2007/6/19

仙台国際音楽コンクール ピアノ部門 セミ・ファイナル B  クラシック・トピックス

仙台国際音楽コンクールのピアノ部門、セミ・ファイナルの模様を引き続きリポートする。既にファイナル進出者が発表されているため、これから聴くことになるコンテスタントたちは全て、このラウンドを通過したことがわかっている。

オフチニコフは、プロコフィエフの3番を選択。非常に独特のテンポ感に基づいた演奏であるが、そうしたスタイルが通用したのも、オーケストラ、並びに、指揮者(山下一史)の柔軟性の賜物である。遅めのテンポ設定が基本になっているが、そうして思いきって引き伸ばしたフレーズが、案外に間延びすることなく、むしろ、響きとして自然な息吹きを宿していたのが印象的だ。

リー同様に、珍しい部分を押し出してくる傾向もあるが、彼女とちがうのは、それが少しもわざとらしくない点である。予選で感じられた押し引きのうまさというのは、このラウンドでもやはり感じられ、特に、十分な高さから打ち下ろされるときの、打鍵のしっかりした手応えは魅力的だった。それだけに、最後の楽章の弾きおわりにかけて、手もとの確かさだけに頼ってしまったようなパフォーマンスには、若干の違和感を覚えないでもないが。

全体としてのフォルムは、ときに個性的でありながらも、常識的な均整を保っており、聴いていて不安に思う部分は、意外と少ない。多分、チャイコフスキー・コンクールでは、彼のようなコンテスタントは上がってこない。ヴァイオリン部門同様、仙台のコンクールとしての面白さを反映したかのような、オフチニコフのセミ通過である。

グリャーズノフは、ラヴェルをチョイスした。冒頭部分をしっかりと押し出して、エンジンに点火。次の部分での響きの収め方も秀逸で、出だしは好調だ。展開部の直前で、テンポを落とさず、もう一ねじ巻くようなアクションには驚いた。その前後だけが少しガチャガチャしたが、展開部以降は、各部の特徴を際立たせながら、はっきりした輪郭の演奏をオーソドックスに弾きあげた印象である。

緩徐楽章は、しっかりスコアに忠実な演奏で、楽曲そのものが持つ魅力を、昆布だしをとるように抽出していく。長い主題提示のあと、木管が入ってくるところで、なお、しばらく打鍵の重みを保ったのが彼らしい。ここも、全体としては、新味の感じられない演奏だが、彼に弾かれると、これ以上なにもできないし、そのほうがいいのだという説得力がある。

第3楽章は、冒頭に山下(指揮者)の独特の主張が表れていて、ここまでの両日とも、その動きの面白さを仙台フィルがいまいち表現しきれていないものの、グリャーズノフだけは、それをはっきりと把握していたことが感じられる演奏だった。抜いたり力んだりしながら、複雑に重みを変えて曲目を編み上げているのを、ピアニストが的確に拾い上げているのがわかるだろう。素晴らしい演奏だ。終演後の山下の握る手に、こころなしか、力が篭っているようにみえたのは、私の思い込みであろうか?

本邦から唯一のファイナル進出となった津田は、前の人が前の人だっただけに、分の悪いラヴェルを選んでしまった。だが、彼の演奏はまたタイプが異なり、しっかり個性を刻むことができた。彼は、正確性というキーワードで、リーと双璧だが、同じ正確性といっても、ちょっとタイプが違うのだ。リーは表立って、こうでしょう、ああでしょうと、表情ゆたかに語りかける。だが、津田のほうは、淡々と自分の演奏をこなすことで、共演者をいつの間にか説得してしまうのだ。

なお、この中間(というより、少し上のレヴェルにも感じられるが)にいるのが、グリャーズノフである。

津田の演奏に戻るが、緩徐楽章はグリャーズノフ同様、タネも仕掛けもないといっても、どこが違うのだろう、彼と比べると表現力に深みが出ない。その原因はよくわからないが、多分、本当に基本的な問題で、打鍵の重みや、それに関わる腕やからだの使い方に違いがあるのだと思う。終楽章は、いささか素っ気ないし、打鍵に重みが足りない感じもする。

