2007/5/28

藤原歌劇団 リゴレット 5/27  演奏会

藤原歌劇団の「リゴレット」をみてきたが、まず、その場での感動は小さくなかった。ただし、ここのところ、藤原の公演には感動をより大きくする、プラス・アルファの要素が足りない。「リゴレット」は好きな作品だし、題名役と指揮者が良かったので、ある部分にはつよい共感を受けたのだが。

主演のアルベルト・ガザーレは、声もきれいで、よく届くし、スマートなリゴレット像をつくって秀逸だった。私のイメージするリゴレット像からすると、度を越した娘への愛情が素直すぎるように感じられ、いささか格好がよすぎるのだが、キレのいい21世紀型のリゴレットだとすれば、それはそれでいい。「悪魔め、鬼め」を中心とした第2幕おわりの歌唱は、リゴレットの異常な愛情が狂奔して、本来は少し引いてしまう場面なのだが、ガザーレに歌われると、共感を禁じ得ないのは不思議だ。

ジョエルが演出するとすれば、こういう部分に、ちゃんとサポートを入れるべきだったのではないか。ガザーレのリゴレットが、私は好きだ。感動した。しかし、それはヴェルディの描きたかった「リゴレット」であろうか?

それにしても、ガザーレの声だけで、よくあれだけもったものだ。東フィルの管弦楽は、反応が十分でないが、指揮者のリッカルド・フリッツァが、垢抜けた響きで全体を押し上げたのは立派だ。特に、第3幕は悲劇の渦中であるが、マントヴァの「女心の歌」に象徴される明るさがベースにないと、ヴェルディでなくなってしまう。その点、フリッツァはよくわかっていて、悪だくみの部分で、バスを要所で浮き立たせりもしながら、全体としては、少しひっくり返るくらいの軽さがあった。

フリッツァは、歌手の世話もせっせと焼いてくれるし、ときどきは、あの大きな体が見えなくなるほど屈み込んだりして、深いニュアンスを求めていたのがわかる。鋭く、攻めどころを押さえたアクションには満足したし、弱奏の使い方も正しくヴェルディらしいもので、若いけれど、彼はよくオペラを知っている。オーケストラは十分に応えられなかったかもしれないが、それはハーディングやルイージと共演したときにも感じたことだった。要求の高い指揮者が来ると、東フィルの実力にガタが目立ってくるのだ。とはいえ、ガザーレを唯一、助けたのは彼らであったのも事実だろう。

ジルダ(高橋薫子)は悪くはないのだが、彼女が歌うべき役柄なのかという疑問は残った。「お慕わしき方の名は」のアリアなど、高音ではやや張り上げ気味で、コントロールが効いていない感じも。いまの彼女にとっては、こうしたテクニカルに突き抜けていく部分がある役柄よりも、オペレッタのようなウィットの大事な役柄や、しっとり歌い上げる部分が際立つような役柄が似合っている。父親に許しを求める、いまわの際の大事な台詞(歌)はうまく印象づけていた。

マントヴァのダグアンノは、ロッシーニみたいなテクニカルな歌唱のほうが得意なのではないか。もっとふてぶてしくあってほしいマントヴァとしては、ちょっとハズレだった。まだまだ声も表現力も、か細いというほかない。ジルダを口説いたあと、去っていく部分が妙に巧かったり、「女心の歌」が局部的に上出来だった。

ニコラス・ジョエルの演出は、美術的には美しいものの、ほとんど何の訴えかけもない舞台で、特に述べる部分がない。コーラスの聴きごたえは良かったのだが、マントヴァの廷臣が多すぎるし、ジルダをさらいにくる人数がやたら揃っていて、ちょっと非現実的な部分もあった。これはジョエルの原案というより、公演監督の裁量の範囲かもしれない。

この劇では、ヴェルディのメッセージは錯綜している。例えば、自由というテーマでいえば、マントヴァのいうことには一理がある。リゴレットによる娘の束縛は、結局、ジルダを破滅に向かわせるだけだったことを思いだそう。しかし、マントヴァの行為は明らかに行き過ぎているのも事実だ。マッダレーナは、なぜマントヴァに同情するのか。それは、マントヴァの考え方が、結局のところ、ただの悪党でしかないマッダレーナの立場まで、落っこちていることを示すのかもしれない。

ヴェルディは、マントヴァ的な「自由」には否定的だ。しかし、そのような領主をもったときに、下々の階級は、どのように押し潰されていくかが、リゴレットに象徴されている。リゴレットは、殺し屋のスパラフチーレと結びつくことで、マントヴァに対抗できると考えた。しかし、そこには領主階級のまだしも害のない無邪気な本能と比べると、はるかにダークな世界も広がっていた。スパラフチーレにとっては、金がすべて。マッダレーナは、愛欲こそがすべてである。彼らは、リゴレットを裏切り、ジルダを殺してしまうことに。

