2007/7/29

アルミンク 新日本フィル ベートーベン『交響曲第4番』 トリフォニー・シリーズ (#418) 7/28  演奏会

アルミンク体制、新しい3年のうちの最初の1年を締め括る演奏会となった、第418回のトリフォニー・シリーズを視聴した。折しも、この日は楽団が本拠とする墨田区では、1年のうちでもっとも注目されるイベントとなる(今年は75万人の客を集めた)、花火大会の日でもあった。アルミンクのプレトークでも、そのことについて言及があったが、一方、新日本フィルにとっても特別な日なのだという。それは、これから3年間にわたって1作ずつ委嘱新曲を生み出していくプロジェクトの、最初の作品が舞台に上る日だったからである。

今回はギリシア出身の女性作曲家、アタナシア・ジャノウに白羽の矢が立てられた。ジャノウは1971年生まれ、我々には知られていないが、F.ドナトーニの下で学び、B.ファーニフーやC=H.シュトックハウゼン、細川俊夫のマスタークラスを受講した経験をもつ。既に有名なダルムシュタットの現代音楽講習会で作品が演奏されるなど、新進作曲家を代表する存在ともいえる。

とはいえ、今回の作品「聴け、神秘なる季節へと誘惑する風を」は、あまりにも保守的な作品だった。プレトークによれば、この日のプログラムとして組まれたエルガーやベートーベンの作品を参照し、特にベートーベン(4番)の構成を利用したというが、全曲聴いてみたときに、その意図はわからないでもなかった。例えば、印象的なクラリネットやイングリッシュホルンの響きが死の臭いと突き合わされ、それを楽曲全体の醸し出すエネルギーがひっくり返していくという図式は、アルミンクの演奏による4番にも感じられたことで、なかなかに興味ぶかいジャノウの批評眼だ。もしもベートーベンやエルガーの同時代人が書いたとすれば、それでいいのだが、21世紀初頭の作品としては借り物の音楽にすぎないのではないか。

ジャノウは、ブラームスの音楽を特に敬愛しているという。この日の作品も、ブラームスそのものではないが、R.シュトラウスやマーラー、そして、ワーグナーといったドイツ音楽の伝統に沿うものであり、最後には、構成感を借りたベートーベンのシンプルささえも感じられた。だが、いまさらこんな作品を書いて何になるという空虚さは拭えず、いかにも退屈なひとときだった。よっぽど、ほかのブログなどをみると、私のように、こんな詰まらんものを書きやがって・・・という意見も半ばだが、魅力的だったという意見も少なくないようだ。それには、クラリネットの重松さん、イングリッシュホルンの森さんらをはじめとする、演奏の素晴らしさも手伝っていたと思う。もしもそれがなくて、作曲者が女性でなかったならば、私の口からはブーイングの声が吐き出されていたかもしれない。

エルガーは、前のエントリーで書いたとおり。アルミンクはジェントルなツケで、ソリストを優しく支えたが、押し出すべきところでの思いきった舵取りも見事だった。

ベートーベンは、アルミンクらしいシャープな演奏だ。彼はなんだかんだといっても、ベートーベンの曲目を重視しており、最初のオペラも「レオノーレ」、最初の3年のシーズンの締め括りは第九、来年のシーズン・ラストも2番を指揮する。今回は、「誘惑」をテーマとしたシーズンの最後となるが、エルガー同様、楽曲の謂れなどを考えずとも、まず響きで「誘惑」するという原点に返ったプログラミング。しかし、この曲目のなかにも、いわゆる「不滅の恋人」への恋文へ繋がる愛の誘惑。「ハイリゲンシュタットの遺書」に繋がるような負の誘惑、がそれぞれ見られることも踏まえた、スピリチュアルな側面も垣間見せた。

この曲目は、ここ1年ちょっとの間に、宮本/都響、H.シフ/KSTで聴くことができ、これで3回目。一本一本の燃焼度が高く、もっとも感動的な演奏は都響だったが、シフもTB記事に書いたような興味ぶかい発見をさせてくれた。今回のアルミンクの演奏は、もっとも現代的な演奏であり、やはり指揮者として一日の長がある、細かい部分での音づくりに大きな感銘を覚えさせる指揮ぶりだった。