さて、ファイナルは、コンテスタントがリストの中から2曲を選び、その中から、運営委員長が選んだ1曲を演奏するという、独特のスタイルをとっている。これが、なかなか面白い組み合わせになったのである。

私が比較に使った、リー、グリャーズノフ、津田のテクニカル系の3人が、同じベートーベンの4番で、その表現の重みを問われることになった。特に、セミの内容からすると、自分で選んだ1曲に変わりないとはいえ、津田には厳しい感じのする曲目だ。

オフチニコフは、ここまで押し引きのうまさはあっても、それを明確なダイナミズムとして表現する場面が少なかった。チャイコフスキーでは、それをやらなくてはならない。ルーは、これまで感情がぐっと乗るような表現をしてこなかった。ショパンでは、その面が厭でも試されることになる。そして、シェフチェンコは、ブラームスを弾くには、ややスケール感に不足する面もあった。これを見事に弾き上げることができれば、仙台の優勝者とするにふさわしい風格を手に入れることができるだろう。

ということで、ちょっとばかり、決勝が楽しみになる曲目の選択である。ラフ2、ラフ2、プロコ3、ラフ3、ラヴェル・・・などという具合になりやすいコンクールのファイナルでは、正直、選考というよりはガッラのような趣があるものだが、ここでは、そうした甘えはないようだ。なお、ファイナルは、22日と23日である。
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2007/6/18

ガンバ 東京交響楽団 ショスタコーヴィチ 交響曲第12番 @ミューザ川崎 6/17  演奏会

東京交響楽団のミューザ川崎定期を聴いてきたが、ここ何年か、東響の演奏にはたくさん接してきたものの、今回がベストであると迷いなく言える。指揮者は、一昨年のサントリー定期で初登場し、当時、スダーンの就任直後で、ちょっと繊細になりすぎる傾向にあった東響に喝を入れて、力強く美しい「惑星」の演奏を引き出したラモン・ガンバだった。

オーケストラと指揮者の関係は、2回目の演奏が鍵だという。だとすれば、今回は、ガンバと東響の相性のよさを、はっきり証明することになったはずだ。メインの演目は、ショスタコーヴィチの交響曲第12番。世評的には駄作とも言われるが、ショスタコのファンならば、好きな人も多いはずだ。私も生は今回が初めてだが、演奏効果は案外に上がりやすそうだと踏んでいた。

確かにそうだったが、ガンバは、さらに多くのものを引き出してくれた。まず、私が感じたのは、ここでようやく、作曲者がスタート・ラインについたのだなという想いだったが、これは次のエントリーで詳述したい。

さて、ここ何年かのうちで最高の出来というからには、理由がある。それを一言でいえば、東響の素晴らしいところが、ほぼ全て出し尽くされた演奏だったからということになる。情熱的な演奏スタイルを基本に、弦は総じて燃焼度が高く、スダーン就任前後から精度も高まっている。とりわけ、チェロはボーマン首席を中心に深みのある音色が持ち味。第2ヴァイオリンのアグレッシヴな動きは、首席を4人揃えていることからも分かる。ヴィオラは女性が多いだけに、優美な音色が特徴的だ。

また、金管はスター奏者の出やすいホルン、トランペットに人材を得ているだけでなく、トロンボーン、チューバにも穴がなく、総合力で、N響、読売日響といったトップ・オーケストラにも劣らない。打楽器セクションは、奥田首席の薫陶が行き渡り、よく鍛えられている印象。木管も各セクションに人材を得ている。こうした素材を、ガンバは実に的確に把握していた。

第1楽章では、激しい曲想をザクザクと掘り起こしていくような演奏で、少し変わっているが、起伏に富んで表情もゆたかだ。テンポは揺るぎないが、激しい流れの中にも、少しだけ余裕をもたせていることで、響きに膨らみが出ている。要所で打楽器を異常に強打させるのは、はじめ若干の違和感もあったが、楽曲の流れをぶちこわすものでないのは、前後の流れのスムーズさから明らかだ。金管の強奏部などにおいても、情報量がなくならず、よく耳を澄ますと、ほとんど全部の楽器の音が聴き取れる。こうした音楽づくりができるのは、指揮者の耳の良さを証明するものだろう。