今回の演出になにか意味があったとすれば、モンテローネの呪いの部分をしっかり印象づけたことと、スパラフチーレとリゴレットの関係を、それなりに描いたことがあるだけだろう。彭康亮と東原貞彦がそれぞれ、なかなかに頑張ってくれたせいかもしれない。リゴレットが歌うように、2人は同じなのだ。一見、リゴレットは同情的にみられるかもしれない。だが彼は、スパラフチーレと裏表だ。結局のところ、リゴレットは、自分の手でジルダを殺したのと変わらない(これは、昨夏の小森&幸田のリサイタルで教えられた)。

モンテローネは、「運命の力」のプレツィオジッラ、「マクベス」の魔女の役割をする。この道具立ては、ヴェルディにとってなくてはならないものだ。マントヴァとリゴレットが、ともに呪われるのが、この話のミソになっている。ただし、リゴレットは最愛の娘を失うのに、マントヴァには大事がないのが、すこし不思議に思われるだろう。これは結局、リゴレットには力がなかったということを示すのかもしれない。スパラフチーレの力は、金によって仮に生まれたものにすぎず、それによってマントヴァを討つはずが、マッダレーナを通して、いとも容易に、かえってマントヴァを守るものにすり替えられてしまったからだ。

それにしても、マントヴァを守ったのは、何だったのだろう? それはもしかしたら、あのばかばかしいほど素直な、女性への情熱だったのかもしれない。彼はともかく、女心がわかる。それだけが彼の取り柄であり、彼のことを守る武器だった。一方、リゴレットは、そのことがわからなかったために、ジルダを殺してしまうことになるのだ。

もしかしたら、リゴレットに妻はいなかったのではないかと思うことがある。ジルダは、どこかで拾ってきたのかもしれない。あるいは、もっと大きな罪を背負っていたのかも。だから、呪いを殊更に恐れたのか? リゴレットはどういうことか、ジルダに父の名前を問われて、答えない。道化という立場を恥じているのか? でも、自分の道化という仕事は、明らかにしているではないか。それはリゴレットだ・・・というだけのことが、なぜできないのだろうか?

その問題はともかくとしても、「リゴレット」のアイロニーは、相当に複層的なものになっていることが、いま示せたと思う。ほとんどヴェリズモ的な筋書きの上に、ヴェルディは、こんなにも多くの角度をつけているのだが、ジョエルの関心は、そこに向かなかったのであろうか?

ガザーレの歌を聴くためにあった公演だとすれば、十分に満足した公演だ。「リゴレット」も、作品として面白い。外題役が良ければ、それなりに良い舞台になろう。でも、もっと良い公演にできたはずなのではないか?


 於:東京文化会館 大ホール
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2007/5/27

ミューザ川崎 サンサンブルシリーズ 小川典子&エヴェリン・グレニー 5/26  演奏会

直前に記事を書いたが、いよいよ本番を迎えた「デイム」エヴェリン・グレニーの打楽器リサイタルは、凄いとしか言いようのない内容だった。1、2F席は何とか埋まったミューザ川崎だが、相手が耳のきこえない人であるだけに、派手な掛け声などはなかったものの、誰もがエヴェリンのパフォーマンスに夢中だった。

最初のジョン・サーサスのロック調、ジャズ調の溶けあった「ドラム・ダンス」(グレニー&スミス)から、彼女の凄さがハッキリわかった。ここでは、題名からわかるようにドラムセットを操ったエヴェリンだが、もちろん、その精確無比なリズム感は前提条件としても、あるいは、予定調和的なパフォーマンスとして聴かれるのではないかという危惧は、まったくの杞憂だった。

彼女のパフォーマンスは、まず、毅然としている。普通の奏者ならば、響きを確認しながら、思いきった動きに入っていくものだろう。だがエヴェリンは、最初の一音から驚くほどの確信に満ちて、強烈な一打を生み出す。そこに一切の迷いがないのだ。

しかし、決して機械的な音楽には聴こえない。彼女の演奏を聴いていると、エヴェリンの耳が聞こえないという事実を、誰もが忘れてしまうことだろう。完璧にアジャストされ、ホールにふうわりと広がっていくドラムの響き。弛緩なく隙のないバチさばきを見せながらも、エヴェリンの叩く音は、どこか柔らかくしなっていて、あとのMCでスミスが、エヴェリンのパフォーマンスには、いつも何かが加わっているんだというコメントは、虚言ではないと納得できる。つまり、ちゃんと1対1の室内楽になっているのだ。

前半のプログラムは、特にエヴェリンの弱音の艶やかな表現力に、うっとりとなった。彼女は何十年も前から、このホールを知り尽くしている人のように、作曲者マティアス・シュミットの愛した「マリンバの音色」を、客席のひとりひとりに、優しく送り届けた。

