い響きに埋もれていくような場面のなかで、北国の木々や植物、澄みわたった風の薫りがすっと入り込んできて、癒されていく。上野の停車場で故郷の訛りを懐かしんだ啄木のように、こうしたものに触れて、自ら癒されていくラフマニノフというイメージであろうか。

第3楽章では、そうしたエネルギーをベースとして、再度、存在のアピールが行われるかのようだった。動きだけでも相当にアグレッシヴな演奏になったが、そういった表面的なものよりも、内面の力強い叫びが、今度は、痛いほどよく伝わってきた。限られたリハーサルしかできない中で、あそこまで鋭敏なツケで独奏を支えたオーケストラの動きが、また格別だった。

辻井はちかく、オール・ドビュッシー・プログラムで、リサイタルをおこなう予定がある。アンコールでは、「映像」の<水に映る影>を演奏したのだが、最初のいくつかの音を聴いて、はっきりドビュッシーとわかる演奏だった。これならば、本番も期待ができそうだ。ドビュッシーが凄いのか、辻井が凄いのか。多分、その両方であろうと思う。
0



teacup.ブログ “AutoPage”
AutoPage最新お知らせ