2007/5/17

チャイコフスキー ヴァイオリン協奏曲と「オネーギン」B  クラシック曲目分析室

前回の続き。いよいよ、楽曲は第3楽章に入る。このパートになると、「オネーギン」の筋からは、やや距離を置く展開になる。コミカルな性格が増し、喜劇的な場面がつづく。まず、どこかすすり泣くような感じで登場する独奏ヴァイオリンだが、第2楽章のようにシリアスではなく、アクションも大げさで、鼻水すするような、喜劇的にデフォルメされた姿の描写になっている。ピッチカートは、その点で面白い効果を発揮している。

ここでは女主人公を常に演じるヴァイオリンだが、確かに、前楽章の流れを受けて、泣きは止まらない。注意ぶかく聴けば、ヴァイオリンの細かい動きが、そのことを明示している。とはいえ、皮肉なオネーギンのこころを知ってしまい、彼女はいまやペテルブルクの公爵夫人となっている。大げさな表情づけは、彼女の身分をややアイロニカルに象徴する。しかし、そこに颯爽とした響きが、絶えず絡みついていくのに気づくはずだ。これが、彼女に言い寄る紳士たちなのである。第1主題をつかってのトゥッティは、こういう紳士たちが、一斉に貴婦人に襲いかかっているように聴こえる。

どこか陰のある女性は、紳士たちの大好物なのだ。それは、オネーギン自体がそうであったろうし、つまりは、プーシキンがそうだったということなのかもしれない。そして、また、そこに重ねられたチャイコフスキー自身の「信仰告白」でもあろう。

このような要素をベースにして、この楽章を聴き込んでみると面白い。しかし、彼女の魅力はそれだけではない。独奏ヴァイオリンは、ここで、からだひとつで人間のこころの機微を余さず表現するバレリーナたちのように、いろいろな表情をみせる必要がある。彼女は人知れぬ涙を胸のうちにしまいながら、女性らしいおしゃべりのテクニックも身につけ、また、そっと声を落として昔語りをロマンティックに話すことだって、十分に憶えた。それが、テンポの落ちる部分で、木管などの助けを借りながら表現されていることだ。

すなわち、私のイメージでは、明るく聴こえる部分ほど、彼女にとっては辛く、ゆったりした部分でこそ明るいのである。だが、そのように単純でもなく、辛さのなかには、有象無象に追いかけられる辛さのほかに、ひとから愛されるという喜びもある。また、その場では楽しげなおしゃべりも、本当に彼女を癒すものではないかもしれない。そういう複雑な感情が絡みあっていくところに、この楽章の盛り上がりは築かれている。

貴婦人は逃げる。紳士たちは追いかける。大詰めは、独奏ヴァイオリンとオーケストラの、息詰まる濃厚なコミュニケーションだ。最後は、もみくちゃにされて、悲鳴を上げるようにも聴こえた。庄司のパフォーマンスは、実に、このような社交界の風景を、見事に切り取っていたと思う。

プーシキンは、オネーギンのことを笑っている。だが、そうして笑うことができるのは、自分自身が、オネーギンと同じような人間であることがわかるせいだ。社交界の風刺、上流階級の歪みといっても、そのなかに生きるしかないプーシキンなのである。太宰治ではないが、彼は「オネーギン」を書き上げたあと、彼が風刺したような上流階級のプライドにしたがって、細君をたぶらかした愛人に決闘を挑み、レンスキーさながら敗れて、その傷がもとで亡くなっている。

創作のスタイルも、プーシキンは同時代の前衛的なものからすれば、やや古めかしい(古典的な)スタイルをとっていたと言われる。原詩を読むと、隠喩(筋そのものも隠喩的だ)を交えて、そのあたりを頻りに述べ立てており、そこにまた、かえって、ある種のプライドが表れてもいる。音楽でいえば、少し時代は下るが、R.シュトラウスをイメージすれば良い。というよりも、よく読むと、この「エフゲニー・オネーギン」という作品、実は、4人の男女の物語というよりは、そうした文体の問題をめぐる象徴的な作品としても考えられることに気づく。

チャイコフスキーは、音楽の存分で、そこまで踏み込むことはしないが、プーシキンと同じように、その作品に込められたアイロニカルな要素を、結局のところ、自分のほうに振り向けながら、聴き手にも提示しているように見えるのである。だが、これは、ひとつのイメージだ。私はこうした考えが、いかなる聴き手に対しても十分に説得的だとは思わず、また、どんな演奏家の表現にもぴったりはまるとは思っていない。

そういう感じで読んでいただければ、私としても嬉しい
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2007/5/14