最初の一連の流れは、こうしたガンバの細かい響きのデザインから、ひとつひとつの楽器が自己紹介のように、重要な部分を受け持ちつつ、バトン・タッチしていく楽曲の構図をはっきりと示した。それがひととおり済んだあと、弱奏で挿入される低音弦のアンサンブルは、腫れものに触るような厳しさで、特にチェロの穏やかな歌声がこころに滲みる。こういう部分が、随所に効いてくる演奏だ。響きが盛り上がってからは、打楽器の強調が激しい。これは直後のブレイクを導くものでもあるが、より重くは、後半の印象的なスネア・ドラムに対応するものであろう。

中盤は、図太いアンサンブルが続くが、中でも、2度目のヤマに向かって、テンポを速めながら上り詰めていくシーンでの分厚い響きは、圧巻だった。かと思えば、大きな右手をかざしてすぐに響きを収め、今度は柔らかいアンサンブルを引き出すのだから凄い。ホルンのしなやかな響きをキーにして、トロンボーン+チューバ→木管+打楽器と細やかに移り変わっていく風景は、なんとも優美である。

第2楽章は一転して、かなり静的な演奏ながら、各楽器の音色でもって聴かせる丁寧な演奏だ。前半に出てくる、オーボエ、クラリネット、フルートのアンサンブルが印象的だが、中でもクラリネットのヌヴーは、ショスタコーヴィチらしい渋い音色を、たっぷりと聴かせてくれる。相澤のフルートも、第1楽章から好調がつづく。中盤の繊細なソロには、痺れが来た。目立たないが、バックの弦の動きに注目するのも面白かった。ストリングスの首席4人での室内楽になる部分は、弱奏ながら、ひ弱になることなく、息を呑む美しさだった。ガンバの演奏は、このような緻密な室内楽的デザインを、(強奏部を含む)全体に貫いているところに特長がある。

第3楽章は、アレグロの揺るぎないリズムが、よく効いている。冒頭のピッチカートは、ふくよかな音色。渦巻くような弦の動きをシャープに印象づけながら徐々に上昇し、金管が爆発するシーンは東響ブラスの本領発揮となった。

フィナーレは明るめの響きで、表面上は金管のリードが素晴らしいのだが、私は敢えて、目立たないところに注目していた。それは、弦楽セクションである。彼らの粘り強くも、メリハリの利いた支えが、全体の屋台骨となっていたことは間違いない。金管と打楽器がメイン・ストリームとして聴こえるが、木管の助けがしっかり存在をアピールしているし、ときには、それを補強し、弦が内側でこれを溶かし込むというデザインが、目に見えるようである。高木コンマスは、今回も快調にアンサンブルを引っ張っていた。

最後は、分厚い響きで締め括ったが、最強奏でほとんど濁ることのない、この日の東響のアンサンブルは質が高かった。ガンバは、彼らの力を引き出したというに止まらず、東響のレヴェルを一段、引き上げたとも言えそうである。現在、楽団のポストが優秀な3人の指揮者で埋まっているのを、今回ほど恨めしく思ったことはない。彼がちかい将来、ビッグになりすぎなければ、スダーンの後任(もちろん、まだ、しばらくはスダーンの時代が続いてほしいが)として、第一候補となるであろう。

前半のハイドンの交響曲第93番も、ザロモン・セットの皮切りを飾る名曲の表情を、知的に彫り上げた。仲道郁代を独奏に迎えてのモーツァルトの21番は、ソリストの技巧の高さを信頼した演奏で、力強い成果を上げた。ただし私は、仲道の演奏スタイルが、あまり好きとは言えない。

【プログラム】 2007年6月17日

1、ハイドン 交響曲第93番
2、モーツァルト ピアノ協奏曲第21番
 (ピアノ:仲道 郁代)
3、ショスタコーヴィチ 交響曲第12番「1917年」

 於:ミューザ川崎シンフォニーホール

 コンサートマスター:高木 和弘
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