第1楽章の序奏部分と、第2楽章で、楽曲全体の印象が決まったという感じがする。そのなかで、クラリネットの果たした役割は大きい。cl、ob、flのシーケンスが繰り返し登場するが、重松、古部、白尾とくるアンサンブルに、何度もこころを奪われた。活躍する楽器としては終楽章のファゴットの細かい動きが有名であるが、その部分はさほど強調されていたとも思えない(もちろん、河村さんが立派な演奏をした)。全体として、速めのテンポは「第九」の録音とも共通しており、それにつけるオーケストラの機敏な動きは素晴らしい。今回はティンパニーの近藤さんが司令塔になっており、その繊細な音色の変化はいつも以上に耳を惹いた。

弦の響きはゴージャスだが、弱奏部では長身のアルミンクが小さくなって、一気に響きを刈り込んでしまう。この楽団は鳴らすことが得意で、そういった繊細さはあまり重視してこなかったが、ここに来て、こういうデリカシーのある表現力がキレを増していることを喜びたい。これには、ガベッタのところでも言ったように、「ローエングリン」のような作品を、オーケストラが舞台上にいる状態でやってきた経験も、確実に生きているようだ。

なお、この演奏は、ジャノウの新曲を抜いて、30日のフェスタ・サマーミューザでも再演されるので、推薦しておきたい。

というわけで、ここ一年の進境をベートーベンの演奏でしっかりと印象づけた、アルミンクとNJPのメンバーたちである。来シーズンは、ウィーンっ子、アルミンクによる楽しみな「こうもり」で幕を開ける! さて、大成功の演奏会後、ジャノウを囲んで打ち上げに興じたか、それとも、団員打ち揃って隅田川まで繰り出し、打ち上げ花火の場に参集したのかは、私の知るところではない。

【プログラム】2007年7月28日

1、ジャノウ 聴け、神秘なる季節へと誘惑する風を
2、エルガー チェロ協奏曲
 (vc:ソル・ガベッタ)
3、ベートーベン 交響曲第4番

 コンサートマスター 豊嶋 泰嗣

 於:すみだトリフォニーホール
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2007/7/29

旬の2人の女性チェリストを聴く ソル・ガベッタ 山上ジョアン薫   演奏会

この日は、マチネとソワレで、昨年あたりから注目していた、若い女性チェリストたちの演奏を楽しんだ。順番が反対だが、ソワレの山上ジョアン薫は、ピアノのダリア・チャイコフスカヤをパートナーに、浜離宮朝日ホールでリサイタルをおこなった。彼女は名教師のペルガメンシコフ最後の弟子であり、その他にも錚々たるメンバーに師事している。先日のチャイコフスキー・コンクールでは決勝進出はならなかったものの、ディプローマ(演奏家資格)を獲得した。

さて、このチェリストは、技術的には相当に優れたものをもっている。弱奏部や、中音域での音色のゆたかさは耳を惹く。ところが、強く弾かねばならない部分では、それらの長所を自ら塗りつぶして、表現が単調になってしまうのがいけない。彼女は自分の演奏のなかで、その問題の解決法を実現しているのだが、本人は気づいていないのかもしれない。つまり、八分の力で弾けばいいのである。

それがある程度うまくいったのは、最後のチャイコフスキーの「奇想的小品」や、冒頭のサンマルティーニのソナタだ。技巧的な部分の多い前者では、力を抜いてリラックスした状態で弾くことが絶対条件であるため、下手に力まないで済む。また、バロック時代のサンマルティーニでは、そもそも強烈なフォルテが求められていないので、ゆったりした表現力を醸し出せたのであろう。一方、ブラームス(2番)やショスタコーヴィチのソナタでは、芯のつよい表現が求められるため、塗りつぶすような表現になってしまいがちだ。緩徐楽章には魅力的な部分もあるが、アレグロ楽章に行くと、途端に退屈な音色になってしまう。だから、しっかり音色のパレットを守るために、強奏部分で余裕のある表現をこころがけ、ばらばらに混ざりあってしまった絵の具のように、単色の響きにならないことを注意した表現をすべきだ。