チャイコフスキー ヴァイオリン協奏曲と「オネーギン」A  クラシック曲目分析室

前回のつづき。第2楽章は緩徐楽章ということもあり、ふつうは、シリアスに弾くことが多い。川久保の演奏などは、その典型的な例である。庄司の場合、この楽章の演奏が特に面白かった。曲想から深みのある部分があるのは当然として、彼女の演奏は、このパートにおいてさえ、なお膨らみがあり、むしろ、全楽章でもっとも豊かに表情をつくり、活き活きとした響きを刻んでいたのである。

さて、その話をする前に、ここまでの「オネーギン」の筋を確認しておかねばならない。主要な登場人物は4人。若い詩人のレンスキーと、その友人で人生の先輩のオネーギン、そして、オリガとタチアーナの姉妹。レンスキーは、オリガと将来を誓いあう仲となっており、オネーギンもそのことを承知している。

オネーギンはどちらかというとタチアーナに興味があるのだが、既にして世捨て人的な彼は、僅か17歳のタチアーナが自分に執心であることを知ると、その想いをかわすために、舞踏会でオリガをしきりに誘って、レンスキーにも見せつける。このときの熱狂を表すのが、管弦楽曲としてもしばしば演奏される「ワルツ」だ。なお、このあたりの筋は、オペラではややわかりやすく改作されていて、プーシキンの詩とはちがう部分もある。

レンスキーは嫉妬に駆られて、オネーギンと決闘する決意をする。翌朝、オリガの家に行ってみると、彼女は相変わらずレンスキーに夢中とわかる。レンスキーは拍子抜けするが、今度は、オネーギンの手から愛人を守るという正義感から、決闘は止めない(このあたりも、オペラでは刈り込まれている)。そして、ついには敗れてピストルで撃たれる。この部分、原詩では、こころならずも殺めてしまった若者の死を嘆く部分が感動的だが、オペラでは十分に描いていないところだ。

前置きが長くなったが、これでようやく協奏曲に追いついた。面白いことに、プーシキンは、オリガがレンスキーを、タチアーナがオネーギンを、それぞれ失うことになる凶事直後のことは、描いていない。オペラでは、このあとすぐにペテルブルクの公爵邸でのエピソードに移っていくが、原詩では、まだ田舎の場面がつづき、レンスキーの墓を訪れる2人の女性、つまり、オリガとタチアーナのことが、伝聞として書き込まれる。

この場面では、既にオリガは他の男のもとに嫁いでいて、タチアーナだけが行き遅れている。そのため、母親たちによって、半ば強制的にペテルブルクに連れていかれるわけであるが、その前に、実は、主のいないオネーギンの屋敷を訪れ、タチアーナがオネーギンの日記を読んで、そのこころを知る場面がある。第2楽章は実に、この数年後の田舎の場面に対応しているのだ。

したがって、この場面は、とてもロマンティックな哀しみの音楽で始まるのであるが、決闘直後の感情的な頂点は過ぎており、ちょうどワルツの熱狂から一夜明け、昨日の馬鹿さわぎは一体、何だったのだろうかといぶかしむ夜会の客たちのように、なんだか不思議で、皮肉っぽい感じがなければらなない。そして、まだまだ田舎の風景がつきまとっている。その点を、明るめで、もっともシリアスな部分でも沈みきらない響きをつくった、庄司のヴァイオリンが教えてくれる。フォルムをいじくり回すのではなく、少しヴィブラートを多めにしたり、少しだけ大げさにテンポを揺らしたりすることで、お涙頂戴というのを通り越して、そこに秘められた喜劇性を浮かび上がらせている。

皮肉といえば、レンスキーの日記を読んだタチアーナの心情は、相当に皮肉なものであったろうが、原詩でも、そこに何が書いてあったか、はっきりとは示していない。決闘のあとの姉妹の様子を書かなかったように、こうした書き落としをつくることで、プーシキンは詩というものに絶対必要な、読者の想像力とのコミュニケーションを準備しているのだ。しかし、そこで彼女は、レンスキーの紳士的な配慮を知り、つまりは、そのとき自分が、オネーギンに見合わない存在だったことを知ることになったと思う。

そのときの彼女のやるせなさを示すのが、第2楽章最後の部分だ。ここを経ると場面が変わる。リスの指揮するウラル・フィルは、第2楽章最後から終楽章に通じるブリッジを、実に美しいフォルムで描いていた。これが重要だ。なぜなら、ここで場面は田舎の領地からペテルブルクに移り、タチアーナもがらりと変身するからだ。これにつづく、最後の楽章については、次のエントリーにて。
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