2007/5/12

チャイコフスキー ヴァイオリン協奏曲と「オネーギン」@  クラシック曲目分析室

最近、プーシキンの散文詩の巨編、「エフゲニー・オネーギン」を読んだ。言うまでもなく、音楽ファンには、チャイコフスキーのオペラの原作としてこそ、有名であろう。さて、このロシア上級社会の歪んだ価値観を風刺する、プーシキンのライフワーク的な作品をチャイコフスキーがオペラ化した年に、この作曲家のもうひとつの傑作、ヴァイオリン協奏曲も生まれている。

フォル・ジュルネの庄司&ウラル・フィルの協奏曲を評したとき、私が「はじめは颯爽とシリアスに入ってくるのですが、徐々にチャップリン的なユーモア(風刺)が入って」くるとしたのは、やや分かりづらかったかもしれないと思う。まず、第一義的には、響きそのものがユーモラスに聴こえたということがある。まずは、それが前提だ。

私はここに、いろいろと「考えた」(理屈っぽい)ことを書くが、それはまず、そのときに響いてきた響きと無縁に考え出したものは、ひとつとしてない。この記事も、あの少し皮肉っぽいような、庄司さんのつくり出した響きは、一体、何だったのかという疑問からはじまった。そして、既に演奏中に思いついたのだが、この響きは「オネーギン」との関係でみたときに、より明らかとなるだろうと見当をつけたのである。調べてみると、案の定、2つの作品は同じ時期に書かれていた。

さて、研究論文ならば、「オネーギン」のスコアを開いて細かく検討していくべきところだが、幸か不幸か、私にはその余裕がない。結論だけ言うと、この作品は、「オネーギン」のヒロイン、タチアーナをイメージしながら、当時の社交界を取り巻くレディと、紳士たちの姿を思い浮かべて聴くと面白い。そのことが言えれば、私には満足だ。

この協奏曲におけるヴァイオリンは、第一に社交界の花形に立つタチアーナのような、高貴な女性のエレガンスを演じる。やや喜劇的な所作も交えながら、彼女は実に多彩な表情をみせる。だが、それだけではなく、「オネーギン」の陰の主人公を演じる、作者の視点と同じように、このレディと紳士たちの茶番劇を目撃し、活写する役割も担っている。最後は、それらが絡みあって、コミカルながら勢いのあるフィナーレを迎えるのだ・・・。

第一楽章、序奏はいかにも長閑で、「オネーギン」の主人公たちが最初に居を構えている、田舎の領地の描写のようである。さて、独奏ヴァイオリンの登場だが、ここで登場する貴婦人は少女のタチアーナではなく、既に高貴な雰囲気をもった一廉のレディである。ここのスタイリッシュなフォルムは、庄司の演奏のひとつの特長であるが、高度な技術を披露しながら、表情の明るさと技術面での余裕が、最初のテクニカルなシーケンスを、リラックスして聴かせてくれる。

なお、この部分を対照的に、きわめて高い集中力で濃厚に描き上げる演奏の筆頭例として、川久保賜紀の独奏によるソニー盤(ツケは、下野竜也指揮新日本フィル)を挙げておく。庄司の演奏とは、かなり毛色がちがうが、この演奏も面白いので引き合いに出しながら、協奏曲の描いている世界をみていこう。

前半の長大なソロ部分で、既にして、相当に響きの剽軽さを出しているが、オーケストラの間奏を挟んで、静かになる部分での独奏も、忙しくならずに、ゆったりと響きの面白さを浮かび上がらせている。だが、このあたりまでは、特にツケの迫力などにおいて、川久保盤が有利だと思われた。例えば、カデンツァの前の部分は、下野の演奏は、まるでオネーギンとレンスキーの決闘を思わせるような、渦巻くようなエネルギーである。カデンツァも、川久保はバロック風の響きを混ぜながら、面白く弾いているし、倍音を含めた響きもゆたかだ。

庄司の表現がぐっと面白みを増すのは、むしろ再現を経てからで、川久保の演奏を聴くと、まるで現代音楽のようだが、庄司は常に膨らみのある響きで、高音の連続も丁寧に織り上げていく。このあたりは、純器楽的な趣がつよく、演奏も一気呵成だ。ここで、フォル・ジュルネでは大拍手。聴き慣れている人からは、いつもより温かな失笑、さらに「間違いちゃった」という照れの入ったどよめき・・・と、手に取るように分かり、2Fからみる会場は面白かった。

第2楽章以後の分析は、次のエントリーにて。
0



teacup.ブログ “AutoPage”
AutoPage最新お知らせ