2007/7/25

ルイゾッティ 東響 プロコフィエフ『交響曲第5番』 7/25 ミューザ川崎音楽祭  演奏会

今週はどうも気持ちが乗らなかったので、ミッド・ウィークに充電に行って参りました。ミューザ川崎を舞台とする「フェスタ・サマーミューザ川崎2007」のオープニングとなる東京交響楽団の演奏会、後半だけですが聴いてきました。指揮はイタオペのスペシャリストとして、イタリア、オーストリアなどの歌劇場で引っ張りだこの、ニコラ・ルイゾッティ。

前半は、ヴェルディの歌劇「運命の力」序曲と、チャイコフスキーの幻想序曲「ロメオとジュリエット」。ロメジュリの終わるころに着いたのですが、後半の指揮者入場時に珍しいブラーヴォ。さぞかし素晴らしい演奏だった模様。私の聴いた後半は、プロコフィエフの交響曲第5番です。

この指揮者は、なかなか独特の音楽づくりで、何がやりたいのかわかるまでは、すこし探りながら聴くような形になります。第1楽章は金管の安定感がいまひとつでしたが、弦の音色がとにかくカラフルで、なるほどロメジュリがよかったわけです。管はときどき独特の要求がありますが、どちらかというと個人に任せる感じが強く、ほかの楽章でもアンサンブルとしては、もっと高められる要素があったと思います。

しかし、スケルッツォ的なアレグロ・マルカート以降は、素晴らしい演奏になります。特に、この第2楽章では弦の支えを押し出して、過度に起伏をつけることなく、しかも、きびきびとして、透き通ったアンサンブルが秀逸。トリオに入るときのグリッサンドの処理などが、徹底しています。アンサンブルはこの部分でよく整っており、バレエ的なリズムの選び方もセンスがよかったです。最初のテーマが回帰してからは、再び弦が押し出され、今度は、トリッキーな動きを交えながら、まるで現代音楽のような鋭利な響きが興味ぶかい。

アダージョ楽章は抉りすぎず、適度な深彫りで、丁寧に情報量を浮かび上がらせているのが特徴的でした。普段は聴きにくいような細かい動きが、しきりに炙り出されます。まるでジャングルのなかにいるように、野性味があふれ、楽器の音色がいろいろな動物の泣き声のようにも聴こえる。悪魔的、絶望的な感じは稀薄。非常に素直に響きをつくっていて、良い意味で音楽的な演奏でもあります。

終楽章(アレグロ・ジョコーソ)は、かなり明るめの演奏に思われます。クラリネットのリード(十亀正司)が素晴らしく、よく練られた弦の動きの緻密さと、自由奔放な管の動きの対比が面白い演奏です。金管の動きなどは、やはりバレエのような雰囲気も感じさせるもの。最近は、イタリアでバレエ人気が高まっているといいますが、この人もバレエの研究に余念がないのかも。そちらの音楽にも魅力的なものが多いプロコフィエフだけに、ルイゾッティの演奏で、そういった要素が随所に聴かれたのも納得です。もしも、新国のバレエ部門で彼を呼んで、ロメジュリでも振らせたならば、かなりのセンセーションになるのではないかと思いますね。

この楽章は、クラリネットのほか、フルート、イングリッシュホルン、オーボエなどのソロが、実に楽しげに響いていました。かえってデモーニッシュになる、一歩手前です。相澤さん(fl)は、すこし突っ込みすぎかもしれませんが、情熱的で悪くはありません。コーダは慌てず騒がず、自然な流れを崩さずに、アンサンブルを徐々に盛り上げていきますが、面白いのが、最後の締めの前にいったん転調し、バーバリズム的な響きが表れる部分。ここでルイゾッティは、ヴィオラの小刻みな動きを思いきり押し出して、聴かせるのだからびっくりさせられます。もちろん、そこまでのアンサンブルのつくり方が、説得力の強いものであったからこそなせる業でしょうね。

ちょっと、いままでのイメージを塗り替えてしまうというか、彼以外の人が振っていたならば、恐らくは許せないであろうという演奏でありながら、スケルッツォ以降は、いつもと違うプロコフィエフを聴くことに、喜びさえも覚えてきたような・・・。全体を貫く強烈なカンタービレ(正しく天性のオペラ指揮者!)、第2楽章で見せたような現代音楽のような響きの尖鋭さ、そして、バレエ音楽のような生命感とリズムの軽妙さ、精緻な弦と奔放な管の不思議な対比、明るさ、などというところが、ルイゾッティのプロコフィエフを語るポイントであると思われます。

最後、「オネーギン」のポロネーズを弾いて、お開きとなったのですが、この曲はリズムが難しいのに、ほとんど振ってなくてアンサンブル任せでした。ここまで信頼関係を作ったんだということのアッピールでしょうか。コンマスの大谷さんたちがノリノリでやってましたが、木管とホルンで弾くところは、さすがに振ってあげないと。まあ、オマケですから、これもよろしいでしょう。

とにかく、効果覿面でした。明日から2日間も、がんばります!
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2007/7/22

江村哲二氏を讃えて 地平線のクオリア  CDs

なにを今更・・・ということになりそうですが、作曲家の江村哲二氏が亡くなられたことを知りました。6月11日、膵臓がんにより47年の生涯を閉じられたということです。これを知ったのは、CDショップで、江村氏の「地平線のクオリア」ほかの録音を見つけたときです。「早すぎる死」という紹介がついていて、ぎょっとしました。まだ作曲家としては、中堅どころになったばかりの江村氏が、亡くなられたと知ったのは、そのときのことだったのです。