これと比べると、ソル・ガベッタの演奏は、本当に驚くべきものだった。彼女は、新日本フィルの定演「トリフォニー・シリーズ」で、エルガーの「チェロ協奏曲」のソリストとして登場した(C.アルミンク指揮)。繊細の上にも繊細。響きは少なめで、音がきれい。しかも、内省的な奥深い世界を音化して、我々にしっかり伝えてくれる表現力の高さがある。

それにしても、かなり独特な演奏だったことは確かだろう。冒頭部分は独奏の我がままが効くし、またそれが面白いのであるが、ガベッタの場合、カチッカチッとフォルムを決めていって、全然、はみ出ることもなく、流れるように、二の句、三の句を接いでいくのだ。唸り、引きずりながら、徐々に楽曲の流れに乗せていくようなアプローチが主流だとは思うが、ガベッタの演奏はなんとも清潔で、音符外への持ち込みが少ない。だからといって、ドライというわけでもない。内側に触りがたい、微妙な感情の襞を抱えながら、ガベッタは生まれたての赤ん坊でも扱うようにして、慎重に駒を進めていくのだ。

協奏曲だというのに、彼女は、自分の音がバックグラウンドの向こうに埋没することを、すこしも恐れていない。そこが、山上の演奏と明らかにちがう点だ。ガベッタは、チェリストにとっての命が、音色のゆたかさにあることをよく知っている。それを守るためならば、どんな犠牲も厭わない。幸いなことに、アルミンクはこの場所での「ローエングリン」の上演を思い出して、半分の響きでソリストを守りつつ、繊細なツケに徹してくれた。最初のヤマで、独奏が最高音まで上り詰めて、オーケストラがそれを力強くなぞっていく場面だが、ガベッタはその上行部分においてさえ、すっきりした美しいラインを崩そうとしない。終わりの方をすこしだけ引っ張り気味にすることで、高音の処理を滑らかに進めようとしている。ガベッタについて指摘できる唯一の弱点は、ときどき、こうしたハイポジションで響きが軽くなってしまうことだ。

ゆったりした自分の流れで、たっぷりと感情を描き出した第1楽章。そこで浮かび上がってきたのは、エルガーを捉えた死からの誘惑だ。その雰囲気をさり気なくサポートする、死と親密なクラリネットの音色である。だが、ガベッタの演奏で効く限り、辛いことばかりではない。第2楽章のドラマティックな動きや、第3楽章の甘さも、十分に印象づけられているが、それらの表現は、なんとも上品なメッセージとして仕上げられており、まるで、お祈りでも聞いているような感じがした。

第4楽章はひとつひとつテーマが丁寧に色づけされており、隙のない表現力がぎっしりと詰まった素晴らしい演奏。特に、コーダの前で美しい思い出が回想される部分の甘美さ、その引き締まった響きの美しさは、忘れることができないだろう。これにつづくコーダは、葬儀の最中、愛人の在りし日の思い出からふっと現実に帰ったような、リアルな感情がふっと姿をみせる。だが最後は、それを振り払うようにして、からりとした響きで、悠然と弾きおわるのである。最後だけ、すこしテンポ・アップして、我々を空想の世界から引き上げてくれるかのようだった。だが、それまでの余韻がなくなるわけもない!

アンコールでは、まったく知らない曲、ヴァスクス「チェロのための『本』」という作品からのピースが演奏されたようだが、作品自体は特殊奏法を使いながらも、しっとりとした叙情を感じさせる聴きやすい曲だった。それをガベッタが、丁寧に弾きあげる。途中、チェリストが声を出して、旋律をなぞるところが何ともいえない。それがまたメッツォ風の美声であり、一口にいえば「そそる」。ここで、泣きが入ったのは言うまでもない。

そのほか、ベートーベンの4番と、この日の委嘱新作については、次のエントリーで書く。
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