2007/6/26

飯守泰次郎 「マイスタージンガー」第3幕 東京アカデミッシェ・カペレ 6/24  演奏会

発足から17年の間に33回の演奏会を刻む、オーケストラ+コーラスで構成されるアマチュア・オーケストラ、東京アカデミッシェ・カペレの定期で、ワーグナーの「ニュルンベルクのマイスタージンガー」第3幕を聴いてきましたが、どっちも上手でした。

今回の指揮者は飯守泰次郎さんでしたが、新響「トリスタン」の公演につづき、アマ・オケでの奇跡的なワーグナー公演が、またしても、この人によって歴史に刻まれたことになります。飯守さんのワーグナーは、「マイスタージンガー」だからということもあるでしょうが、ワーグナーというには明るめの響きで、すらりとした流れの気持ちいい快演でした。

プロでさえフォルムのとり辛い揺るぎのないテンポを要求する場面もあり、アマに求めるのが無理なようなソット・ヴォーチェなども引き出そうとしつつ、飯守さんはまったく手抜きなく、彼がバイロイトで見てきたとおりの本物の演奏をするのだから、楽団のみんなは本当に苦労したことだろうと思います。でも、その甲斐あって、彼らは確かに、本物の演奏をしたんですよ。

さて、ワーグナーをやるときは、歌手選びが大変です。例えば、日本人で本物のヘルデン・テノールと呼べる人は、一人もいません。あの分厚いオケの響きの前に立てる迫力のあるバリトンも、そうした男たちを掌に乗せられるようなソプラノも、ほとんどいません。それは初めからわかっていたことなので、そのなかでも、少しでも何か光るものがあるといいなあと思っていました。

これが、意外と良かったので、私としては満足です。まず、ヴァルターの水口聡さんは、どうしたってヴェルディの重めの役に聴こえてしまいますが、マイスタージンガーは元来、イタリアものの要素も取り入れているのですから、ああ、なるほどという場面がいくつもありました。声の重みはいちばんです。

ザックスが青戸知という歌手で、この人は以前に聴いたときの感想から、ザックスにしてはショボいだろうと思っていました。確かに、ショボいのですが、以前、「カヴァレリア・ルスティカーナ」でアルフィオを歌っていたときと比べると、かなりの成長がみられました。キャストの中では、特に言葉に対する意識が強いようでしたし、ザックスの存在の重みは、正しくそこにあるのですから、アプローチとしては好感をもちました。本当は、リートでも歌うといいのでしょうが。でも、やはりザックスには、舞台の上から響いてくる音すべてを支配するような、圧力がほしいですね。

脇役の高橋淳(ダーヴィト)と三戸大久(ボーグナー)が、なかなかに厚みのある歌声を持っていそうでしたが、ダーヴィトはベックメッサーを超えてはならず、ボーグナーはザックスに勝ってはいけないので、やや控えめの歌唱になっていたようです。特に、高橋さんは演じることが好きな歌い手なので、演奏会形式というのは、消化不良かもしれませんね。

ベックメッサーは汚れ役ながらも、密かにおいしい役だと思いますが、萩原潤が芸達者に演じて、声もきれいでしたし(ときには嬌声を挟みながら)、たっぷり歌うことができました。エーファの田中三佐代さんは意外と声に清潔さがあり、膨らみも感じられたので、徹底的に声を鍛え上げれば、良いワーグナー歌手になる可能性を感じました。

第3幕だけでも、2時間半です(休憩なし)。しかし、やはり短いですね。この幕の肝は、あの魅力的な五重唱にあることは確かですが、これは全編のなかでも、もっとも大事な場所に置かれ、もっとも実の詰まった歌唱になっています。ここを聴くために、5時間半の「マイスタージンガー」はあります。ワーグナーとは、そういう作曲家なのです。今回は、第3幕から始まっているので、その助走が3分の1もなかったことになります。

すると、その分だけ、五重唱の重みは膨らみが足らなくなってしまうのです。これは仕方のないことです。ただし、既出の4人(水口、青戸、田中、高橋)に加え、マクダレーネの佐々木昌子が、実に丁寧なアンサンブルをつくり、どこに焦点をあわせるのも観客の勝手という感じで、押しつけがましくない、清潔なパフォーマンスで楽しませてくれたと思います。

ベックメッサーのパントマイムで少し動きを仕込んだくらいの、演奏会形式の舞台ですから、あまり深い読み込みをするつもりはありません。ただ、こうしてみると、「ドイツ」音楽 vs.「イタリア」音楽という構図が、なおさら明らかですね。萩原さんは、ベックメッサーをロッシーニ風に歌いましたが、あれで正解でしょう。彼が負けるのは、マイスターの決まりごとはおろか、当たり前の言葉のフレージングさえもわからないほど、ドイツ的な事物から乖離してしまっているからです。

ワーグナーは、たとえイタリア的なスタイルを取り入れたとしても、ちゃんとドイツ的なものは書けるのだぞということが、この作品で言いたかったはずです。そのために、ヴァルターの自由な逸脱に助けを求めるのでしょう。そのことを示すのには、イタリアのスタイルをしっかり身につけた、水口聡は適任でした。

ワーグナーは、ウェーバーの「魔弾の射手」や、この作品の最後の歌合戦のフェスティーヴォな部分に対比される、ベートーベンの「フィデリオ」を、つよく意識したはずですが、そのままでいいとは考えていなかったと思います。彼は、これまでにない新しいオペラを作いたいという志をもっていたし、そのためには、イタリア・オペラの要素も必要だと考えていたにちがいありません。多分、そうした国境に捉われない、普遍的な作品を仕上げたいと考えていたのです。

ワーグナーは、そうした普遍性につながるインターフェイスとして、詩を大事にしていたフシがあります。ザックスは、優れた職人であることよりも、詩人として深く尊敬されています。民衆は、ヴァルターを勝たせたザックスを讃えますが、それは、詩の力が旋律と深いレヴェルで調和をもったときに、伝統的な決まりごとや些細な形式のずれを、一気に乗り越えていくことを知ったからです。それは既に、仲睦まじいヴァルターとザックスの共同作業の部分で、はっきりと示されていたことなのですが・・・。詩人=ザックスとしては、青戸はよく歌っていたと思います。

全体を通して、コーラスは立派なものでしたね(合唱指揮:阿部純)。これは、室内楽的な部分も丁寧にこなしていたオケにも言えることですが、大きく声を張りが得る部分だけでなく、例えば、「セイシュクに、セイシュクに」などと言って、声を落とす場面でも、よく我慢が効いています。ワーグナーでは男声が重要ですが、その部分に強みがあるのも、この劇をやるにはうってつけでした。そうかと思えば、第1幕への前奏曲のあと、聖歌に入る部分でのしっとりとした歌声も素晴らしかった。

とりあえず、これぐらいにしておきましょう。とにかく、ワーグナーを聴いて、こんなにも楽しい舞台は初めてでした。


 於:すみだトリフォニーホール

 2007年6月24日
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