人間、どこでなにがあるか、わからないものです。誰もがエリオット・カーターのように、90代まで作曲ができるわけではないのです。そのことはわかりきったことなのですが、ついつい、誰もが楽天的に自分のことを考えてしまうものではないでしょうか。江村氏はきっと、その辺にかなりシビアな考えをお持ちだったと考えますが、それでも氏のような澄みきった知性にも、見えないものがあるということなのですね。

江村氏は、細川俊夫などと並ぶ中堅どころに位置づけられていました。大野和士氏が頻繁に取り上げているほか、かつては岩城宏之氏に認められ、OEKのコンポーザー・イン・レジデンスも務めています。昨年からは過去の受賞者として芥川作曲賞の審査委員も務め、今年もまた、その任を拝命していたはずです。またサイトウキネンでも武満氏の祈念コンサートに寄せて、江村氏の「奇妙な誘惑」が演奏されることになっていました。氏は独学で作曲法を習得し、その自由なバックグラウンドにもかかわらず、新しい音楽スタイルの追求に厳しい態度をとっていました。ときには口さがない批判も辞さず、妥協のない性分をしきりに発揮していた人です。

では、氏の音楽はどうなのでしょうか。作品集「地平線のクオリア」に収録されているのは、2005年初演の外題作品を除くと、1991年から1996年の間に、氏が世の中に認められていく過程での作品がメインです。彼の音楽を聴いていると、独学とはいえ、いろいろな作曲家を本当によく研究していたことがわかります。もっとも大きな影響を受けたのは、やはり、武満徹の作品でしょう。というのは、彼の追憶のために書かれた「地平線のクオリア」が収録されているせいかもしれません。彼は、それらの作品をどのようにして超越していけばいいのか、真面目すぎるほど悩んだ人なのではないでしょうか。

地平線のクオリアは、武満作品へのオマージュとして、これほど見事な作品があるだろうかというほど、緻密な作品です。こころ洗われるような美しい響きだが、ただきれいな音楽ではなく、なにか霊的なものを感じさせるほどに、不思議な緊張感に満ちています。武満さんならば、もっとイメージを引き伸ばしたかもしれませんが、そこは追憶とはいえ、江村作品なのです。シャープな曲想がふんだんに埋め込まれ、よく計算された角度で突き合わされていく。オマージュとは言いながら、最後は、そのベースから徐々に飛翔していこうとする姿勢が、よくわかるでしょう。

2曲目の「プリマヴェーラ」は、新ウィーン楽派を思わせる作風で、おシャレな1曲と言えます。ルトスワフスキ国際作曲コンクールで第1位となった「インテクステリア第5番」は、若き江村が心血を注いだと思われる厳しい作品。芥川作曲賞を授けられたヴァイオリン協奏曲第2番「インテクステリア」は、ヴァイオリン独奏という「中心」を生むことによって、オーケストラの内包する個をむしろ炙り出した、アイディア作品といえるかもしれません。

いずれの楽曲も厚く塗り込めるような書き方ではなく、適度にイメージが整理され、シンプルな語法で書かれているのが特長です。そして、なによりも響きが美しい。ほとんど潔癖ともいえる、このような清潔さが江村氏の真骨頂であるともいえるのですが、彼の悩んだのもまた、そこということになるのではないでしょうか。

江村氏は、優れた若手の作曲家としては珍しく、日本をベースとしつづけた作曲家でした。細川俊夫も、望月京も、野平一郎もみな、外国に作曲のフィールドを求め、打って出たのですが、江村氏は、日本に留まりつづけました。現代音楽にとって、もっともフレンドリーな聴き手のいる、つまりは商業的に成功しやすいアメリカに対しては、つよく警戒していました。かといって、例えば、ブーレーズの一派が幅を利かせるようなヨーロッパの環境にも、気を許していませんでした。そして、また、この日本にいることによる、閉鎖的で、怠惰な雰囲気にも無批判ではなかったのです。

江村氏には、ブログがあります。その最後の記事は、亡くなる日から2週間も隔たらない5月31日。「視差について」。

(前略)これだけでも一曲のオーケストラ作品が書けそうであった。作品のテーマというものは、日常の路上にいくらでもあるのだ。それに感じるか否かだけであるということをその一瞬に悟った。/月は必ず追いかけてくる。小学生のころ、それが不思議であった。自分の進路方向の変位に比べて、そこから月までの距離が無限大程の大きさであるから故であることの、視差という意味がわからなかった。/しかし、我々の日常の視差は、ひとりひとりすべて僅かに異なる。その視差に出会い、そしてそれにあはと気付くか否かによって、生まれ出てくるものは無限大程の大きさの差となって現れてくる。

このような発想のシンプルさにこそ、江村氏の作品を聴くときの鍵があるのかもしれません。故人は、ここでいう「視差」を、作品として提示したかったのでしょうか。それにしても、時間が足りなかったですね。遅くなりましたが、氏の冥福をお祈りいたします。


【江村哲二作品集 地平線のクオリア】

1、地平線のクオリア〜武満徹の追憶のために
 (大野和士指揮/新日本フィル)
2、プリマヴェーラ〜ソプラノとオーケストラのための
 (小松一彦指揮/新日本フィル/S:豊田喜代美)
3、インテクステリア第5番
 (A.ストラスジンスキ指揮/ワルシャワ国立フィル)
4、ヴァイオリン協奏曲第2番「インテクステリア」
 (小松一彦指揮/東京フィル/vn:高田あずみ)


ALM RECORDS (コジマ録音)
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