ピアソラ(山本京子編の4手版)の「デカリシモ」「リベルタンゴ」で、グレニーはひと休み。(MCを除く)前半唯一の出番で、さっと出てきて強烈な印象を残す小川は、やはり、タダモノではない風格。特に、すこし外れる音の弾き崩し方には、はっとさせられる。「デカリシモ」の最後で、激しい下降のパッセージで、スミス側にぐっと滑り降りていくシーンは、にもかかわらず、すべての音に適度な重みがかかっており、圧巻だった。

後半に入り、演奏するほうが楽しむ時間という感じで、グレニーと小川がそれぞれの得意分野で、コミュニケートしていくサーヴィス・タイムも楽しかった。ライヒの「クラッピング・ミュージック」は、小川がピアノから離れて1パートを受けもち、エヴェリンと拍手を交わす。小川もまた抜群のリズム感の持ち主とはいえ、これはヒヤヒヤだッたことと思う(聴いているかぎりは、まったく問題なし)。そのあと、今度はエヴェリンがひとりで、ウッドブロックとバチで、模範演技をみせた。さらに、今度はエヴェリンがピアノの連弾の席に着き、小川と隣り合って共演した。

このあたりから、アンコール・ステージのような雰囲気だが、サン=サーンスの「白鳥」も、ただのサーヴィス・プログラムではなかった。小川&スミスの連弾で、グレニーのメロディ・ラインを伴奏したのだが、これが不思議なのだ。マリンバの演奏だと、音を伸ばすのに連打をするので、ヴィブラート気味に聴こえるのが普通だ。しかし、エヴェリンは微妙にタッチを変えて、響きのムラを消し、しなやかな弦楽器のラインを浮かび上がらせたのである。とはいえ、その響きはどこかくすんだセピア色で、じんと来るものだった。

そのあと、退場する2人のピアニストを見送りながら、おもむろに叩き出したスネアドラムの響きが奇跡を起こす。はじめは、どこにでもありそうなマーチング・バンドの響き(かなり澄んではいるが)だったのに、徐々に彼女の神業が誰の耳にも明らかになる。響きは徐々に細かくなり、小さく動き出す。微妙に減衰したり、膨らんだりするが、エヴェリンの手もとを見るかぎり、ほとんど何の変化もない。

やがて、細分化された響きが混ざりはじめて、複数の太鼓があるように感じられたり、本来の太鼓の音からは、まったく想像もできない響きがやってくる。あるところから、響きを収めにかかるエヴェリンだが、やはり、手もとには大きな変化は見られず、相変わらず、しっかりした動きが刻まれている。であるにもかかわらず、先程のホール中に響きわたっていた芯のつよい響きはなくなり、耳を澄まして聴かねばならないような大きさまで縮んでいくのだ。ほとんど止まりそうになったとき、強烈な一打を刻んで終止となるが、見事な響きのマジックであった。

最後は、この企画のために用意された委嘱作だ。菅野由弘の「アース・ストリーム(大地の流れ)」を、出演者全員で演奏した。この3人をイメージして作られただけに、さすがに、それぞれの個性によく対応した音楽づくりが聴かれた。

銅鑼を叩くのに使われるような、厚い毛に覆われたバチで叩かれるドラムの響きがミソとなった。後半に現われる地震のイメージからが圧巻で、エヴェリンのドラムは、まるで和太鼓のように大らかで、深いインパクトを打って印象的だった。ピアノは、小川の喰いつくようなアクションと、スミスの理知的なコントロールが噛みあい、もちろん、打楽器のインパクトに負けていない。かくして、コーダはプログラムにあるとおり、「何かを越える瞬間」を確かに生み出していた。

アンコールに、マリンバのアクションがぴったりで、説明不要の「熊蜂の飛行」が演奏され、会場は拍手喝采に包まれた。正しく、エヴェリン・グレニーは、神が遣わしたものにちがいない。神業とは、このことだろう。私のページでは、ほとんど使うことのない言葉だが、彼女は明らかに天才だ!

【プログラム】 5月26日 18:00-

1、J.サーサス ドラム・ダンス
2、M.シュミット 6つのミニチュア
3、ピアソラ/山本京子 デカリシモ/リベルタンゴ
4、N.ジヴコヴィッチ ソナタ風に
5、L.H.スティーヴンス リズミック・カプリース
6、ライヒ クラッピング・ミュージック
7、J.サーサス 断章
8、サン=サーンス 白鳥
9、A.マッソン プリム
10、菅野由弘 アース・ストリーム

 perc:エヴェリン・グレニー

 p:フィリップ・スミス、小川典子

 於:ミューザ川崎シンフォニーホール
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